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豊国指南書
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はると雹が傍にいるおかげで、小康状態が続いた。
玄朔が言うにはこれ以上良くなることはないらしい。徐々に悪化していく一方で、現状維持しかできない。それは覚悟していたけど、真夜中一人で居るときに叫びたくなるくらい怖かった。
自分がこの世から居なくなる。とても怖いことだ。淋しいことだ。
あるいは――虚しいことだ。
でも、僕には遺せるものがあった。内政の極意が記された、僕の著作。
写本も合わせて四冊ある。渡す相手も決めていた。
しかし、機会が無い。僕が死ぬ前に渡せるだろうか。
そう考えていると、僕の友人である浅井長政が訪ねてきた。
春先のことである。
「雲之介。不義理な拙者を許してくれ。ようやく見舞いに来れた」
僕に謝りながら、見舞い品の北近江国のりんごを持ってきてくれた。
「別に構わないよ。それより前に会ったときより、元気になったね」
いつの間にか元気になった、というよりは太っていた。
初めて会ったときと同じくらいの太り具合だ。
「お市がご飯を食え食えと勧めてきてな。こんなに肥えてしまったよ」
よく見ると髪に白髪が混じっていて、僕たちは歳を取ったなと改めて思う。
「見舞いに来てくれて嬉しい。実を言うと長政に頼みたいことがあったんだ」
「おっと。その前に、一つだけ言わねばならないことがある。その上で拙者にできることなら引き受けよう」
変な言い方だった。長政なら内容を聞かずとも引き受けてくれそうなのだが。
そう思って「なんだ。隠居でもするのか?」と咳き込みながら問う。
「そうだ。昭政に家督を譲った」
「……そうか」
「だから大名としてできることは何も無い。それでもできることなら引き受けよう」
長政は律義者だなと思う。昔から本当に変わらない。
「実は、内政官としての考えをまとめた書物を、僕が死んだら各々に渡してほしいんだ」
長政は一瞬だけ悲しそうな顔をして、それからすぐに「ああ、承った」と応じた。
「それで、誰に渡せばいい?」
「一冊ずつで最初は秀勝さま。次に秀晴。そして昭政くん。最後に雹だ」
長政は「昭政にもくれるのか?」と意外そうに言う。
「娘婿だからね。これくらいしか遺せないけど、許してくれ」
「何を言うんだ。天下の名宰相と呼ばれる雲之介の内政指南書だぞ? 古今の兵法書と同じくらい価値がある」
大げさだけどありがたく言葉を受け取っておく。
「長政。世話になったね。いや、世話をかけるねのほうが正しいか」
改まってそんなことを言い出すと「水臭いこと言うなよ」と苦笑された。
「思えば、最初に出会ったとき、殴り合いしたな」
「ああ。初めて父上以外に殴られた」
「どうして、切腹させなかったんだ?」
「馬鹿なことを聞くなよ。こっちから殴りかかったんだ。それに陪臣とはいえ同盟国の家臣を切腹などできぬ……いや、そんな理屈なんてどうでもいい。あそこで切腹させたら野暮の極みだろう。拙者が恥をかく」
僕は笑いながら「格好良いなあ。長政は」と感心した。
長政は「拙者は感謝しているんだ」と力強く言い始めた。
「記憶を失くしたとき、懸命に取り戻してくれた。もしそうしてくれなかったら、どこかで野垂れ死にしただろう。霧助にも会えなかった」
「それこそ、恩に切る必要はないよ」
「拙者はな。そのときの恩を返しきれていないって思っているんだ」
少し咳込んだ後「だったら、これをきちんと届けてくれたら、ちゃらだね」と頭のほうにある棚を指差す。
長政は立ち上がって、戸棚から四冊の本を取り出した。
「なんだ。題名がないじゃないか」
「あ。忘れていた。長政、君が名付けてくれ」
長政は「拙者が?」と怪訝そうに言う。
