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Ⅱ.体に優しいお野菜編
70.迷い星②
しおりを挟むすっと顔を背け俯く僕を、忌々しそうに睨んでいるのが気配で分かる。
「相変わらず、暗いやつ。何か言えないの?」
立ち入り禁止の屋上は、日常の煩わしい喧噪から、逃れられる唯一の場所だった。
穏やかに吹く風と外の空気が、僕のどろどろとしたものを薄めてくれるような気がするから。
憂鬱なことがあったときには、屋上で過ごす。つまり、いつも屋上で過ごしているのだけど。
それも、今日で終わりだな。
優利にバレて、僕の安寧が保たれたことは一度だってないから。
「早く帰って、家のこと………は?何。お前泣いてんの?」
自分が泣いていることも忘れて、声の主を見る。
一卵性で、声も容姿も同じはずなのに、全然僕とは違う顔、違う声、違う動作。
自信に満ちた弟は、誰からも愛される整った容姿と、巧みな話術、そして秀でた対人能力と頭脳をもっていて、運動神経も抜群だ。
僕とは、どこまでも似ていない。
お腹の中で、全部優利に吸われたんだね、てずっと言われ続けてる。
足早に近づく彼は、僕の前まで来ると、手の中にあった本を素早く取り上げた。
「は?本?お前、本買う金なんて、どうしたんだよ」
どうもしない。ただ、なけなしのお金で買っただけだ。
「ふーん……『救済の予言、竜と共にある者』。ああ、今流行ってるやつじゃん。
何?流行りの本を読めば、友達ができるとでも思ってんの?」
そんなこと思ってない。この本が、流行っているなんてことも今知った。確かに、本屋の目立つところに陳列されていたけれど。
「それともなんだ?もしかして、異世界転移の願望でもあるの?世界救いたいとか?なんだよそれ、ウケるんだけど」
「お前が主人公なんて、笑わせるなよ。お前みたいのに転移してこられても、あっちは大迷惑だっつーの」
「お前に、こんなの読む暇あるわけ?こんな暇があるなら、勉強でもしろよ。やっても、救いようがないほど馬鹿なんだから。
双子の兄がこんな根暗で、鈍くて、馬鹿なんて。生徒会長やってる俺の身にもなってくれる?」
優利は、一切反論しない、反応すらしない僕に、いつものように一方的にまくし立てた。
正直、僕もなぜこの本を買ったのかわからない。
立ち寄った本屋で、吸い寄せられるように手にした一冊の本。
毎月の少ないおこずかいは、ほとんどが学用品や食べ物を買うために消えてしまうから、本を買う余裕なんて全然ない。いつもは、図書室で借りるだけだ。
初めて、本にお金を使った。初めて、欲しいものを買った。
お陰で、今月はもう学食でお昼を買うこともできないのに。ホント、なんで買っちゃったんだろう。
でも、確かなのは、この本が初めてで唯一の僕の本だ。
「……………それ、返して」
「………は?」
え……?
「今の、俺に言った?返せって?は?意味わかんないんだけど」
あ。優利、ものすごく怒ってる。
あれ?今、僕が言ったよね?僕が、返してって言ったんだよね……?
僕自身、何を言ったのかすぐには理解できなかった。
いまさら自分で、自分の発した言葉が信じられなくて、僕が呆然とする中、その人の顔がみるみる怒りに歪むのが分かった。
でも、優利が険しい表情になったのはほんの数秒だった。
ゆっくりと変わる表情を、僕はまるでスローモーションで見るかのように追った。
優し気に目を細め、唇が左右対称に弧を描く。
笑ってるのに、笑ってない。知ってる。これは怖い笑顔だ。
ぞくりと一瞬で身が竦む。蛇ににらまれたカエルのごとく、身動きが取れなくなる。
抵抗すれば、反論すれば、より相手を苛立たせ、面倒なことになるとずっとずっと昔に学んで以来、ただ嵐が去るのをうずくまって、耐えるのが常だったのに。
だから、これまでも受け流してきたんじゃないか。
本を取り上げられた時だって、一切の抵抗をしなかったのに。
「そんなに、大事なものなら、俺が大切にしてあげるよ。
父さんと母さんにも、お前が知らない本を持ってたって、教えてあげるから」
それはつまり、僕がお金を勝手に持ち出して……おそらく、両親の財布からお金を盗んで、本をとったのだと、告げ口されるということを意味する。
弟の言うことを、両親は疑わない。無条件に信じる。
僕の言うことは、両親は信じない。事実であっても、必ず疑われ、間違っていようと真実になる。
そして、この本は二度と僕の手には帰ってこない。
「やだっ……やめて、やめてよ……」
たった一冊の本に、なんでこんなに必死になってるんだろう。
縋る僕に嗜虐的な笑みを浮かべる。こうなるって、わかってるじゃないか。僕が必死になれば、弟を煽るだけで、より楽しませ、僕はより悲惨な目に合うだけなのに。
本を上へと掲げる弟は、本を必死に取り戻そうとする僕を、嘲笑って身軽な身のこなしで、屋上の柵の外へと手を伸ばした。
親指と人差し指、中指の3本で摘ままれた僕の本は、今にも投げ捨てられてしまいそうだ。
「いやだ……ダメだよ、優利……っ!」
僕はもう、本しか目に入らなかった。吸い寄せられるように本へと飛びついて、ぐっとお腹に体重がかかったのも一瞬だった。
次の瞬間には僕の身体が宙に浮いて、そして自由になった。
4階建ての学校の屋上。フェンスを乗り越えた僕の身体。
ひっと喉が引き攣った悲鳴が、後ろから聞こえたような気がした。
あ、落ちる。
奇妙なほどにゆっくりと視界の全てが網膜から脳へとたどり着いて、処理されていく。
空が青い。こんなに、空は青かったのか。まるで、空を飛んでいるみたいだ。
弟が、こちらに手を伸ばして叫んでいるような気がしたけど、幻覚か、パフォーマンスだろうな、と思った。
大きな衝撃が全身を襲って、僕は真っ暗な中に一人、打ち上げられた。
『一人で、屋上に行くのが見えて……後を追ったら……。
何かを思い詰めていたみたいで……っ』
『俺、止めたんです!だけど……全然、聞いてくれなくて……っ。そのまま、柵を乗り越えて……俺、止められなかった……っ。兄さんの何もわかってなかった、ごめん……兄さん、ごめん……』
弟の両手で覆われた泣き顔が、口だけ綺麗に弧を描いているのが見えた。
痛くも、痒くもない。ほっとしている自分がいる。長く暗い時間が終わって、ほっとしている自分が。
「あ、……や……さむい……さむい……」
暗いのは平気だ。
だけど、寒いのは嫌だ。
一人で温まろうとしても全然温かくはなれないから。
ああ、すごく寒い。寒いなぁ……。
誰か僕に寄り添って。僕を温めてよ。
その願いを叶えてくれるなら、他のすべては全部あげるから。
最期に僕が見たのは、真っ白で温かな光だった。
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