5 / 19
第一章 団地に来ちゃった見習い管理人⑤
しおりを挟む
「まず、あなたの仕事ね」
ちゃぶ台に二人で向かい合い、湯のみを手にする。古い陶器の湯のみ。緑茶の湯気がふわりと立ち昇った。
「管理人見習い、という名の、何でも屋です。清掃、巡回、住民からの相談受付、簡単な事務、ゴミ捨て場チェック。あとは——」
お千代は一拍置いて、凛を見た。その瞳に、何か深いものが宿っている。
「ここの『住民』たちの、ちょっとしたもめ事の仲裁ね」
「住民……ですか?」
凛は湯のみを持つ手に力を込めた。熱い
。
「ええ。人間と、そうじゃないほう、どっちも」
どっちも。
聞かなかったことにするには、あまりにもはっきりした言い方だった。お千代の声には、一片の迷いもない。
「あ、あの、そうじゃないほうっていうのは……」
凛は恐る恐る尋ねる。声が震える。
「靴鳴らしに、階表示盤の狐、風鈴の精、ポスティング妖怪。それから、まだまだ」
さらっと列挙されていく固有名詞に、凛の脳が追いつかない。狐? 風鈴? 妖怪? どれも、普通の就職活動では聞いたことのない単語ばかりだ。
「ま、待ってください。狐? エレベーターの……?」
「そう。エレベーターの階数表示のところに住みついてる狐。あの子、ちょっと口が悪いのよね。でも根は悪くないの。後で挨拶しておきなさい」
後で挨拶。
「管理組合長にも挨拶しなさいね」と同レベルのノリである。凛の常識が、音を立てて崩れていく。
凛は湯のみを両手で持ったまま、小さな声でつぶやいた。
「……あの、ここって、そういう、何かが、見える人じゃないとダメだったり……?」
もし、そうだとしたら。自分には無理だ。見えない。感じない。そもそも、信じてすらいない。
「ううん、むしろ。見えるのに放っとく人より、見えるかどうか分からなくても話を聞こうとする人のほうが、向いてるわ」
お千代は、少しだけ柔らかい目で凛を見た。その視線には、優しさと、何か諦めに似たものが混じっている。
「就活で苦労したって聞いたけど」
「えっ、なんで」
心臓が跳ねる。そんなこと、誰にも言ってないのに。
「電話で花咲さんから聞いたのよ。『うちの子、自信なくしちゃって~』って」
お千代は、凛にこの団地を紹介してくれた「おばさん」の名を口にした。ことん、と音を立てて湯のみを置く。
「でもね、落ちたのは、その会社と、あなたの相性が悪かっただけ。団地には、合う人と合わない人がいるのと同じ」
「団地にも、相性があるんですか」
「あるわよ。これを見なさい」
お千代は、団地の見取り図を引っ張り出してきた。古い図面をコピーしたもののようだ。A棟、B棟、中庭、商店街、と几帳面な手書きの文字で書かれている。ワープロやパソコンが発明されていなかった時代の公的文書にありがちな達筆だ。
そこに、赤いペンで小さな丸がいくつも付けられている。まるで、病巣を示すレントゲン写真のように。
「この丸が、いま『機嫌が悪いところ』。空き部屋だったり、長く住んでる人が孤立してたり。そういう場所には、あやかしも人間も、似たような顔が集まるの」
凛は思わず身を乗り出していた。気づけば、怖さよりも好奇心が少し勝っている。不思議だ。さっきまであんなに怯えていたのに。
「あなたには、その丸を小さくしてもらいたいの。掃除をして、話を聞いて、ちょっとした不具合を直して」
「わ、私が……?」
自分を指さす。信じられない。就活で何十社も落ちた自分が、そんな大切な仕事を。
「そう。あなた、団地をこわがってるわりには、さっき中庭でちゃんと頭を下げてたでしょう」
心臓が止まりかけた。全身から血の気が引く。
「み、見てたんですか!?」
「まぁ、ここにいると、だいたいのことは見えるのよ。靴鳴らし、喜んでたわ。『久しぶりに礼儀正しい子が来た』って」
「そんな評価、いらない……!」
情けない叫びが、ちゃぶ台の上で転がった。顔が熱い。恥ずかしさで死にそうだ。
けれど、胸の奥で何かが、ほんの少しだけ温かくなった気もした。「礼儀正しい」というのは、就活中、どこからも言われなかった言葉だからだ。面接官は誰も、褒め言葉など出してはくれなかった。
「で、でも、私、本当に人付き合いが苦手で……。団地って、人付き合いの塊みたいな場所ですよね……」
凛はうつむく。自分の膝を見つめる。
「うん、わかるわ。そういう顔してるもの」
「ひどくないですか!?」
「褒めてるのよ。こわがってるってことは、ちゃんと見てるってことだから。何も感じないふりをして、適当にやり過ごす人のほうが危ないの」
お千代は立ち上がった。膝を叩いて、勢いよく。
「まぁ、言葉で説明するより、実物を見せたほうが早いわね。ちょうど、今夜は夕食会だし」
「え、夕食会?」
「人間と、あやかしと、管理人と。……あなたも、見習いとして参加してもらうわ」
まるで「歓迎会があるからスケジュール空けておいて」と言われたみたいなノリで、凛はそのまま、人生初の「種族混合会合」に参加させられることになった。断る隙も、逃げる隙も、まったくなかった。
