壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)

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優しさの檻 茂と花梨

最初の違和感

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花梨が家を出たのは、愛が冷めたからじゃない。

優しいはずの姑の“香り”が、
いつのまにか、家の中を支配していた。

茂は、その柔らかい執着に気づかない。

「母は優しい」
「妻も笑っている」
そう信じて、何も見ようとしない。

花梨はただ、息がしたかった。

― それが、“執着の匂い”の正体。





日常の変化としての「匂い」

結婚するまでは、
花梨の部屋には、ほとんど匂いというものがなかった。
洗剤も、石けんも、香料のないものを使っていたし、
窓を開ければ、風が抜ける静かな家だった。

茂と暮らすようになって、
最初の数日はそれほど気にならなかった。
でも、ある日、洗濯物からふわっと漂った甘いきつい香りに、
思わず息を止めた。

「この洗剤、変えた?」と聞いても、
茂は首をかしげた。

――まさか、茂の母親が昼間来て黙って洗っていたなんて、
そのときは思いもしなかった。

――結婚して、息子の家で洗濯し始めるまで、
“香りのある洗濯物”というものに、憧れてたので、なぜかいっぱい使ってみたかったのだ、

花梨
タオルを畳もうとして、思わず手を止めた。
ふわっと立ちのぼる匂いに、胸の奥がざわつく。

――また、この香り。

少し息を吸っただけで、頭の奥がきゅっと締めつけられるようだった。
目の奥が痛む。喉の奥に金属の味が広がる。

窓を開けても、風が入ってこない。
部屋のすべての布に、この匂いが染みついていた。

台所に行けば、義母の置いていった惣菜のパック。
風呂場の洗濯機横には知らない柔軟剤のボトル。
……こんなのいつのまに?

「どうして、勝手に……」
つぶやいても、返事はない。

その夜、花梨は窓を開けたまま、
ソファに毛布をかけて眠った。
ベッドのシーツは、匂いが、キツくて、眠れない。

花梨は、またあの匂いに気づいた。

棚の下に、あのピンクのボトルが置かれている。
――捨てたはずなのに。

「……また、買ってきたの?」

茂は新聞をめくりながら答える。
「母さんだろ?気が利くじゃないか。なくなったんだろ?」

「違うの。お願いだから、言って。勝手に部屋に入らないでって」

茂は少し眉をひそめた。
「そんな言い方するなよ。母さん、良かれと思ってやってるんだ」

「良かれ、でしょ? でも、私は――」
言いかけて、花梨は口をつぐんだ。
もう何度も説明してきたのだ。
匂いで頭痛がすることも、吐き気がすることも。

茂は信じないわけじゃない。
けれど、理解していない。

「母さんは悪気ないんだ。お前、少し神経質すぎるよ」
その言葉で、何かがふっと切れた気がした。

花梨は、無言で寝室のドアを閉めた。
鼻の奥に、あの甘い匂いがこびりついている。
柔軟剤の香り――いや、もう“臭い”だった。

ベッドシーツ、カーテン、枕カバー。
どれも同じ匂いに染まっていた。
触れた瞬間、胸の奥がざわめき、息が詰まる。

ごめんなさい、と誰に言うでもなく呟いて、
花梨はゴミ袋を広げた。

一枚ずつ、淡々と入れていく。
「まだ使える」
「もったいない」
そういう言葉が頭の隅に浮かんで、
ひとつずつ、静かに消えていく。

最後に、義母が買ってきた柔軟剤のボトルをつかんだ。

キャップをしっかり閉めて、ほかの洗濯物と一緒にゴミ袋へ入れる。
袋の中には、匂いの染みついたシーツや衣類が詰まっていた。

――これでいい。

息を整え、袋の口を固く結ぶ。
靴を履き、無言のままマンションの廊下を歩いた。
ゴミ捨て場に着き、袋を静かに置く。

軽くため息をつくと、
花梨の中で何かが、ひとつ終わった気がした。


花梨は、もう迷わなかった。
スーツケースに最低限の服と思い出のものを詰め、部屋を出た。
ドアが閉まる音が、いつもより重く響いた。

「お前、おかしいよ」
背中に、茂の声。
その言葉に返す気力も、もうなかった。



夜の駅。
改札を抜けようとしたとき、聞き慣れた声がした。

「花梨?」

振り向くと、柴崎が立っていた。
ネクタイを緩めたまま、缶コーヒーを片手にしている。

「どうした、旅行? 明日会議だろ」

花梨は小さく笑って答えた。
「……実家に帰るの」

「実家? そんな大きな荷物で?」
柴崎は眉をひそめる。

「送ろう。うちに寄って、車出すよ」
スーツケース持って歩き出す柴崎

先輩のやさしさが、今は少しだけ重かった。
けれど、花梨は頷いた。
どこかに、行かなければならなかった。


柴崎の家は、古い木造の日本家屋だった。
少し傾いた瓦屋根、雨戸の隙間から漏れる柔らかい灯り。
けれど、不思議と落ち着く。
どこか懐かしい、石けんと木の匂いがした。

「よかったら、キンカン持って帰って」
柴崎が笑いながら、カゴとハサミを渡してきた。

「え?」

「庭の奥。好きなだけ取って帰って、
 ちょっと待ってて、着替えてくるから。
 家には入れられないぞ、汚いから」

そう言って笑う彼に、
花梨もつい笑ってしまった。

冬の夜気の中、
風が揺らして、金柑の葉がかすかに音を立てた。


柴崎の家は、古かった。
床板はきしみ、壁には少しヒビがある。
けれど、空気がやわらかい。
キンカンの香りと、古い木の匂いが混じって、心の奥まで静かに沁みてくる。

庭先で、ハサミを持ちながら、花梨は思った。
――この香りなら、息ができる。



車に乗り、カーナビの明かりが二人の顔を照らす。
柴崎がハンドルを握りながら言った。
「ナビ、セットするけど、どこまで送ればいい?」

「○○駅までで大丈夫です」

しばらく無言のまま、夜の道路を走る。
やがて、花梨がぽつりと話し出した。
「……匂いって、怖いですね。人も、家も、変えてしまう」

柴崎は軽くうなずいて、前を見たまま言った。
「あー、俺も柔軟剤ダメなんだ、あの手の匂い。
 まあ使わないけどな。
 ベトナム行った時に、ココナッツ石けん買ってきてから、
 ずっとそれだけ使ってる」

花梨は小さく笑った。
金柑の香りが、まだ指先に残っていた。



▪️作者メモ

この物語に出てくる柔軟剤は、
“匂いでのマーキング”の意味を持っています。
茂の母は、きっと規定量の倍は、使っているはず。

なぜなら――花梨は、これまでアレルギーなんてなかったんですから。

香りの強さも誇張された表現であり、
作品の一部として楽しんで読んでもらえたら嬉しいです。

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