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暖かい部屋へ
しおりを挟むバルツアーは、白猫シャルルが自分の膝に身体を預けているのを見下ろしながら、
しばらく何かを考えるように黙っていた。
そのあと、低く、静かな声で言った。
⸻
「……正直に申し上げて、あなたがここに住んでいると聞いたとき、信じられませんでした。
グレイウッド公爵家の令嬢が、このような場所に……」
彼は、まっすぐに私を見る。
その瞳に、蔑みはなく、ただ率直な“心配”があった。
⸻
「この屋敷は、人の住む家ではありません。
……私が心配なのです」
「…………」
「よければですが――
村の元カフェの二階が、今も使える状態にあります。
日当たりもよく、風通しも悪くない。
そして……猫にも、きっと快適です」
彼は猫に目をやる。
「私の家から、侍女を一人、差し向けましょう。
最小限の世話だけでも、あるのとないのでは違うはずです」
⸻
私は、言葉を失っていた。
優しい言葉は、王都でも聞いたことがある。
でもそれはいつも、裏に意図があった。
この人の言葉には、それがなかった。
ただ、私がここにいることを“おかしい”と思っていて、
それを“放っておけない”と言っている。
⸻
「……ご親切に感謝します。
けれど、少し考える時間をいただけますか」
そう言うと、彼はゆっくりと頷いた。
⸻
「もちろんです。
……ただ私は、
“誰もいない場所で、声を出せない女性が苦しむ”という状況が、好きではないのです」
そう告げて、彼は帽子を取り、静かに辞去した。
猫のシャルルが、まるで名残惜しそうに、彼の背中を見つめていた。
「グレイウッド様でしょうか?」
その声は、夕方の静かな空気の中、はっきりと響いた。
扉を開けると、年若いが、きびきびとした印象の女性が立っていた。
栗色の髪をきっちり結い、シンプルな服装の中にも清潔感がある。
両手には布の包みと、小さなバスケット。
「ライゼン辺境伯様より、お遣いに参りました。
わたくし、侍女のマリーナと申します」
「侍女……?」
「お一人での生活は、不便と伺いましたので。
本日は、夕餉と身の回りの整えをしに参りました」
バスケットを掲げて笑うその様子に、私は何も言えなかった。
⸻
少しましな場所に
部屋に入った、マリーナは、
ひどい部屋に呆れながら、
「――さて、ではお嬢様。
少し外出のご準備をお願いいたします」
「……外出?」
⸻
強引に優しい誘導
「はい。こちらのお屋敷では、夜に冷えが強く、
食事も入浴もままならぬと伺いました」
「そうかもしれませんが……!」
「ご安心を。辺境伯のお屋敷ではございません。
あちらに伺うのは、いろいろと噂にもなりますし、
……なにより、独身の男性の館ですので」
マリーナはにっこりと笑った。
「今回ご案内するのは、村の“元カフェ”の二階。
今は使われておらず、お城の従業員がかつて寝泊まりしていた宿舎のひとつです。
簡素ではありますが、鍵もあり、火の元も整っております」
「…………」
「“ご令嬢”が、こんな場所で凍える必要はございません」
マリーナの言葉は、優しさというより――“仕方ないので動いてください”に近い。
「……わかりました。行きますわ。
でも、シャルルも一緒です」
「もちろんでございます♪」
白猫のシャルルが、キャリーバスケットの中にふわりと身を丸めた。
そして私は、
自分で望んだわけではないけれど――
確かに、誰かの“配慮”のもとで、少しだけ暖かい場所へ向かうことになったのだった。
マリーナの案内で、私は村の小道を歩いていた。
小さな石畳の路地。
古びたランプのついた木製の扉が並ぶ建物のなかに、
ひときわ静かな空間があった。
「こちらが、かつてのカフェ――今は使われていない建物です。
二階は、従業員用の簡易宿舎として造られております」
「……カフェ、ということは……店だったのですか?」
「はい。ですが、前店主のご高齢により、先月で閉店しております。
店内には手をつけておりませんので、
ご安心を――お嬢様に“お店を借りて働いてほしい”などということではありません」
「……それなら、少しだけ、お世話になります」
⸻
階段を上がりながら、私はぽつりと言った。
「人の家を、荒らすような真似は、したくありません。
何もないからといって、勝手に踏み込むのは、私の礼儀に反します」
マリーナが、ほんの少し足を止めてから、ふわりと笑った。
「辺境伯様も、きっと、そう言っていただけるのが一番お喜びになります」
⸻
鍵を開けてもらい、一歩足を踏み入れると、
そこには――ささやかだけれど、確かに“静けさ”があった。
家具は古いが、手入れされている。
窓から差し込む光はやわらかく、
シャルルがすぐに出窓に跳び乗って、満足げに丸くなる。
⸻
私はゆっくりと座って、心の中で小さく呟いた。
「……借りているだけ。
それでも、少しだけ、助かりました」
辺境伯バルツアーが訪ねてきたのは、次の日の午後の陽が傾きかけたころだった。
私は小さな薬缶で湯を沸かし、ありあわせのハーブでお茶を淹れた。
「……ここに移られたと聞いて、様子を見に参りました」
彼は相変わらず無表情気味で、けれどその声にはわずかな安堵の色があった。
シャルルは迷いなく、彼の膝へと跳び乗ると、当たり前のように丸くなる。
その喉からは、静かなゴロゴロ音が響いていた。
「……この猫は、実に誠実な判断をしますね」
そう言って、彼はようやく小さく笑った。
⸻
私がそっと差し出したお茶を受け取り、彼は一口すする。
その仕草は、猫の重みを片手に抱えながらも不思議と様になっていた。
「ここは……実は、私の所有している建物なのです」
「えっ……」
「かつては賃貸に出していたものですが、長く使われておらず。
今は、近隣の手を借りてカフェを空けているだけでした」
「それなら……お礼を申し上げます。
住まわせていただいている立場です。家賃を――」
私が慌てて立ち上がると、バルツアーはすっと手を上げて制した。
「いいえ。そう仰ると思いましたので、代わりにお願いがあります」
「お願い……ですか?」
彼は、シャルルを撫でながら、まっすぐに私を見た。
⸻
「どうか、私が――毎日ここでお茶を飲むことを、許していただけませんか」
「……え?」
「この場所は、静かで落ち着く。
そして、隣のパン屋は、私のお気に入りですから」手に持ったパン屋の袋を持ち上げる。
私はしばらく何も言えなかった。
けれど、膝の上で心地よさそうに喉を鳴らすシャルルを見て、
ふと力が抜けたように笑ってしまった。
「……わかりました。
ですが、毎日となると、
ときどきお休みするかもしれませんが‥」
「ええ。もちろん」
バルツアーの声は、ほんの少しだけ――嬉しそうだった。
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