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第4章
第十話
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その夜、蛍は天井の木目を数えるふりをして、ただ目を開けていた。
脳裏では健吾の言葉が、秒針のように正確に戻ってきては胸を打つ。
――事故で番になった。
――恋愛感情があったわけではない。
――でも、責任はある。
思い描いていた「恋人がいる健吾」が、音もなく裏返る。
幸福の輪郭ではなく、責任という重みを肩にのせ続ける人の背中。
自分の幸せを削って、誰かを守り続ける人の横顔。
そして、最後のひと言。
――蛍にはそうなってほしくない。
保護者としての心配なのか、それとも別の意味があるのか。
考え始めれば、思考は同じ場所で足踏みを繰り返す。
だけど一つだけはっきりしていた。
健吾への想いは、薄れるどころか、輪郭をくっきりと増している。
枕に顔を埋めると、健吾の声が蘇る。
『俺の幸せより、尚を守ることの方が大事だ』
その言葉の重さを蛍がどれほど理解できるかはわからない。健吾はどれほど孤独な責任を背負っているのだろう。
数日後の夕方、蛍はスマホを親指でなぞり、深呼吸をひとつ。桜庭にメッセージを送る。
「今度、時間があるときに相談したいことがあるんだけど……」
返信はすぐだった。
『明日の夜なら空いてる』
待ち合わせは駅前の居酒屋街。
提灯の赤が水たまりに滲み、焼き台の煙が路地を薄く曇らせる。
桜庭が選んだのは、襖で区切られた個室の店だった。
低い音楽と、遠くの笑い声だけが壁越しに揺れる。
「お疲れ」
「さくもお疲れさま」
注文を終えると、桜庭がグラスの縁を指で拭い、視線で促す。
「で、相談って?」
蛍は少し間を置いてから切り出した。
「実は、好きな人がいるんだけど……その人には番がいて」
桜庭の表情がすっと引き締まる。
「でも、最近その人から聞いたんだ。番との関係は、恋愛関係じゃないって」
「え?」
「事故で番になったらしくて。お互い恋愛感情はないけど、責任は感じてるって」
桜庭の目が一瞬だけ曇り、バーベキューの日の記憶をなぞった気配が走る。
「事故で……ヒートの時に?」
「たぶん。詳しくは聞けなかったけど」
「その人、アルファ?」
「うん」
「そっか……」
氷がコトンと鳴った。桜庭はグラスをひと回ししてから、真正面から問う。
「それで、白石はどうしたい?」
「わからない。諦めるべきなのか、それとも……」
声が自然と小さくなる。
「その人は何て言ってた?」
「『俺の幸せより相手を守ることの方が大事』って。『蛍にはそうなってほしくない』とも」
桜庭は眉を寄せる。
「それって、本当に相手のためになってるのかな」
「え?」
「相手だって、その人が不幸でいることを望んでないと思う。特に、事故だったなら余計に」
言葉が、胸の奥にすっと入ってくる。
「責任感が強いのは良いことだけど、それで自分を犠牲にしすぎるのは、結局誰のためにもならないんじゃないか」
「そうかな……」
「その人も、自分を縛りすぎてるんじゃないかな」
蛍は目を見開く。見たくても見えなかった角度を、桜庭の声が照らしていく。
「でも、番に捨てられたオメガは悲惨っていう話も聞くしな……。つい白石に有利なほうに話しちゃったけれど、難しいよな」
桜庭はグラスを置き、まっすぐに言う。
「番破棄の影響って実際はどうなんだろうね」
「さあ。俺、その辺の知識は全然ないんだ、悪い」
「いや、知る機会ってないもんね」
オメガであっても番契約の詳細を学ぶ機会は限られている。
「そういや、なかには番と恋愛は別って考えてるカップルもいるんだろ? まあ、珍しいらしいけど」
