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第1部:序章 - 無名の挑戦
第38話 議員会館の迷子
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――議員会館。
初めて一人で歩くその廊下は、健人にとって異世界そのものだった。
白く磨かれた床はやけに広く感じ、左右に同じようなドアが無数に並ぶ。ドアには小さなプレートがついているが、そこに書かれた「分科会控室」「委員室第○号」「予算調査会準備室」といった言葉は、まだ新人の彼にはほとんど意味をなさなかった。
足音がやけに響く。自分の存在だけが浮き上がり、壁に反射して押し返されてくるような感覚。
健人は思わずポケットに手を入れた。そこには、母から受け取った小さな付箋紙――「がんばれ」と書かれたあの紙切れがある。指先でそれに触れると、心臓の鼓動がわずかに落ち着いた。
だが、次の瞬間また不安が襲う。予定された会議はもうすぐ始まるはずなのに、目的の部屋が見つからない。
健人は立ち止まり、壁に掛けられた案内板を凝視した。
「○○委員会室→」「予算分科会控室→」「調査会会場→」……。
どれが自分の行き先なのか、さっぱりわからない。
矢印は右も左も示していて、しかも途中で枝分かれしている。
「なんだこれ……」
額にうっすら汗がにじむ。
ポケットからスマートフォンを取り出し、真田に電話をかけようとした。だが画面に表示されたのは「圏外」。この重厚な建物の中では電波が遮られてしまうらしい。
「嘘だろ……」
心の中で呻く。
そのとき、廊下の向こうから堂々とした足取りで歩いてくる人物がいた。年配のベテラン議員だ。
健人は慌てて深々と頭を下げる。
「おはようございます!」
しかし、相手はまったく反応を示さず、そのまま通り過ぎていった。
まるで壁に声を投げかけたかのような虚しさ。健人の胸に冷たいものが走る。
「……相手にされないのか」
心の奥にぽっかりと穴が空くような感覚が広がる。
周囲からはコピー機の印刷音、秘書たちが書類を抱えて走り抜ける足音、電話に応対する声――慌ただしく流れる日常が聞こえる。だがその全てが、自分とは無関係の遠い世界の音のように感じられた。
同じフロアを何度も回り、すでに何分経ったかわからない。時計の針が無情に進むのを見て、焦りで喉が渇いた。
角を曲がった先で、ひとりの若いスーツ姿の男性と鉢合わせた。彼も落ち着かない様子で周囲を見回している。
「あの……○○委員会室ってどちらにありますか?」
思わず声をかけると、男は苦笑した。
「実は俺も探してるんです」
二人は顔を見合わせて、同時に苦笑いした。
迷子同士――それだけで、ほんの少し肩の力が抜けた。
やっとの思いで受付のような場所に辿り着いた。カウンターの女性職員が時計を見て、眉をひそめる。
「もう時間ギリギリですよ。急いでください」
その言葉に健人は何度も頭を下げ、走るように再び廊下へ。
目の前を、秘書バッジをつけた人々が軽快に走り抜けていく。片手に大量の資料を抱えながらも、迷いのない足取り。
「やっぱり俺は新米なんだな……」
そんな思いが胸を刺す。
やっと目的の会議室を見つけたのは、会議開始から数分後だった。
扉を開けた瞬間、室内の視線が一斉にこちらへ向けられる。空気が凍りついた。
「……遅れてすみません」
深く頭を下げて席に着く。頬に熱が上り、耳まで赤くなっているのがわかった。
背後をそっと振り返ると、傍聴席に真田の姿が見えた。彼は口を結び、小さく頷いてから親指を立ててみせた。
その何気ない仕草が、健人にとっては救いだった。
「俺は一人じゃない」
胸の奥に再び小さな火が灯る。
ノートを開き、必死にメモを取る。だが緊張で手が震え、文字がところどころ掠れていた。
気づけば、会議はあっという間に終了の鐘を告げていた。机の上にはびっしりと走り書きが残っているが、「発言欄」だけは空白のまま。
控室に戻ると、田島が資料の束を抱えたまま駆け寄ってきた。
「どうだった?」
健人は苦笑して答えた。
「俺なんて、いないも同然だったよ」
少し遅れて真田もやって来る。
「それでも、確かに一つの席を埋めました」
真田の声は静かだったが力強い。「新人でも無所属でも。今日、あなたがそこに座ったことが事実になるんです」
健人は深く息を吐き、胸のバッジに触れた。
「これからだな」
その夜、事務所に戻った健人は机にノートを広げ、今日の出来事を短く書き残した。
〈迷うのは新人の証。迷った道も、経験に変える〉
ペンを置き、ノートを閉じる。
