【オリジナルBL】冷たい海の底(特攻隊員×軍医)

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最終話『変わりゆくもの、変わらないもの』

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最終話 変わりゆくもの、変わらないもの


 肌に触れる空気が冷たさを帯び、すれ違う人々も身に着けるものを秋の装いから冬の厚物へと衣替えし始めている。遠くに見える富士の山もいつの間にかその天辺を白く染め、冬の景色へと移り変わっていた。
 そんな風景を横目に、日高郷治は街を早足に歩く。寒さが増したことで移動に車を使う者が多くなったのか、今日はなかなか車が捉まらなかった。そのせいで約束の時間に十五分遅れてしまっている。待たされて怒るような相手じゃないが、それでも人として最低限急ぐべきだろう。
 角を曲がると待ち合わせ場所の喫茶店がすぐ目の前にあり、年季の入った木製のドアを郷治は開く。それなりの広さのある店の中はほぼ満席の状態で、賑やかな話声に満ち溢れていた。

「――郷治」

 郷治の名前を呼ぶ声がする。声のしたほうに目をやると、窓際の席に座った男がこちらに手を振っていた。そしてそんな彼を、周囲の席に座った女性客たちが熱のこもった視線で見つめているが、幼い頃から慣れ親しんだ光景なので今更驚いたりしない。あの男らしくも整った顔立ちに魅了される女は昔から星の数ほどいる。

「遅れてすまない、兄さん。車がなかなか捉まらなくってな」

 郷治が一言謝ってから向かい側の椅子に腰を下ろすと、兄――高光愁人しゅうとは「気にするな」と笑った。

「可愛い弟のためなら何時間だって待ってやるさ」
「相変わらずだな……」

 兄はすでにコーヒーを味わっているようだったので、郷治もブレンドコーヒーを注文する。

「いつも兄さんのほうから来てもらってすまないな。俺もいずれはそちらに行きたいんだが……」
「何、東京と言っても郊外で西寄りだから、大した距離じゃないさ」

 先の戦争が終わると、陸軍中佐だった愁人はきっぱりと軍を辞め、教師の道を歩み始めた。面倒見のいい愁人には軍人以上に似合っている職だと思うし、本人も楽しそうによく子どもたちの話をしてくれる。
 元々は愛国心が強く、自らの意思によって軍人になった兄だったが、国が特攻を主だった作戦として採用するようになってからその愛国心は徐々に薄くなり始め、戦争末期の頃にはもはや冷めた様子で国を語るようになっていた。中佐という立場上それを決して表に出すことはなかったけれど、その立場に留まり続けなければならなかった当時の状況はきっと、兄にとって物凄く苦しいものだったに違いない。

「それにお前と違って休みがきっちり決まっているからな。お前のほうはどうなんだ? 診療所は上手いこと回せているか?」
「まあぼちぼちだよ」

 郷治も終戦後はすぐに軍医を降り、生まれ故郷であるここ山梨に戻って診療所を開業していた。場所はここから少し離れたところになるが、あの辺りには他に病院がほとんどなかったおかげで開業当初から割と繁盛している。
 それからしばらく、互いの近況について話した。三カ月ぶりの対面だったからか、互いに話すことはたくさんある。けれどやはり兄の話の中心は受け持ったクラスの生徒たちのことで、嬉々として話す兄を見ていると、郷治もなんだか優しい気持ちになれた。

「あれからもう、二年以上も経つんだな……」

 会話が途切れた合間に、愁人が神妙な声でそう呟いた。窓の外に向けられた視線をなぞって郷治もそちらに視線を移すと、賑やかな街の景色がそこに広がっている。
 行き交う人々は皆、戦争のことなど忘れてしまったみたいに平和な様子を見せている。こんな田舎でも、モンペや国民服を着た者などもうほとんど見かけない。この街も空襲を受け、その爪痕が残ったままの場所もあるけれど、復興の歩みは着実に前へ進んでおり、辛い記憶も人々の中から少しずつ薄れていっているように感じていた。
 あの戦争に、この国は負けた。そうなると郷治もわかっていたし、きっと兄もそれを予感していたことだろう。敗戦という結果に多くの国民は落胆していたが、同時に空襲や徴兵に怯えなくて済むようになって、安堵したような空気も巷には漂っていた。

「今も時々、六十三教育隊にいた頃のことを夢に見る。出撃する者をくじで決めたときのことや若い彼らを送り出したときのこと……苦しかった瞬間ばかりを夢に見る」
「俺も同じだ。あそこにいて楽しかった瞬間もあったはずなのに、なぜか夢に見るのは辛い場面だけだ」

