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優しさの檻 茂と花梨
花梨の家
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「どこまで?」柴崎
「駅でいいです」花梨
「は? 夜中だぞ。家まで送る」
言い方はぶっきらぼうだけど、拒否する余地がない。
花梨はうなずいて、助手席に座った。
車内は静かだった。
カーオーディオの電源も入っていない。
窓の外で、街灯が時々流れていく。
「すみません」
「何が?」
「全部……。迷惑ばかりで」
「別に。俺は困ってない」
その言葉が、妙に胸に残った。
車が止まったのは、住宅街の端。
門の灯りがついていた。
「ありがとう。ここで大丈夫です」
「ちゃんと入るまで見てる」
柴崎の声が、意外と優しかった。
花梨は小さくうなずいて、門を開けた。
玄関のドアが開くと、母の声がした。
「花梨? どうしたの、こんな時間に」
「……ちょっと、帰ってきた」
リビングの灯りがつく。
父がテレビを消し、寝間着姿で顔を出した。
「離婚?」
花梨は答えず、ただスーツケースを引いたまま、
「少し、ここにいていい?」とだけ言った。
「もちろんよ」と母。
その声に、ほっとするよりも、
涙がこみ上げてきた。
その後ろから、柴崎が少し離れて立っていた。
「たまたま駅で会いまして。大きな荷物を持っていたので送ってきました。私は彼女と、会社が一緒で、まあ、放っておけなくて」
丁寧に頭を下げる。
花梨が何か言おうとしたが、
柴崎はもう車に戻りかけていた。
ドアを閉める直前に、
「明日、来れないなら連絡して。会議、代わりに出ておくから」
ライトが遠ざかる。
その後ろ姿が、やけに静かだった。
母が小声でつぶやく。
「いい人ね」
花梨は答えず、ただスーツケースを引いて家に入った。
⸻
玄関に入ると、母がすぐ声をかけた。
「お風呂入りなさい。お父さん、ご飯準備して、お願い」
湯気のにおいと、煮物の匂いが混じって、
懐かしい空気が胸にしみる。
「これ、もらったの」
花梨はキンカンの入った袋を差し出した。
「あら、きれい。いい香りね」
母は笑って袋を受け取り、
「キンカンで飲み物作るわ。お風呂入りなさい」
その声が、なぜか涙腺を刺激した。
何も聞かれないことが、いちばんありがたかった。
湯気の立つカップ。
キンカンのはちみつ湯は、ほのかに酸っぱくて、甘い。
花梨は両手で包みながら、ぽつりと話し始めた。
「アレルギーなのに、柔軟剤やめてくれないの」
母が顔を上げる。
「なんで? あなたの家でしょう?」
「お義母さんが洗うのよ。勝手に部屋に入って」
沈黙のあと、父が新聞をめくる手を止めた。
母が呆れたように息をつく。
「うわっ、彼、マザコンだったの?」
花梨は苦笑する。
「ね、ドラマみたいでしょ。
勝手に新居に入る義母、母さんの好きなやつ」
母は笑いながらも、すぐ真顔になった。
「……笑ってられないわね。本当にあるのね、そういうの」
花梨は、カップを見つめた。
キンカンの香りが、少し沁みた。
「この前、母さんが見てたのも、マザコンの男のだったな」
「あなた、横から見てたのね」
花梨が少し笑った。
母の言葉はいつも鋭く、でもどこか優しい。
キンカンのはちみつ湯の湯気が、ふたりの間にゆらいでいた。
結婚して、まだ一ヶ月経ってない。
でも弁護士を入れてもおかしくない状況だった。
新居に上がり込み、洗濯をし、
「良かれと思って」と惣菜を作る母。
部屋を掃除し、息子に笑いかける。
その距離の異常さに、本人達だけが気づかない。
――癒着という言葉すら、彼女には届かない。
⸻
「……会社、辞めてもいい?」花梨
母が、湯のみを持ったまま顔を上げた。
「離婚した方がいい気がするの」花梨
「どうしたの、あの人、何か言った?」
花梨は首を振る。
「言葉じゃないの。ただ……あの二人に、付き合えない」
ぽつりとこぼれた声は、怒りでも悲しみでもなく、
燃え尽きたようだった。
花梨
「改善できるなら、何度でも話すよ。
でも――話、通じないの。」
沈黙のあと、花梨は笑った。
笑いながら、目の奥では泣いていた。
父さん
「俺さ、結婚してからだけど、
母さん以外にパンツ洗ってもらったことないんだよな。
……あ、たまに自分で洗うけど。」
花梨は、何も言わなかった。
ただ、笑い方を忘れたみたいに、視線を落とした。
母が
「うちの義母は、そういうタイプじゃないから。
結婚したら、時々会ってごはん食べるくらい。
家に上がって、部屋を掃除したり、食事作ったりなんて、しない。
病気の時は、してって言われたらするけどね。
……お正月前に、みんなでお節一緒に作るくらいよ。」
彼女は、少しだけ笑った。
その笑みには、懐かしさと、いま目の前にある現実への戸惑いが混じっていた。
「マザコンって、わからないものね。
結婚前は、ちゃんとしてて、礼儀正しくて、気が利く大人に見えてた。
