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第六章 誰も知らぬ地で
01.聖者の平穏1
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ふわりと温かい風が舞い上がり、芽吹いたばかりの青草を撫で咲き乱れた花弁を宙へと押し上げていく。その後を優しく穏やかな風がするりと通り過ぎ、強風に下ろされた瞼を甘く撫でた。
ひと月前は膝まであったはずの雪がいつの間にか消え、名残を消すように世界は美しい彩りに覆われている。
見上げれば薄い雲が風に押されて流れていき、蒼穹に優しい色合いを加えていた。
長くなった黒髪の乱れを直しながら、手にした籠をもう一度抱え上げ、真柴は緩やかな坂道を歩く。
小さな畑で穫れたばかりのアフレフトとバサルは重く、籠いっぱいまで頑張ったことを後悔したが、その足取りは軽い。
「前にベルマンさんが言ってたバサルってタマネギだったんだ。この世界にもタマネギがあるなら料理の幅が広がるな」
頭の中で簡単なレシピを思い浮かべるが、何一つ味を思い出すことができなくて苦笑した。
真柴は今、ルメシア領内にあるポーチュギースという小さな村にいる。
気候は穏やかで雪は少し多いが作物がよく育ち、小さな畑でも自給自足ができるだけの作物が育つ。その中から今日使う分を抜いて帰るのが真柴の仕事だ。
「今日はオニオンスープにしよう。まだ干し肉が残っているから、それを入れて……主食はどうしようかな」
楽しげに細い道を歩く足取りは軽い。
一時に比べて体重は戻ったし、体力も上がった。
王都からこの地に移ってからというもの、とにかく調子が良い。穏やかな気候と美味しい食べ物のおかげもあるが、なによりもここにいる人たちは真柴が聖者だと知らない。
プレッシャーもストレスもない世界にいると、こんなにも心が穏やかになるんだと驚き、こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうと考える余裕すら出てきた。
(大学に入るまでは……でも高校も中学も受験で大変だったし……小学校は人間関係が辛かったから……本当にいつぶりかなんて分からないや)
ただご飯を食べるために野菜を植えて、元気に育つように手入れをして、大きくなったら収穫する。畑にいない時間はご飯を作って食べて寝る、ただそれだけの日々なんて、思えばとても贅沢だ。
小さな村の外れに建つ家は魔獣から人々を守る高い壁ギリギリにあるが、王都に比べて一軒一軒が離れていることもあり、声を気にすることもない。
そして、新たにやってきた真柴のことを、誰も詮索しなかった。
村に男手が増えるのは良いというだけで、それ以上は聞いてこなかったことに安堵したのもあるだろう。
「おう、マシバ! もう帰りか?」
隣の畑……といってもかなり距離があるが、そこの老人が手を振ってくれた。
「はい、今日はたくさん穫れたので、これから料理します」
手を振り返し、ペコリと頭を下げればその向こうにいる奥さんが少しだけ困ったように笑った。
これはしょうがない。
真柴も苦笑してあまり気にしないようにする。
なんせ、真柴の髪と目の色はこの世界では珍しいのだ。
漆黒の目は特に珍しいようだ。
だが一瞬驚いても誰も何も言わず、移り住んで一年が経った今では話しかけてくれるようになった。それだけで充分だと、今にも倒れそうな家へと戻る。
「ただいまー」
家の奥に声をかけ、すぐにかまどへと向かう。
この世界の調理にも随分と慣れた真柴は、腕まくりをして火を点け始めた。
野菜を切り、どんどんと鍋の中へと入れていく。ストッカーに入れてある干し肉を取り出して細長く切ったらそれも鍋に入れ、水を入れ煮込む。煮立ったら塩を入れて終わりという簡単な調理法だが、意外と味が出て美味しいのだ。
スープだけでお腹いっぱいになるのは難しいので、主菜をどうするか悩んでいると扉が開いた。