 まだ精力盛んだった青年たちと毎日のように接していたあの場所。どこにいても波の音が聞こえ、ふと窓の外を見ればいつも、そこには青い海原が広がっていた。
 あの場所で郷治は友や尊敬する上官――そして、愛する人を失った。そんな悲しみの詰まった場所を離れて二年と少し経つけれど、あの日々のことを夢に見ない夜のほうが少ない。

「俺は自分が送り出した彼らの名前と顔を一人一人覚えている。これからも決して忘れるつもりはない。それが生き残った者の使命だ」
「そうだな……」

 兄はきっと、郷治なんかよりずっと辛かっただろう。特攻に送り出すということは、死にに行けと命じるのと同じだ。まだ人生これからという年頃の青少年たちにそれをすることに、優しいこの人が苦しまなかったはずがない。それでも弱い部分をほとんど見せず、最後まで威厳のある姿を見せていた兄のことを、郷治は今でも心の底から尊敬している。

「そういえば、六十三教育隊で思い出したんだが……あそこから出撃して行った者の中に生きて帰ってきた者がいるらしい」
「そうなのか?」

 もしもそれが郷治の愛した〝彼〟だったなら、兄はこんなもったいぶった言い方はしないだろう。むしろ今日開口一番にそれを伝えてくれたはずだ。だから生きて帰ってきたというのはきっと、〝彼〟以外の誰かだ。

「露木萬代というんだが、覚えているか?」
「露木……って、もしかして丸眼鏡を掛けた、あどけない顔の候補生か?」
「郷治が覚えているとは意外だな」
「直接はほとんど会ったことはないんだが、竜輝と仲がよかったからなんとなく覚えてる」
「そういえば親しい様子だったな……。とても真面目な青年で、頭もいいほうだった。将来はそれなりの立場まで昇り詰めるかもしれないと期待していたが、結局特攻に赴かせることになってしまった」
「しかし、どうやって助かったんだ? 出撃の途中で逃げたとか?」
「いや、どうやら積んでいた爆雷に不良があったらしく、作動しなかったそうだ。敵の目の前まで来ていたが運よく攻撃されず、そのまま捕虜になって最近ようやく帰国、という流れだな」

 他国に出撃して行った兵士が現地で降伏し、そのまま捕虜になるという話は決して珍しくないが、特攻隊でそうなった者の話はほとんど聞いたことがない。それは特攻に赴いて行った者のほとんどが、降伏する間もなく捨て身の攻撃で命を落としているからだ。
 何度振り返っても、特攻なんて馬鹿げているという郷治の思いは変わらなかった。悪戯に若者たちの命をすり減らしていくだけで、それがこの国のためになった例はほとんどない。そしてやはり命を粗末に扱ったこの国は、あの戦争に惨めに敗北した。

「ひょっとしたら月舘も、生きているのかもしれない」

 真剣な顔をした兄がそう言った。

「こんな言葉、気休めにもならないとわかっているが、希望を持つことは決して悪いことじゃないと俺は思う」
「兄さん……俺は希望を持ちたくない。一度諦めたのにまた期待して、それで冷たい現実を突きつけられることになったら、きっと一度目のときよりもショックを受ける」

 彼のことはもう、何も期待していない。期待しなければ裏切られることもないし、そんな都合のいい物語が用意されているなんて、とても信じることができなかった。彼との思い出は全部、あの海辺の兵舎に置いてきたのだ。振り返ることも極力したくない。

「そうか……。余計なことを言ってしまったな」
「いや……ありがとう、兄さん」



 三時間ほど話し込んでから、郷治たちは喫茶店を出た。少し陽の落ち始めた街には冷たい風が時折吹込み、隣を歩く兄も軽く身震いしている。
 兄は遠慮したが、郷治は彼を駅まで見送りに行った。またな、と言って汽車に乗り込む兄を見送る瞬間は、何度迎えてもやはり少しだけ寂しさを感じてしまう。この歳になっても兄離れができていないのかと自分に呆れつつ、けれど兄のほうが弟離れできていないのでお互い様だと一人笑った。
 帰りの車を捉まえようと大通りに向かったが、停留所に人の列ができていたので郷治は諦めて歩いて帰ることにする。自宅までは一時間かからないくらいだ。往復どちらも歩きはさすがに辛いが、寒くても雪は降らないようだし、帰りくらいは歩きでもいい。
 中心部を少し離れると、すれ違う人が一気に減って寂しい雰囲気が漂い始める。辺りを見回せば、四方は高い山々に囲まれており、まるで巨大な壁に閉じ込められているかのような錯覚を覚えてしまう。当然、海なんか見えるわけがない。