「うん、そういう話も聞くね」
「番破棄しなくても、付き合える可能性ならあるんじゃないか?」
「そう思う?」
「いや……。そうはいったものの、そういう風に割り切れる人なら、もう別に恋人いるだろうしな」
「だよねぇ」
桜庭の声には、場数を踏んだ落ち着きがにじむ。
「でも、だからといって可能性を最初から断つ必要もない」
「ありがとう、さく。同じオメガだから、わかってもらえて嬉しい」
「一人で抱え込まないで、また何かあったら相談しろよ」
同じ立場から理解を示してくれる人がいること。
その単純な事実が、背中の力を抜いてくれる。
智也や真帆の優しさとはまた違う、体温の種類。
「そういえば、神崎くんはどう?」
「どうって?」
「噂のこと……、何か言ってた?」
「いや、特に。あいつは全然気にしてなさそう」
「そっか、よかった」
「白石はあれからどう?」
「変な視線は落ち着いてきたかな。新しいネタもないし、多分飽きてきたんだと思う」
「それならよかった。ああいうのって、当事者には結構しんどいもんな」
桜庭が共感するように頷く。
「でも、今回の件で学んだこともあるよ」
「え?」
「俺たちオメガって、思ってる以上に注目されてるんだなって。気をつけないと」
「そうだな」
会計を済ませて外に出ると、夜風が皮膚の熱をすっと攫っていく。横断歩道の青が、二人の靴先を交互に染めた。
「送っていこうか?」
「ううん、大丈夫だよ」
自然に笑みがこぼれる。桜庭の気遣いが温かい。
「今日は本当にありがとう」
人波に紛れると、さっきの会話が頭の中でゆっくりと反芻された。
諦めるのか、可能性を探るのか。答えはまだ遠い。
けれど、もう一人で抱えなくていいと分かっただけで、夜道の暗さは幾分やわらぐ。
そして健吾への気持ちも、少しずつ輪郭が整っていく気がした。
——もう少しだけ、様子を見てみよう。
そう決めて、蛍は家路へ歩き出した。
脳裏では健吾の言葉が、秒針のように正確に戻ってきては胸を打つ。
――事故で番になった。
――恋愛感情があったわけではない。
――でも、責任はある。
思い描いていた「恋人がいる健吾」が、音もなく裏返る。
幸福の輪郭ではなく、責任という重みを肩にのせ続ける人の背中。
自分の幸せを削って、誰かを守り続ける人の横顔。
そして、最後のひと言。
――蛍にはそうなってほしくない。
保護者としての心配なのか、それとも別の意味があるのか。
考え始めれば、思考は同じ場所で足踏みを繰り返す。
だけど一つだけはっきりしていた。
健吾への想いは、薄れるどころか、輪郭をくっきりと増している。
枕に顔を埋めると、健吾の声が蘇る。
『俺の幸せより、尚を守ることの方が大事だ』
その言葉の重さを蛍がどれほど理解できるかはわからない。健吾はどれほど孤独な責任を背負っているのだろう。
数日後の夕方、蛍はスマホを親指でなぞり、深呼吸をひとつ。桜庭にメッセージを送る。
「今度、時間があるときに相談したいことがあるんだけど……」
返信はすぐだった。
『明日の夜なら空いてる』
待ち合わせは駅前の居酒屋街。
提灯の赤が水たまりに滲み、焼き台の煙が路地を薄く曇らせる。
桜庭が選んだのは、襖で区切られた個室の店だった。
低い音楽と、遠くの笑い声だけが壁越しに揺れる。
「お疲れ」
「さくもお疲れさま」
注文を終えると、桜庭がグラスの縁を指で拭い、視線で促す。
「で、相談って?」
蛍は少し間を置いてから切り出した。
「実は、好きな人がいるんだけど……その人には番がいて」
桜庭の表情がすっと引き締まる。
「でも、最近その人から聞いたんだ。番との関係は、恋愛関係じゃないって」
「え?」