「なんだ、もう帰っていたのか」
入ってきたのはアーフェンだ。弓と剣を背中に持ち、大きな手は兎の耳を鷲掴みしている。
「おかえりなさい、ベルマンさん!」
元気に声をかければ、アーフェンはちらりと真柴の手元を見てすぐに裏の扉をくぐっていった。
きっと穫ったばかりの兎を捌くのだろう。
料理はなんとかできでも二十一世紀の日本で生まれ育った真柴には、動物の解体が怖くて仕方ない。アーフェンやこの村の人々にとっては当たり前の事でも、先程まで生きていたはずの動物の腹にナイフを入れる勇気が真柴にはない。
それを説明してからというもの、アーフェンはなるべく真柴にその一部始終を見せないよう、離れたところで行うようにしてくれた。
正直有り難いが、自分ができないことに申し訳なさも芽生えてしまう。
今、この地で真柴はアーフェンと二人で暮らしている。
この世界で男の二人暮らしは珍しくないという。
あまりに魔獣の襲撃が頻繁で、家族を失うことが往々にあるというのが理由のようだ。寡婦(夫)も孤児も多く、日本のような婚姻制度ではままならない。
どうしても跡継ぎが必要な貴族以外は、特に婚姻に関しての縛りがない。戸籍の管理もされていないので、結婚届というものも存在しない。互いが共にいることを認識していれば、それが家族なのだそうだ。
大雑把さに驚いたが、真柴とアーフェンの関係を詮索されないから助かってもいた。
ただの居候でお荷物です……と紹介するには真柴の立場は問題だらけなのだ。
こんなにも役に立たない聖者なら、いてもいなくても変わらないのだから、隠す必用なんてないだろう。
以前そんなことをアーフェンに言ったことがある。
これからは身分を隠し、アーフェンと暮らすことになると告げられた時だ。
真柴があまりにも体調を崩し、自分で起き上がることもできなくなった頃、むしろこんな足手まといは神殿にいた方が騎士団の迷惑にかからないのになぜだろうと訝しんだ。なんせ真柴を召喚したのは神殿だ。神殿が責任を負うべきではないかと。
だがアーフェンはそれには答えてくれなかった。ただ「言うとおりにしろ」と口にするばかりで、真柴もその後になにも言えなかった。
ひと月前は膝まであったはずの雪がいつの間にか消え、名残を消すように世界は美しい彩りに覆われている。
見上げれば薄い雲が風に押されて流れていき、蒼穹に優しい色合いを加えていた。
長くなった黒髪の乱れを直しながら、手にした籠をもう一度抱え上げ、真柴は緩やかな坂道を歩く。
小さな畑で穫れたばかりのアフレフトとバサルは重く、籠いっぱいまで頑張ったことを後悔したが、その足取りは軽い。
「前にベルマンさんが言ってたバサルってタマネギだったんだ。この世界にもタマネギがあるなら料理の幅が広がるな」
頭の中で簡単なレシピを思い浮かべるが、何一つ味を思い出すことができなくて苦笑した。
真柴は今、ルメシア領内にあるポーチュギースという小さな村にいる。
気候は穏やかで雪は少し多いが作物がよく育ち、小さな畑でも自給自足ができるだけの作物が育つ。その中から今日使う分を抜いて帰るのが真柴の仕事だ。
「今日はオニオンスープにしよう。まだ干し肉が残っているから、それを入れて……主食はどうしようかな」
楽しげに細い道を歩く足取りは軽い。
一時に比べて体重は戻ったし、体力も上がった。
王都からこの地に移ってからというもの、とにかく調子が良い。穏やかな気候と美味しい食べ物のおかげもあるが、なによりもここにいる人たちは真柴が聖者だと知らない。
プレッシャーもストレスもない世界にいると、こんなにも心が穏やかになるんだと驚き、こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうと考える余裕すら出てきた。
(大学に入るまでは……でも高校も中学も受験で大変だったし……小学校は人間関係が辛かったから……本当にいつぶりかなんて分からないや)