「後世に残るような名著の題名を拙者が名付けるのか?」
「大層に考えるなよ。適当でいいさ」
長政は悩んで、それから「豊国指南書、なんてどうだ?」と思いついてくれた。
「豊臣の国。豊かな国を作る指南書。そういった意味合いがある」
「ああ。それでいい。それがいい」
僕は四冊の書物に『豊国指南書』と題名を書いた。
「これでよし。長政、託したよ」
僕は長政に手渡した。
「ああ。任せてくれ」
長政はそれを受け取った。
「うけけけ。久しぶりだな、雲之介殿」
九州攻めが終わってしばらく経った、夏と秋の半ばくらいに、黒田官兵衛がやってきた。
杖をつきながら、縁側で庭を眺めていた僕の隣に座る。
「突然の来訪だね」
「なんだ。事前に手紙でも送れば良かったのか? ふひひ」
「こちらにも出迎える準備がある」
「そんなの要らねえよ。あんたの身体に障るほど、長居するつもりはねえ」
「もし僕が死んでたらどうするつもりだった?」
「そんときはお焼香をあげるさ」
相変わらず口が上手い。勝ち目は無さそうだった。
「それで、何の用かな」
「見舞いに来ただけだ」
庭を眺めている官兵衛。僕はその横顔を見ながら「それは嬉しいね」とだけ言った。
「今まで見舞いに来なかったのに」
「恨み言言うなよ。俺だって忙しいだぜ。あひゃひゃ」
「だろうね。九州攻め、お疲れ様」
官兵衛は「あんたが兵糧管理してくれたら、かなり楽だったんだけどな」と愚痴った。
「もう少しで兵が飢え死にするところだった。ぎりぎりの勝利って奴だな。うひひ」
「それはご愁傷様だね。でも勝ちは勝ちだ」
「……半兵衛さんが、あんたを蕭何にたとえた意味がよく分かるよ」
急に真面目になった官兵衛。
いや、口調が軽いだけで冗談は言わなかったけど。
「あんたなら、豊臣家に成り代わって、天下を取れそうだな」
「過大評価だね。それにもしもでもそんな話はしないほうがいい」
「用心深いっていうより、豊臣家に対して忠誠が高いな。いや、将軍個人に対しての忠誠が高いと言い換えるべきかな」
官兵衛は溜息を吐いた。
「あんたに野心があったら、一緒に組んで天下取れたのに」
「…………」
「上様の娘婿。十分、織田家の跡を継げただろう。それだけの資格がある」
「官兵衛は、今の豊臣家に不満があるのか?」
この問いには、はっきりと答えないと思っていたけど、官兵衛はあっさりと「あるね」と答えた。
「このまま、俺は、黒田家は衰退していくだろうと思うと、賭けに出たいね」
「官兵衛……」
「でも俺だけじゃ無理だ。雲之介殿が居てくれたら、話は別だけどな」
僕は不思議でたまらなかった。
官兵衛はどうして、そんなことを言うんだろう。
「半兵衛さんが言ったとおり、太平の世に軍師は要らない。俺は必要とされなくなる」
「それが虚しいのか?」
「いい表現だな。淋しいでも悲しいでもなく、虚しい」
官兵衛は僕のほうを見た。
「俺は戦場で策を考えるのが好きだ。人を出し抜くのではなく、人を上回りたい。ただそれだけを考えるのが好きだ。でもな、雲之介殿――」
官兵衛の顔に疲れが見えた。
「――戦場でしか満足できないのなら、俺はいつまで、戦えばいいんだろうな」
あまりに悲痛な顔をしていて。
あまりに困憊な顔をしていて。
僕は何も言えなかった。
「……ふひひ。冗談だよ。太平の世で毎日楽しく暮らすのも悪くねえ」
そう言って杖を使って立つ官兵衛。
「そういえば、殿が面白え催しをするそうだぜ」
「……どんな催しかな?」
「――北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)。あんたも生きていたら参加すればいい」
そう言い残して、稀代の名軍師、黒田官兵衛孝高は去っていった。
庭の木から落ちた葉っぱが僕の膝元に舞い降りる。
その葉を手に取った。