ちゃぶ台に二人で向かい合い、湯のみを手にする。古い陶器の湯のみ。緑茶の湯気がふわりと立ち昇った。
「管理人見習い、という名の、何でも屋です。清掃、巡回、住民からの相談受付、簡単な事務、ゴミ捨て場チェック。あとは——」
お千代は一拍置いて、凛を見た。その瞳に、何か深いものが宿っている。
「ここの『住民』たちの、ちょっとしたもめ事の仲裁ね」
「住民……ですか?」
凛は湯のみを持つ手に力を込めた。熱い
。
「ええ。人間と、そうじゃないほう、どっちも」
どっちも。
聞かなかったことにするには、あまりにもはっきりした言い方だった。お千代の声には、一片の迷いもない。
「あ、あの、そうじゃないほうっていうのは……」
凛は恐る恐る尋ねる。声が震える。
「靴鳴らしに、階表示盤の狐、風鈴の精、ポスティング妖怪。それから、まだまだ」
さらっと列挙されていく固有名詞に、凛の脳が追いつかない。狐? 風鈴? 妖怪? どれも、普通の就職活動では聞いたことのない単語ばかりだ。
「ま、待ってください。狐? エレベーターの……?」
「そう。エレベーターの階数表示のところに住みついてる狐。あの子、ちょっと口が悪いのよね。でも根は悪くないの。後で挨拶しておきなさい」
後で挨拶。
「管理組合長にも挨拶しなさいね」と同レベルのノリである。凛の常識が、音を立てて崩れていく。
凛は湯のみを両手で持ったまま、小さな声でつぶやいた。
「……あの、ここって、そういう、何かが、見える人じゃないとダメだったり……?」
もし、そうだとしたら。自分には無理だ。見えない。感じない。そもそも、信じてすらいない。
「ううん、むしろ。見えるのに放っとく人より、見えるかどうか分からなくても話を聞こうとする人のほうが、向いてるわ」
お千代は、少しだけ柔らかい目で凛を見た。その視線には、優しさと、何か諦めに似たものが混じっている。
「就活で苦労したって聞いたけど」
「えっ、なんで」
心臓が跳ねる。そんなこと、誰にも言ってないのに。
「電話で花咲さんから聞いたのよ。『うちの子、自信なくしちゃって~』って」
お千代は、凛にこの団地を紹介してくれた「おばさん」の名を口にした。ことん、と音を立てて湯のみを置く。
「でもね、落ちたのは、その会社と、あなたの相性が悪かっただけ。団地には、合う人と合わない人がいるのと同じ」
「団地にも、相性があるんですか」
「あるわよ。これを見なさい」
お千代は、団地の見取り図を引っ張り出してきた。古い図面をコピーしたもののようだ。A棟、B棟、中庭、商店街、と几帳面な手書きの文字で書かれている。ワープロやパソコンが発明されていなかった時代の公的文書にありがちな達筆だ。
そこに、赤いペンで小さな丸がいくつも付けられている。まるで、病巣を示すレントゲン写真のように。
「この丸が、いま『機嫌が悪いところ』。空き部屋だったり、長く住んでる人が孤立してたり。そういう場所には、あやかしも人間も、似たような顔が集まるの」
凛は思わず身を乗り出していた。気づけば、怖さよりも好奇心が少し勝っている。不思議だ。さっきまであんなに怯えていたのに。
「あなたには、その丸を小さくしてもらいたいの。掃除をして、話を聞いて、ちょっとした不具合を直して」
「わ、私が……?」
自分を指さす。信じられない。就活で何十社も落ちた自分が、そんな大切な仕事を。
「そう。あなた、団地をこわがってるわりには、さっき中庭でちゃんと頭を下げてたでしょう」
心臓が止まりかけた。全身から血の気が引く。
「み、見てたんですか!?」
「まぁ、ここにいると、だいたいのことは見えるのよ。靴鳴らし、喜んでたわ。『久しぶりに礼儀正しい子が来た』って」
「そんな評価、いらない……!」
情けない叫びが、ちゃぶ台の上で転がった。顔が熱い。恥ずかしさで死にそうだ。
けれど、胸の奥で何かが、ほんの少しだけ温かくなった気もした。「礼儀正しい」というのは、就活中、どこからも言われなかった言葉だからだ。面接官は誰も、褒め言葉など出してはくれなかった。
「で、でも、私、本当に人付き合いが苦手で……。団地って、人付き合いの塊みたいな場所ですよね……」
凛はうつむく。自分の膝を見つめる。
「うん、わかるわ。そういう顔してるもの」
「ひどくないですか!?」
「褒めてるのよ。こわがってるってことは、ちゃんと見てるってことだから。何も感じないふりをして、適当にやり過ごす人のほうが危ないの」
お千代は立ち上がった。膝を叩いて、勢いよく。
「まぁ、言葉で説明するより、実物を見せたほうが早いわね。ちょうど、今夜は夕食会だし」
「え、夕食会?」
「人間と、あやかしと、管理人と。……あなたも、見習いとして参加してもらうわ」
まるで「歓迎会があるからスケジュール空けておいて」と言われたみたいなノリで、凛はそのまま、人生初の「種族混合会合」に参加させられることになった。断る隙も、逃げる隙も、まったくなかった。
0
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる