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第4章
第三話
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ゼミ説明会の季節が、本格的に動きはじめた。
蛍はジェンダー経済学ゼミの説明会で健吾の姿を見つけたが、彼の周りには質問を抱えた学生たちが幾重にも輪を作っていた。
熱心に説明する健吾の声は聞こえても、近づく隙はない。
蛍は遠巻きに眺めながら、健吾が研究内容について語る表情の真剣さに見入っていた。
あの輪に入る勇気が、まだ足りない。
真帆も金融系ゼミの説明会に参加したものの、帰り道では肩を落としていた。
「やっぱり無理かも。成績の基準が思ってたより高い」
地域経済学ゼミへの方向転換を検討せざるを得ない状況だった。
その一方で、サークル合同バーベキューの準備も並行して進んでいる。
「会場の予約、取れた?」
映像研究会の部室で智也が確認する。
「うん、なんとか。でも去年より値上がりしてる」
蛍がため息をついた。
「参加費、少し上げないと厳しいかも」
蛍は参加者リストを見直し、ふと相手方の進捗が気にかかった。
食材の発注や当日の役割分担など、詰めるべき項目が山積みだった。
メッセージより直接話すほうが早い、と判断して体育館へ向かう。
夕暮れの光が、ワックスの効いた床に長い帯を落としている。
練習を終えた学生たちの声が廊下へ遠のき、空気が静けさを取り戻しはじめていた。
入口から覗くと、桜庭の姿がある。真帆はいない。
見慣れない学生が桜庭と何か話をしているようだった。
「さく」
声をかけると、桜庭が振り向いた。
「あっ、白石」
そのとき、桜庭と話していた学生が蛍に視線を向けた。
背が高く、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っている。
その瞳には冷ややかというより、温度の定まらない複雑な色があった。
――アルファだ。
抑制剤が普及した今でも、鈍い蛍にさえ分かるほどの存在感があった。
本能的な警戒心が、かすかに首筋を這う。まるで、品定めされているような居心地の悪さ。
「今、ちょっと時間ある?」
「ああ、大丈夫」
桜庭は周囲に軽く手を振り、蛍のほうへ歩いてくる。
二人は入口近くで立ち話に移った。
「バーベキューの件で確認したいことがあって。参加人数、どのくらいになりそう?」
「うちは二十人くらいかな。そっちは?」
「映研も同じくらい。会場費の分担、どうする?」
蛍が疑問点を一つずつ投げると、桜庭が端的に返す。
必要な情報だけが、無駄なく行き交う。
時々、桜庭の口元に小さな笑みが灯った。
「食材の買い出しは当日? それとも前日にしちゃ?」
「前回と同じく、野菜は前日、肉は当日の朝に行こうかと思ってる」
「そっか、前回は買い出しお任せしちゃったよね。今回はこっちでも一部準備しようか?」
「そうだな。前回より人数多そうだし、そうしてもらえると助かる。野菜は冷蔵庫の問題もあるしな」
そんな実務的な話が続く中で、蛍はふと気になることを口にした。
「真帆は? 今日練習に来てないの?」
「ああ、相沢さんはバイトって言ってたかな。最近忙しそうだし」
桜庭の表情は変わらない。
誰に対しても同じ温度で接する、その一貫した距離感。
真帆の名前を出されても、特別な反応は見せなかった。
蛍は少しだけ、真帆のために残念に思う。
話が一段落すると、蛍はさきほどの学生がまだこちらを見ている気配に気づいた。
直接的な視線ではないが、意識を向けられているのを感じる。
「あの人、一年生?」
「ああ、そう。神崎っていうんだ、今年入った」
「ふうん」
桜庭が振り返ると、神崎と呼ばれた学生は無表情のまま軽く会釈する。
蛍も会釈を返した。
整った顔立ちだが、人を寄せ付けない空気を纏っている。
(ずっとこっち見てる。俺がオメガだってバレたんだろうな)
蛍は分かりやすいオメガだ。
外見も中性的なため、ベータであっても蛍のことを「オメガっぽい」と感じることは多いらしい。
神崎ほど存在感の強いアルファであれば、正確に見破ることは造作もないだろう。
ただ、その視線に込められた意味が読めない。
興味なのか、値踏みなのか。
それとも、別の何かなのか。
「じゃあ、詳細はまた後で連絡するよ」
「うん、ありがとう。よろしく」
体育館を出る。
外は群青色に沈み、ガラスに映る照明が点々と揺れた。
蛍は歩きながら頭の中で情報を整理する。
準備は順調。参加人数も見通せた。真帆と桜庭の間に、目に見える進展は――少なくとも今はない。
むしろ最近の真帆は、バイト先で知り合った誰かとのメッセージに夢中だ。
昼休みにも、スマートフォンを見つめて小さく微笑んでいる姿をよく見かける。
桜庭への熱は、ほんの少し、温度を下げているようだった。
それはそれで、真帆にとっては良いことなのかもしれない。
一年近い片思いから、ようやく別の可能性に目を向け始めている。
人は、諦めることで新しい扉を開くこともある。
夏の気配を帯びた風が、キャンパスの並木をさやさやと鳴らす。
蛍はそんなことを考えながら、夕暮れのキャンパスを歩いた。
自分の恋も、真帆の恋も、それぞれが新しい局面を迎えようとしているのかもしれない。
蛍はジェンダー経済学ゼミの説明会で健吾の姿を見つけたが、彼の周りには質問を抱えた学生たちが幾重にも輪を作っていた。
熱心に説明する健吾の声は聞こえても、近づく隙はない。
蛍は遠巻きに眺めながら、健吾が研究内容について語る表情の真剣さに見入っていた。
あの輪に入る勇気が、まだ足りない。
真帆も金融系ゼミの説明会に参加したものの、帰り道では肩を落としていた。
「やっぱり無理かも。成績の基準が思ってたより高い」
地域経済学ゼミへの方向転換を検討せざるを得ない状況だった。
その一方で、サークル合同バーベキューの準備も並行して進んでいる。
「会場の予約、取れた?」
映像研究会の部室で智也が確認する。
「うん、なんとか。でも去年より値上がりしてる」
蛍がため息をついた。
「参加費、少し上げないと厳しいかも」
蛍は参加者リストを見直し、ふと相手方の進捗が気にかかった。
食材の発注や当日の役割分担など、詰めるべき項目が山積みだった。
メッセージより直接話すほうが早い、と判断して体育館へ向かう。
夕暮れの光が、ワックスの効いた床に長い帯を落としている。
練習を終えた学生たちの声が廊下へ遠のき、空気が静けさを取り戻しはじめていた。
入口から覗くと、桜庭の姿がある。真帆はいない。
見慣れない学生が桜庭と何か話をしているようだった。
「さく」
声をかけると、桜庭が振り向いた。
「あっ、白石」
そのとき、桜庭と話していた学生が蛍に視線を向けた。
背が高く、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っている。
その瞳には冷ややかというより、温度の定まらない複雑な色があった。
――アルファだ。
抑制剤が普及した今でも、鈍い蛍にさえ分かるほどの存在感があった。
本能的な警戒心が、かすかに首筋を這う。まるで、品定めされているような居心地の悪さ。
「今、ちょっと時間ある?」
「ああ、大丈夫」
桜庭は周囲に軽く手を振り、蛍のほうへ歩いてくる。
二人は入口近くで立ち話に移った。
「バーベキューの件で確認したいことがあって。参加人数、どのくらいになりそう?」
「うちは二十人くらいかな。そっちは?」
「映研も同じくらい。会場費の分担、どうする?」
蛍が疑問点を一つずつ投げると、桜庭が端的に返す。
必要な情報だけが、無駄なく行き交う。
時々、桜庭の口元に小さな笑みが灯った。
「食材の買い出しは当日? それとも前日にしちゃ?」
「前回と同じく、野菜は前日、肉は当日の朝に行こうかと思ってる」
「そっか、前回は買い出しお任せしちゃったよね。今回はこっちでも一部準備しようか?」
「そうだな。前回より人数多そうだし、そうしてもらえると助かる。野菜は冷蔵庫の問題もあるしな」
そんな実務的な話が続く中で、蛍はふと気になることを口にした。
「真帆は? 今日練習に来てないの?」
「ああ、相沢さんはバイトって言ってたかな。最近忙しそうだし」
桜庭の表情は変わらない。
誰に対しても同じ温度で接する、その一貫した距離感。
真帆の名前を出されても、特別な反応は見せなかった。
蛍は少しだけ、真帆のために残念に思う。
話が一段落すると、蛍はさきほどの学生がまだこちらを見ている気配に気づいた。
直接的な視線ではないが、意識を向けられているのを感じる。
「あの人、一年生?」
「ああ、そう。神崎っていうんだ、今年入った」
「ふうん」
桜庭が振り返ると、神崎と呼ばれた学生は無表情のまま軽く会釈する。
蛍も会釈を返した。
整った顔立ちだが、人を寄せ付けない空気を纏っている。
(ずっとこっち見てる。俺がオメガだってバレたんだろうな)
蛍は分かりやすいオメガだ。
外見も中性的なため、ベータであっても蛍のことを「オメガっぽい」と感じることは多いらしい。
神崎ほど存在感の強いアルファであれば、正確に見破ることは造作もないだろう。
ただ、その視線に込められた意味が読めない。
興味なのか、値踏みなのか。
それとも、別の何かなのか。
「じゃあ、詳細はまた後で連絡するよ」
「うん、ありがとう。よろしく」
体育館を出る。
外は群青色に沈み、ガラスに映る照明が点々と揺れた。
蛍は歩きながら頭の中で情報を整理する。
準備は順調。参加人数も見通せた。真帆と桜庭の間に、目に見える進展は――少なくとも今はない。
むしろ最近の真帆は、バイト先で知り合った誰かとのメッセージに夢中だ。
昼休みにも、スマートフォンを見つめて小さく微笑んでいる姿をよく見かける。
桜庭への熱は、ほんの少し、温度を下げているようだった。
それはそれで、真帆にとっては良いことなのかもしれない。
一年近い片思いから、ようやく別の可能性に目を向け始めている。
人は、諦めることで新しい扉を開くこともある。
夏の気配を帯びた風が、キャンパスの並木をさやさやと鳴らす。
蛍はそんなことを考えながら、夕暮れのキャンパスを歩いた。
自分の恋も、真帆の恋も、それぞれが新しい局面を迎えようとしているのかもしれない。
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