「……僕は、それまで生きられるかな」
葉を庭へ落とす。
風に煽られて、葉は庭の池の中心に落ち、そのまま浮かんだ。
その際、波紋が生まれたけど、すぐに消えてしまった。
玄朔が言うにはこれ以上良くなることはないらしい。徐々に悪化していく一方で、現状維持しかできない。それは覚悟していたけど、真夜中一人で居るときに叫びたくなるくらい怖かった。
自分がこの世から居なくなる。とても怖いことだ。淋しいことだ。
あるいは――虚しいことだ。
でも、僕には遺せるものがあった。内政の極意が記された、僕の著作。
写本も合わせて四冊ある。渡す相手も決めていた。
しかし、機会が無い。僕が死ぬ前に渡せるだろうか。
そう考えていると、僕の友人である浅井長政が訪ねてきた。
春先のことである。
「雲之介。不義理な拙者を許してくれ。ようやく見舞いに来れた」
僕に謝りながら、見舞い品の北近江国のりんごを持ってきてくれた。
「別に構わないよ。それより前に会ったときより、元気になったね」
いつの間にか元気になった、というよりは太っていた。
初めて会ったときと同じくらいの太り具合だ。
「お市がご飯を食え食えと勧めてきてな。こんなに肥えてしまったよ」
よく見ると髪に白髪が混じっていて、僕たちは歳を取ったなと改めて思う。
「見舞いに来てくれて嬉しい。実を言うと長政に頼みたいことがあったんだ」
「おっと。その前に、一つだけ言わねばならないことがある。その上で拙者にできることなら引き受けよう」
変な言い方だった。長政なら内容を聞かずとも引き受けてくれそうなのだが。
そう思って「なんだ。隠居でもするのか?」と咳き込みながら問う。
「そうだ。昭政に家督を譲った」
「……そうか」
「だから大名としてできることは何も無い。それでもできることなら引き受けよう」
長政は律義者だなと思う。昔から本当に変わらない。
「実は、内政官としての考えをまとめた書物を、僕が死んだら各々に渡してほしいんだ」
長政は一瞬だけ悲しそうな顔をして、それからすぐに「ああ、承った」と応じた。
「それで、誰に渡せばいい?」
「一冊ずつで最初は秀勝さま。次に秀晴。そして昭政くん。最後に雹だ」
長政は「昭政にもくれるのか?」と意外そうに言う。
「娘婿だからね。これくらいしか遺せないけど、許してくれ」
「何を言うんだ。天下の名宰相と呼ばれる雲之介の内政指南書だぞ? 古今の兵法書と同じくらい価値がある」
大げさだけどありがたく言葉を受け取っておく。
「長政。世話になったね。いや、世話をかけるねのほうが正しいか」
改まってそんなことを言い出すと「水臭いこと言うなよ」と苦笑された。
「思えば、最初に出会ったとき、殴り合いしたな」
「ああ。初めて父上以外に殴られた」
「どうして、切腹させなかったんだ?」
「馬鹿なことを聞くなよ。こっちから殴りかかったんだ。それに陪臣とはいえ同盟国の家臣を切腹などできぬ……いや、そんな理屈なんてどうでもいい。あそこで切腹させたら野暮の極みだろう。拙者が恥をかく」
僕は笑いながら「格好良いなあ。長政は」と感心した。
長政は「拙者は感謝しているんだ」と力強く言い始めた。
「記憶を失くしたとき、懸命に取り戻してくれた。もしそうしてくれなかったら、どこかで野垂れ死にしただろう。霧助にも会えなかった」
「それこそ、恩に切る必要はないよ」
「拙者はな。そのときの恩を返しきれていないって思っているんだ」
少し咳込んだ後「だったら、これをきちんと届けてくれたら、ちゃらだね」と頭のほうにある棚を指差す。
長政は立ち上がって、戸棚から四冊の本を取り出した。
「なんだ。題名がないじゃないか」
「あ。忘れていた。長政、君が名付けてくれ」
長政は「拙者が?」と怪訝そうに言う。
「後世に残るような名著の題名を拙者が名付けるのか?」
「大層に考えるなよ。適当でいいさ」