ただご飯を食べるために野菜を植えて、元気に育つように手入れをして、大きくなったら収穫する。畑にいない時間はご飯を作って食べて寝る、ただそれだけの日々なんて、思えばとても贅沢だ。
小さな村の外れに建つ家は魔獣から人々を守る高い壁ギリギリにあるが、王都に比べて一軒一軒が離れていることもあり、声を気にすることもない。
そして、新たにやってきた真柴のことを、誰も詮索しなかった。
村に男手が増えるのは良いというだけで、それ以上は聞いてこなかったことに安堵したのもあるだろう。
「おう、マシバ! もう帰りか?」
隣の畑……といってもかなり距離があるが、そこの老人が手を振ってくれた。
「はい、今日はたくさん穫れたので、これから料理します」
手を振り返し、ペコリと頭を下げればその向こうにいる奥さんが少しだけ困ったように笑った。
これはしょうがない。
真柴も苦笑してあまり気にしないようにする。
なんせ、真柴の髪と目の色はこの世界では珍しいのだ。
漆黒の目は特に珍しいようだ。
だが一瞬驚いても誰も何も言わず、移り住んで一年が経った今では話しかけてくれるようになった。それだけで充分だと、今にも倒れそうな家へと戻る。
「ただいまー」
家の奥に声をかけ、すぐにかまどへと向かう。
この世界の調理にも随分と慣れた真柴は、腕まくりをして火を点け始めた。
野菜を切り、どんどんと鍋の中へと入れていく。ストッカーに入れてある干し肉を取り出して細長く切ったらそれも鍋に入れ、水を入れ煮込む。煮立ったら塩を入れて終わりという簡単な調理法だが、意外と味が出て美味しいのだ。
スープだけでお腹いっぱいになるのは難しいので、主菜をどうするか悩んでいると扉が開いた。
「なんだ、もう帰っていたのか」
入ってきたのはアーフェンだ。弓と剣を背中に持ち、大きな手は兎の耳を鷲掴みしている。
「おかえりなさい、ベルマンさん!」
元気に声をかければ、アーフェンはちらりと真柴の手元を見てすぐに裏の扉をくぐっていった。
きっと穫ったばかりの兎を捌くのだろう。
料理はなんとかできでも二十一世紀の日本で生まれ育った真柴には、動物の解体が怖くて仕方ない。アーフェンやこの村の人々にとっては当たり前の事でも、先程まで生きていたはずの動物の腹にナイフを入れる勇気が真柴にはない。
それを説明してからというもの、アーフェンはなるべく真柴にその一部始終を見せないよう、離れたところで行うようにしてくれた。
正直有り難いが、自分ができないことに申し訳なさも芽生えてしまう。
今、この地で真柴はアーフェンと二人で暮らしている。
この世界で男の二人暮らしは珍しくないという。
あまりに魔獣の襲撃が頻繁で、家族を失うことが往々にあるというのが理由のようだ。寡婦(夫)も孤児も多く、日本のような婚姻制度ではままならない。
どうしても跡継ぎが必要な貴族以外は、特に婚姻に関しての縛りがない。戸籍の管理もされていないので、結婚届というものも存在しない。互いが共にいることを認識していれば、それが家族なのだそうだ。
大雑把さに驚いたが、真柴とアーフェンの関係を詮索されないから助かってもいた。
ただの居候でお荷物です……と紹介するには真柴の立場は問題だらけなのだ。
こんなにも役に立たない聖者なら、いてもいなくても変わらないのだから、隠す必用なんてないだろう。
以前そんなことをアーフェンに言ったことがある。
これからは身分を隠し、アーフェンと暮らすことになると告げられた時だ。
真柴があまりにも体調を崩し、自分で起き上がることもできなくなった頃、むしろこんな足手まといは神殿にいた方が騎士団の迷惑にかからないのになぜだろうと訝しんだ。なんせ真柴を召喚したのは神殿だ。神殿が責任を負うべきではないかと。
だがアーフェンはそれには答えてくれなかった。ただ「言うとおりにしろ」と口にするばかりで、真柴もその後になにも言えなかった。
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