ペンと羅針盤

ナムラケイ

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50:母の計らい

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「いらっしゃい。早かったわね」

 玄関に出てきた母の美津子は明るい顔で笑っていて、楽しそうだ。
 温かい部屋は料理の良い匂いで満ちている。
 航平は靴を脱いで、酒瓶の入った紙袋を手渡した。

「うん。はい、これ。シャンパン」
「ありがと。助かったわ」

 美津子はボトルを受け取ると、部屋の奥に向かって声を上げた。

「有馬さーん。航平、着いたわよ」

 ……は? 

 今、有馬って言ったよな?

 ……は?

「航平、久しぶり」

 美津子の後ろから姿を現したのは、間違いなく有馬だ。
 どくりと心臓が波打つ。

「あ、りま?」

 母の家に、ラフなセーター姿の有馬が佇んでいる。穏やかな微笑を浮かべて。
 なんだ、これ。

「久しぶりじゃねえよ、なんだよこれ」

 訳が分からず戦闘態勢になる航平を遮るように、美津子が言った。

「有馬さん、早めに来てパーティの準備を手伝ってくれてたのよ」
「準備って。有馬は来られないって言っただろ。大体、なんで俺抜きで母さんが有馬と仲良くしてんだよ」
「あら、妬きもち?」
「そうじゃなくて!」
「有馬さん、あんたと別れてからも、ちょくちょく遊びに来てくれてるんだから」
「俺、母さんに別れたこと話してないよな?」
「駄目よー、航平。こんないい男を手放しちゃ」

 駄目だ。話が通じない。
 はしゃぐ美津子と疲弊する航平の間に、有馬が割って入った。

「航平。僕が勝手に美津子さんに連絡してたんだよ。だから、美津子さんにそんなに突っかからないで。それから美津子さん、僕は別れたつもりなんて全くありませんよ」
「あら。そうなんですって、良かったわね、航平」

 なんの茶番だ。
 そうだ、俺は有馬と話したいことがあって、でも電話が繋がらなくて、それで母さんとの約束の時間が近づいていたからここに来たんだった。

 そもそもの状況を思い出して、航平は有馬に詰め寄った。

「なんで電話に出ないんだよ」
「ごめんね。話すより、まず直接会いたかったから」

 そう答えると、有馬は航平の身体をふわりと包み込んだ。
 突然の抱擁と、首筋から立ち上る有馬の匂いに眩暈がする。

「あ、りま?」
「航平。一度は引き下がろうと思ったけど、やっぱり無理だよ。航平がなんと言おうと、振られてなんかあげないから」

 有馬が甘い声で言う。
 息ができなくて、胸ばかりが高鳴って、苦しい。苦しいのに、嬉しい。

 玄関で抱き合う男二人に、美津子が笑って言った。

「我が家で不埒な行為は禁止よ。今夜は、二人で過ごしなさい。ごちそうは明日に回しましょう」

 航平は我に返って有馬から逃れる。有馬もハグはやめたが、掴んだ手は放してくれなかった。
 生みの母親を前に恥ずかしいことこの上ないが、今更だ。

「母さん、ごめん」
「美津子さん、ありがとうございます」

「有馬さんが正解。こういう時は、「ありがとう」よ、航平」
「うん、ありがとう」

 素直に復唱すると、美津子は二人の男の額を順番に指先で弾いた。

「幸せになりなさい。馬鹿息子共」



 有馬のメルセデスは、有馬の匂いがした。
 冬の駐車場に置かれていた車内は冷え切っているのに、妙に顔が火照る。

「窓、開けていいか?」
「いいけど、寒くない?」
「いや、なんか身体が熱くて」
「もしかして具合悪い?」
「そうじゃなくて。この車、あんたの匂いがして、なんか変な気分になる」

 そういう言うと、アクセルを踏もうとしていた有馬がハンドルに額を打ち付けた。

「おい、大丈夫か?」
「…航平。それ、わざと?」
「は?」
「誘ってるの?」
「何がだよ。ほら、さっさと車出せって」
「出すけど。お願いだから、運転中はそういうこと言わないでよ」
「は?」
「こっちは、今すぐ押し倒したいのを我慢してるんだから」

 ハンドルに両腕を乗せたまま、恥ずかしい台詞に乗せて流し目を送ってくる。
 ああ、有馬だ。

「なっ……。もう、いいから、早く出せ!」

 このままだと羞恥で窒息しそうだ。航平は窓を全開にした。

 運転中はほとんど話さなかった。
 運転席の有馬は運転に集中しているフリをしていた。その緊張が伝わってきた。
 航平の緊張も同じように有馬に伝わっているのだろう。
 車内は寒いのに身体は熱くて喉が渇く。
 40キロ、30キロ、20キロ。
 東京までの距離を数えながら、流れ飛んでゆく高速道路の標識をずっと目で追っていた。
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