ここは世田谷豪徳寺

武者走走九郎or大橋むつお

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120≪牛乳が切れていたので≫

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新・ここは世田谷豪徳寺・23(幸子編)

120≪牛乳が切れていたので≫



「牛乳きれてるよ」

 亭主が平板な声で言った。若いころは落ち着いたバリトンに惚れたもんだけど、今はただの鈍いオヤジにしか見えない。

「さつきじゃないの? スコットランド人を助けたとかなんとか言いながら冷蔵庫開けてたから」

 今日は日曜だ……けど、亭主は図書館勤務なので仕事がある。今からコンビニに買いに行っては出勤に間に合わない……こともないんだけど面倒だ。

「……インスタントコーヒーにしとくか」

「ペットボトルのがあったわよぉ……」

「……ないぞぉ」
「え、ペットボトルのも空なの?」

「さくらだな。昨夜は遅くまで本読んでたみたいだから」


 あいかわらず平板な声でそういうと自分でスクランブルエッグを作り始めた。やや脂肪肝なので油を控えてレンジでスクランブルエッグを作っている。なるほど、これなら油使わずにすむけど、あとでドッチャリマヨネーズを入れたら同じことだと思うんだけど、男のこういうこだわりにはチャチャを入れない方がいいのは28年も夫婦やってれば分かる
 
「行ってきまーす」

 鉋くずのような平板声で亭主は出勤。娘たちは昼近くまで寝てるだろうから、ここからはあたしだけの時間。
 あんまり……ほとんど売れていないけど、これでも作家の端くれ。来月末までと期限を切られた短編のプロットを考える。洗濯はそれから、娘二人の目覚まし代わりにかけてやればいい。

 今日は宮沢賢治の命日……それだけで、いい話が……浮かんでこない。

 だいたい、この作家の大先輩の命日も、朝一番に見た新聞のコラムから。
 アイデアが浮かばないときは、やたらに他のことがしたくなる。たっぷりの牛乳が入ったカフェオレが飲みたくなる。で、先ほどの亭主の牛乳のことなど、すっかりとんで、お財布掴んで駅前のコンビニを目指す。

 コンビニの前で運命に出会ってしまった。

 直観で、ジョバンニだと思ってしまった。

 チノパンにカーキグリーンのシャツ。髪は自然な褐色で、憂いを湛えた横顔は、まさにジョバンニ。こんな朝っぱらから銀河のお祭りに行くわけでもないだろうけど、なんだか気になってあとを着けてしまう。
 ジョバンニは、路線図を見て切符を買った。豪徳寺に来て間もない子なんだろうか、不慣れな様子がとても初々しい。ついスイカを使って改札をくぐってしまう。

 で、けっきょく渋谷まで付いてきてしまった。

 まだ渋谷は9時をまわったところで、渋谷としては一番閑散とした時間だ。ジョバンニはぐるっと駅前を見渡すとハチ公の近くに寄った。あたしの中で妄想が膨らむ。これはカムパネルラと待ち合わせているに違いない。

 こういう追跡観察は、程よく距離を取って付かず離れずが大事だ。あたしは視野の端でジョバンニを捉えてカムパネルラが現れるのを待った。

 5分ほどして……現れた!

 男の子ではなかったけど、サロペットが良く似合う女の子だ。
 あたしは年甲斐もなく完全に銀河鉄道の世界に入り込んでしまった。

 そこに、洗いざらしのシャツのオッサンが二人に近寄って、一言二言。すると、とたんに二人はジョバンニでもカムパネルラでもない、ただの若者になってしまった。

 そして、あろうことか、あたしに近寄ってきた。

「すみません、僕たちテレビの撮影なんです。まわりの人たちに意識されないように、遠くから撮ってるんですけど、オバサン豪徳寺からずっと付いてこられたでしょ。すみませんけど、被っちゃうんで、ご遠慮願えませんか」

「え、テレビの撮影!?」

「はい、こういうの撮ってます」

 オッサンは、丸めた台本を見せた。『渋谷銀河鉄道』と書かれ、銀河放送のロゴが入っていた。

「どうもすみませんでした。良い雰囲気の子だったんで、つい……あ、あたし、こういうものです」

 普段めったに使わない名刺を出した。

「あ、作家の佐倉幸子さんだったんですか。おーいみんな、こっちこっち!」

 二人の役者さんの他にもカメラマンや音声さんなどが集まってきた。で、10分ほど立ち話して別れた。

「あーあ、なんだテレビの撮影だったのか」

 独り言ちて一瞬空を見上げ、視線を戻すと、撮影班の姿はどこにもなかった。全部で10人近くいた人たちが忽然といなくなった。

「え、ええ……?」

 冷静に考えたら銀河放送なんて聞いたこともない。念のためスマホで検索。やはり出てこない。だいいちあたしのことを作家だと知っている人などほとんどいないのに、あの撮影班は、あたしの作品をかなり読んでいる形跡があった。

 まあ、牛乳が切れていたからおこった奇跡だと、思えるほどの大人子どもなあたしです。

 そうだ、お洗濯しなくっちゃ! 

 急いで豪徳寺に戻るあたしでした。

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