『総理になった男』

KAORUwithAI

文字の大きさ
6 / 179
第1部:序章 - 無名の挑戦

第6話 無職、街頭へ立つ

しおりを挟む
実家から届いた段ボール箱を開けると、丁寧に畳まれたネイビーのスーツと、一足の黒い革靴が入っていた。

スーツは父が若い頃、営業マン時代によく着ていたものだという。
健人が生まれる前、何十年も前の話だ。

少し肩幅が広く、袖丈も長い。
でも、袖を通した瞬間、不思議と背筋が伸びる気がした。
「これを着て、父は家族を支えていたんだな」──そんな思いが胸に染みる。

ポケットの内側には、小さな付箋が一枚、ペタリと貼ってあった。

──がんばれ。

滲むような丸い筆跡。母の文字だった。
それを見た瞬間、何かが胸の奥でじんわりと溶けていく。

「……ありがとう」

誰にでもなく、健人は小さく呟いた。


翌日。
コンビニで名刺とビラを印刷した。パソコンでテンプレートを使って作ったものの、素人感は否めない。余白のバランスは崩れ、レイアウトも雑。名刺の印字は少しズレて、文字がにじんでいた。

それでも彼は、笑っていた。

「まあ、いっか。今の俺っぽいしな」

100円コピー機から出てきた紙を、大切そうに鞄へしまい込む。


市役所へ行き、街頭演説の使用許可を申請する。

「どちらの政党ですか?」と窓口の職員に聞かれ、彼は迷いなく答えた。

「無所属です」

訝しむような視線を浴びたが、気にしなかった。
これが、“普通じゃないこと”なんだと改めて思う。

政党にも組織にも頼らず、ただ一人で声を上げようとする人間に対して、制度は冷たい。

それでも、申請書にはしっかりと印が押された。


その日の午後。
駅前のロータリーには、通勤客が途切れず行き交っていた。

健人の手には、ビラと名刺の入ったトートバッグだけ。
マイクもスピーカーもない。看板もない。選挙カーなど最初から持っていない。

ただ、自分の声だけが、唯一の“武器”だった。

歩道の端に立ち、深く息を吸う。
だが、最初の言葉が喉につかえて出てこない。

スマホを見ながら歩く人々、イヤホンをして周囲を遮断する人、スーツ姿で早足のサラリーマンたち。
誰も彼を見ない。見えていても、見ないふりをしている。

まるで、自分が“存在しないもの”になったようだった。

心臓の音がうるさく鳴る。冷たい汗が背中をつたう。
だが、父のスーツの重みが、そっと背中を押した。

「坂本健人……立候補を、決めました」

かすれた声だった。震えていた。
それでも、彼は言った。確かに、口にした。


しかし、人々は誰一人として立ち止まらない。
誰も聞かない。誰も見ない。まるで、彼の存在など初めからなかったかのように。

それでも、健人は声を張った。

「この国には……もう一度、やり直すチャンスが必要です!」

「格差、年金、教育、少子化、そして政治の信頼──全部、ボロボロじゃないですか!」

「でも、僕たちの声は、まだ……ここに、残ってるんです!」

足が震え、紙を落とし、言葉が詰まっても。
健人は、何度も、何度も、話し続けた。

通りすがりのサラリーマンが嘲るように笑い、言った。

「お前、何言ってんのか分かんねぇよ」

その言葉が、冷たい風よりも鋭く胸を突き刺した。
けれど、彼は目を逸らさなかった。

「聞こえなくてもいい。届かなくてもいい。でも、僕は話します!」

叫ぶように放ったその声には、怒りと希望と、諦めない意思が宿っていた。


手はかじかみ、足の感覚もほとんどなかった。
喉はカラカラで、唇はひび割れていた。

それでも、最後の一言を絞り出すように叫んだあと――
ふいに、“ぱちん”と乾いた音が耳に届いた。

拍手だった。

驚いて振り返ると、制服姿の少女が静かに佇んでいた。

彼女は、小さな紙コップに入った水を差し出した。

「頑張ってください」

その一言に、健人は深く頭を下げた。

たった一人。たった一人の聴衆の笑顔。

でも、それで十分だった。
それだけで、“声を上げる意味”が確かにあると思えた。


“無関心の海に、声を投げる。
届かなくてもいい。
でも、波紋が広がれば、きっと誰かが気づく。
そして、たった一人でも応えてくれたなら──
その声は、もう独りじゃない。”
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

処理中です...