「事故で番になったらしくて。お互い恋愛感情はないけど、責任は感じてるって」
桜庭の目が一瞬だけ曇り、バーベキューの日の記憶をなぞった気配が走る。
「事故で……ヒートの時に?」
「たぶん。詳しくは聞けなかったけど」
「その人、アルファ?」
「うん」
「そっか……」
氷がコトンと鳴った。桜庭はグラスをひと回ししてから、真正面から問う。
「それで、白石はどうしたい?」
「わからない。諦めるべきなのか、それとも……」
声が自然と小さくなる。
「その人は何て言ってた?」
「『俺の幸せより相手を守ることの方が大事』って。『蛍にはそうなってほしくない』とも」
桜庭は眉を寄せる。
「それって、本当に相手のためになってるのかな」
「え?」
「相手だって、その人が不幸でいることを望んでないと思う。特に、事故だったなら余計に」
言葉が、胸の奥にすっと入ってくる。
「責任感が強いのは良いことだけど、それで自分を犠牲にしすぎるのは、結局誰のためにもならないんじゃないか」
「そうかな……」
「その人も、自分を縛りすぎてるんじゃないかな」
蛍は目を見開く。見たくても見えなかった角度を、桜庭の声が照らしていく。
「でも、番に捨てられたオメガは悲惨っていう話も聞くしな……。つい白石に有利なほうに話しちゃったけれど、難しいよな」
桜庭はグラスを置き、まっすぐに言う。
「番破棄の影響って実際はどうなんだろうね」
「さあ。俺、その辺の知識は全然ないんだ、悪い」
「いや、知る機会ってないもんね」
オメガであっても番契約の詳細を学ぶ機会は限られている。
「そういや、なかには番と恋愛は別って考えてるカップルもいるんだろ? まあ、珍しいらしいけど」
「うん、そういう話も聞くね」
「番破棄しなくても、付き合える可能性ならあるんじゃないか?」
「そう思う?」
「いや……。そうはいったものの、そういう風に割り切れる人なら、もう別に恋人いるだろうしな」
「だよねぇ」
桜庭の声には、場数を踏んだ落ち着きがにじむ。
「でも、だからといって可能性を最初から断つ必要もない」
「ありがとう、さく。同じオメガだから、わかってもらえて嬉しい」
「一人で抱え込まないで、また何かあったら相談しろよ」
同じ立場から理解を示してくれる人がいること。
その単純な事実が、背中の力を抜いてくれる。
智也や真帆の優しさとはまた違う、体温の種類。
「そういえば、神崎くんはどう?」
「どうって?」
「噂のこと……、何か言ってた?」
「いや、特に。あいつは全然気にしてなさそう」
「そっか、よかった」
「白石はあれからどう?」
「変な視線は落ち着いてきたかな。新しいネタもないし、多分飽きてきたんだと思う」
「それならよかった。ああいうのって、当事者には結構しんどいもんな」
桜庭が共感するように頷く。
「でも、今回の件で学んだこともあるよ」
「え?」
「俺たちオメガって、思ってる以上に注目されてるんだなって。気をつけないと」
「そうだな」
会計を済ませて外に出ると、夜風が皮膚の熱をすっと攫っていく。横断歩道の青が、二人の靴先を交互に染めた。
「送っていこうか?」
「ううん、大丈夫だよ」
自然に笑みがこぼれる。桜庭の気遣いが温かい。
「今日は本当にありがとう」
人波に紛れると、さっきの会話が頭の中でゆっくりと反芻された。
諦めるのか、可能性を探るのか。答えはまだ遠い。
けれど、もう一人で抱えなくていいと分かっただけで、夜道の暗さは幾分やわらぐ。
そして健吾への気持ちも、少しずつ輪郭が整っていく気がした。
——もう少しだけ、様子を見てみよう。
そう決めて、蛍は家路へ歩き出した。
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