長政は悩んで、それから「豊国指南書、なんてどうだ?」と思いついてくれた。
「豊臣の国。豊かな国を作る指南書。そういった意味合いがある」
「ああ。それでいい。それがいい」
僕は四冊の書物に『豊国指南書』と題名を書いた。
「これでよし。長政、託したよ」
僕は長政に手渡した。
「ああ。任せてくれ」
長政はそれを受け取った。
「うけけけ。久しぶりだな、雲之介殿」
九州攻めが終わってしばらく経った、夏と秋の半ばくらいに、黒田官兵衛がやってきた。
杖をつきながら、縁側で庭を眺めていた僕の隣に座る。
「突然の来訪だね」
「なんだ。事前に手紙でも送れば良かったのか? ふひひ」
「こちらにも出迎える準備がある」
「そんなの要らねえよ。あんたの身体に障るほど、長居するつもりはねえ」
「もし僕が死んでたらどうするつもりだった?」
「そんときはお焼香をあげるさ」
相変わらず口が上手い。勝ち目は無さそうだった。
「それで、何の用かな」
「見舞いに来ただけだ」
庭を眺めている官兵衛。僕はその横顔を見ながら「それは嬉しいね」とだけ言った。
「今まで見舞いに来なかったのに」
「恨み言言うなよ。俺だって忙しいだぜ。あひゃひゃ」
「だろうね。九州攻め、お疲れ様」
官兵衛は「あんたが兵糧管理してくれたら、かなり楽だったんだけどな」と愚痴った。
「もう少しで兵が飢え死にするところだった。ぎりぎりの勝利って奴だな。うひひ」
「それはご愁傷様だね。でも勝ちは勝ちだ」
「……半兵衛さんが、あんたを蕭何にたとえた意味がよく分かるよ」
急に真面目になった官兵衛。
いや、口調が軽いだけで冗談は言わなかったけど。
「あんたなら、豊臣家に成り代わって、天下を取れそうだな」
「過大評価だね。それにもしもでもそんな話はしないほうがいい」
「用心深いっていうより、豊臣家に対して忠誠が高いな。いや、将軍個人に対しての忠誠が高いと言い換えるべきかな」
官兵衛は溜息を吐いた。
「あんたに野心があったら、一緒に組んで天下取れたのに」
「…………」
「上様の娘婿。十分、織田家の跡を継げただろう。それだけの資格がある」
「官兵衛は、今の豊臣家に不満があるのか?」
この問いには、はっきりと答えないと思っていたけど、官兵衛はあっさりと「あるね」と答えた。
「このまま、俺は、黒田家は衰退していくだろうと思うと、賭けに出たいね」
「官兵衛……」
「でも俺だけじゃ無理だ。雲之介殿が居てくれたら、話は別だけどな」
僕は不思議でたまらなかった。
官兵衛はどうして、そんなことを言うんだろう。
「半兵衛さんが言ったとおり、太平の世に軍師は要らない。俺は必要とされなくなる」
「それが虚しいのか?」
「いい表現だな。淋しいでも悲しいでもなく、虚しい」
官兵衛は僕のほうを見た。
「俺は戦場で策を考えるのが好きだ。人を出し抜くのではなく、人を上回りたい。ただそれだけを考えるのが好きだ。でもな、雲之介殿――」
官兵衛の顔に疲れが見えた。
「――戦場でしか満足できないのなら、俺はいつまで、戦えばいいんだろうな」
あまりに悲痛な顔をしていて。
あまりに困憊な顔をしていて。
僕は何も言えなかった。
「……ふひひ。冗談だよ。太平の世で毎日楽しく暮らすのも悪くねえ」
そう言って杖を使って立つ官兵衛。
「そういえば、殿が面白え催しをするそうだぜ」
「……どんな催しかな?」
「――北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)。あんたも生きていたら参加すればいい」
そう言い残して、稀代の名軍師、黒田官兵衛孝高は去っていった。
庭の木から落ちた葉っぱが僕の膝元に舞い降りる。
その葉を手に取った。
「……僕は、それまで生きられるかな」
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