でも、あの人の“やさしさ”は全部、お母さんの作ったものだった。
癒着されてるなんて、気づけるはずなかった。」
「駅でいいです」花梨
「は? 夜中だぞ。家まで送る」
言い方はぶっきらぼうだけど、拒否する余地がない。
花梨はうなずいて、助手席に座った。
車内は静かだった。
カーオーディオの電源も入っていない。
窓の外で、街灯が時々流れていく。
「すみません」
「何が?」
「全部……。迷惑ばかりで」
「別に。俺は困ってない」
その言葉が、妙に胸に残った。
車が止まったのは、住宅街の端。
門の灯りがついていた。
「ありがとう。ここで大丈夫です」
「ちゃんと入るまで見てる」
柴崎の声が、意外と優しかった。
花梨は小さくうなずいて、門を開けた。
玄関のドアが開くと、母の声がした。
「花梨? どうしたの、こんな時間に」
「……ちょっと、帰ってきた」
リビングの灯りがつく。
父がテレビを消し、寝間着姿で顔を出した。
「離婚?」
花梨は答えず、ただスーツケースを引いたまま、
「少し、ここにいていい?」とだけ言った。
「もちろんよ」と母。
その声に、ほっとするよりも、
涙がこみ上げてきた。
その後ろから、柴崎が少し離れて立っていた。
「たまたま駅で会いまして。大きな荷物を持っていたので送ってきました。私は彼女と、会社が一緒で、まあ、放っておけなくて」
丁寧に頭を下げる。
花梨が何か言おうとしたが、
柴崎はもう車に戻りかけていた。
ドアを閉める直前に、
「明日、来れないなら連絡して。会議、代わりに出ておくから」
ライトが遠ざかる。
その後ろ姿が、やけに静かだった。
母が小声でつぶやく。
「いい人ね」
花梨は答えず、ただスーツケースを引いて家に入った。
⸻
玄関に入ると、母がすぐ声をかけた。
「お風呂入りなさい。お父さん、ご飯準備して、お願い」
湯気のにおいと、煮物の匂いが混じって、
懐かしい空気が胸にしみる。
「これ、もらったの」
花梨はキンカンの入った袋を差し出した。
「あら、きれい。いい香りね」
母は笑って袋を受け取り、
「キンカンで飲み物作るわ。お風呂入りなさい」
その声が、なぜか涙腺を刺激した。
何も聞かれないことが、いちばんありがたかった。
湯気の立つカップ。
キンカンのはちみつ湯は、ほのかに酸っぱくて、甘い。
花梨は両手で包みながら、ぽつりと話し始めた。
「アレルギーなのに、柔軟剤やめてくれないの」
母が顔を上げる。
「なんで? あなたの家でしょう?」
「お義母さんが洗うのよ。勝手に部屋に入って」
沈黙のあと、父が新聞をめくる手を止めた。
母が呆れたように息をつく。
「うわっ、彼、マザコンだったの?」
花梨は苦笑する。
「ね、ドラマみたいでしょ。
勝手に新居に入る義母、母さんの好きなやつ」
母は笑いながらも、すぐ真顔になった。
「……笑ってられないわね。本当にあるのね、そういうの」
花梨は、カップを見つめた。
キンカンの香りが、少し沁みた。
「この前、母さんが見てたのも、マザコンの男のだったな」
「あなた、横から見てたのね」
花梨が少し笑った。
母の言葉はいつも鋭く、でもどこか優しい。
キンカンのはちみつ湯の湯気が、ふたりの間にゆらいでいた。
結婚して、まだ一ヶ月経ってない。
でも弁護士を入れてもおかしくない状況だった。
新居に上がり込み、洗濯をし、
「良かれと思って」と惣菜を作る母。
部屋を掃除し、息子に笑いかける。
その距離の異常さに、本人達だけが気づかない。
――癒着という言葉すら、彼女には届かない。
⸻
「……会社、辞めてもいい?」花梨
母が、湯のみを持ったまま顔を上げた。
「離婚した方がいい気がするの」花梨
「どうしたの、あの人、何か言った?」
花梨は首を振る。
「言葉じゃないの。ただ……あの二人に、付き合えない」
ぽつりとこぼれた声は、怒りでも悲しみでもなく、
燃え尽きたようだった。
花梨
「改善できるなら、何度でも話すよ。
でも――話、通じないの。」
沈黙のあと、花梨は笑った。
笑いながら、目の奥では泣いていた。
父さん
「俺さ、結婚してからだけど、
母さん以外にパンツ洗ってもらったことないんだよな。
……あ、たまに自分で洗うけど。」
花梨は、何も言わなかった。
ただ、笑い方を忘れたみたいに、視線を落とした。
母が
「うちの義母は、そういうタイプじゃないから。
結婚したら、時々会ってごはん食べるくらい。
家に上がって、部屋を掃除したり、食事作ったりなんて、しない。
病気の時は、してって言われたらするけどね。
……お正月前に、みんなでお節一緒に作るくらいよ。」
彼女は、少しだけ笑った。
その笑みには、懐かしさと、いま目の前にある現実への戸惑いが混じっていた。
「マザコンって、わからないものね。
結婚前は、ちゃんとしてて、礼儀正しくて、気が利く大人に見えてた。
でも、あの人の“やさしさ”は全部、お母さんの作ったものだった。
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