議員会館という迷路の中でも、自分は出口を探して進んでいく――その決意だけは揺らがなかった。
”迷路のような議事堂でも、出口は必ずある。迷った数だけ、進む道を覚えていけばいい。“
初めて一人で歩くその廊下は、健人にとって異世界そのものだった。
白く磨かれた床はやけに広く感じ、左右に同じようなドアが無数に並ぶ。ドアには小さなプレートがついているが、そこに書かれた「分科会控室」「委員室第○号」「予算調査会準備室」といった言葉は、まだ新人の彼にはほとんど意味をなさなかった。
足音がやけに響く。自分の存在だけが浮き上がり、壁に反射して押し返されてくるような感覚。
健人は思わずポケットに手を入れた。そこには、母から受け取った小さな付箋紙――「がんばれ」と書かれたあの紙切れがある。指先でそれに触れると、心臓の鼓動がわずかに落ち着いた。
だが、次の瞬間また不安が襲う。予定された会議はもうすぐ始まるはずなのに、目的の部屋が見つからない。
健人は立ち止まり、壁に掛けられた案内板を凝視した。
「○○委員会室→」「予算分科会控室→」「調査会会場→」……。
どれが自分の行き先なのか、さっぱりわからない。
矢印は右も左も示していて、しかも途中で枝分かれしている。
「なんだこれ……」
額にうっすら汗がにじむ。
ポケットからスマートフォンを取り出し、真田に電話をかけようとした。だが画面に表示されたのは「圏外」。この重厚な建物の中では電波が遮られてしまうらしい。
「嘘だろ……」
心の中で呻く。
そのとき、廊下の向こうから堂々とした足取りで歩いてくる人物がいた。年配のベテラン議員だ。
健人は慌てて深々と頭を下げる。
「おはようございます!」
しかし、相手はまったく反応を示さず、そのまま通り過ぎていった。
まるで壁に声を投げかけたかのような虚しさ。健人の胸に冷たいものが走る。
「……相手にされないのか」
心の奥にぽっかりと穴が空くような感覚が広がる。
周囲からはコピー機の印刷音、秘書たちが書類を抱えて走り抜ける足音、電話に応対する声――慌ただしく流れる日常が聞こえる。だがその全てが、自分とは無関係の遠い世界の音のように感じられた。
同じフロアを何度も回り、すでに何分経ったかわからない。時計の針が無情に進むのを見て、焦りで喉が渇いた。
角を曲がった先で、ひとりの若いスーツ姿の男性と鉢合わせた。彼も落ち着かない様子で周囲を見回している。
「あの……○○委員会室ってどちらにありますか?」
思わず声をかけると、男は苦笑した。
「実は俺も探してるんです」
二人は顔を見合わせて、同時に苦笑いした。
迷子同士――それだけで、ほんの少し肩の力が抜けた。
やっとの思いで受付のような場所に辿り着いた。カウンターの女性職員が時計を見て、眉をひそめる。
「もう時間ギリギリですよ。急いでください」
その言葉に健人は何度も頭を下げ、走るように再び廊下へ。
目の前を、秘書バッジをつけた人々が軽快に走り抜けていく。片手に大量の資料を抱えながらも、迷いのない足取り。
「やっぱり俺は新米なんだな……」
そんな思いが胸を刺す。
やっと目的の会議室を見つけたのは、会議開始から数分後だった。
扉を開けた瞬間、室内の視線が一斉にこちらへ向けられる。空気が凍りついた。
「……遅れてすみません」
深く頭を下げて席に着く。頬に熱が上り、耳まで赤くなっているのがわかった。
背後をそっと振り返ると、傍聴席に真田の姿が見えた。彼は口を結び、小さく頷いてから親指を立ててみせた。
その何気ない仕草が、健人にとっては救いだった。
「俺は一人じゃない」
胸の奥に再び小さな火が灯る。
ノートを開き、必死にメモを取る。だが緊張で手が震え、文字がところどころ掠れていた。
気づけば、会議はあっという間に終了の鐘を告げていた。机の上にはびっしりと走り書きが残っているが、「発言欄」だけは空白のまま。
控室に戻ると、田島が資料の束を抱えたまま駆け寄ってきた。
「どうだった?」
健人は苦笑して答えた。
「俺なんて、いないも同然だったよ」
少し遅れて真田もやって来る。
「それでも、確かに一つの席を埋めました」
真田の声は静かだったが力強い。「新人でも無所属でも。今日、あなたがそこに座ったことが事実になるんです」
健人は深く息を吐き、胸のバッジに触れた。
「これからだな」
その夜、事務所に戻った健人は机にノートを広げ、今日の出来事を短く書き残した。
〈迷うのは新人の証。迷った道も、経験に変える〉
ペンを置き、ノートを閉じる。
議員会館という迷路の中でも、自分は出口を探して進んでいく――その決意だけは揺らがなかった。
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