(あんなもの、見えないほうがいいんだ……)

 軍医を降りた後、山梨に腰を据えると決めたのは生まれ故郷だからという理由だけじゃない。ここからならどこへいても、海が見えることがないからだ。海を見ると、どうしても若くして先立った彼のことを思い出してしまう。そして思い出せば胸が痛くなるような、強烈な悲しみと寂寥に襲われてしまうとわかっていたからだ。

(まあ海が見えなくても、結局は毎日のようにあいつのことを思い出してしまうんだがな……)

 あれだけ愛おしかった人のことを、あれだけ可愛くて仕方のなかった人のことを、簡単に忘れられるわけがない。ふとした瞬間に、郷治に甘えてきた彼のことを、郷治の腕の中で安心しきった顔をして眠っていた彼のことを――いろんな場面の彼を思い出していた。
 もう逢えないとわかっていながらも、郷治はずっと前へ進めないでいる。あの場所からずいぶんと遠いところにいるはずなのに、心だけがあの兵舎にいた頃と変わらぬまま、ずっと過去を生きている。冷たい海の底に沈んでいったのは彼のほうのはずなのに、郷治の心も一緒に沈んでしまったかのような、そんな感覚がずっとしていた。
 死の間際、彼は自分のことを想ってくれていただろうか? 冷たい海の底で、今も自分を想い続けてくれているだろうか? 最後に夜を共にした日と変わらぬ姿のままの彼を想像しながら、そんなことを思う。
 数百メートル先に、診療所を兼ねた自宅が見えてきた。いつの間にかここまで来ていたのかと思いつつ、残りの帰路をゆっくりと歩いていると、前方から松葉杖を突いた男が歩いて来ているのが見えた。少し距離が縮まると、片方の脚の膝から下がないのが見て取れる。きっと戦争に出兵していたか、あるいは空襲で失ってしまったのだろう。そういう者はこの辺りでも決して珍しくない。あまりジロジロ見るのもよくないと思い、郷治は目を逸らしてすれ違う。その瞬間に、この山々に囲まれた場所では決してすることのないはずの、懐かしい潮の香りが鼻孔を掠めたような気がした。慌ててすれ違ったばかりの男を振り返れば、彼もまた足を止め、こちらを振り返っていた。

「――郷治さん!?」

 もう決して聴くことは叶わないと絶望していた〝彼〟の声が、郷治の鼓膜を震わせる。けれどこんなところに彼がいるはずがない。彼が、生きているわけがない。それでも期待を込めて男の顔を確認すれば、それは確かに郷治の見覚えのあるものだった。記憶の中の彼よりも少し大人びてはいるけれど、それでもそこにいたのは郷治がかつて愛し、今もずっと愛し続けている彼だ。

「やっぱり郷治さんじゃ! よかった、ちゃんと逢えた!」

 彼は少し開いていた距離を再び詰めてくる。髪型はあの頃と変わらない、坊主頭のままだ。大人の男の顔になりつつあるそれを彼は満面の笑みに染め、しかし次の瞬間には細められた瞳から涙を零し始めた。

「観光案内っ……してくれますかっ……?」

 涙声で放たれた言葉がおかしくて、郷治は一瞬笑ってしまう。胸の奥深くに沈んでいた温かな気持ちが一気にせり上がり、それは涙となってボロボロと溢れ出した。

「もっと他にっ、言うことがあるだろうがっ……」
「えっとっ……ただいま、ですかっ……?」
「そうじゃねえよっ……けど、それでいいっ」

 郷治は目の前に立ち尽くす男を強く抱き締める。――ちゃんと触れることができた。着ている服の感触も、触れ合った頬の柔らかさもちゃんと感じられる。これは夢なんかじゃない。本当に彼が、郷治の元へ戻ってきてくれたのだ。

「帰ってくるのが遅いんだよ、馬鹿野郎っ」
「すみません……」
「謝るなっ。謝るなよ、竜輝っ……」

 ずっと、彼のことは諦めたつもりでいた。もう二度と逢えないと覚悟していたはずだった。だけど決まった相手をつくらずにずっと一人でいたのは、やっぱり竜輝が帰ってくるのを心のどこかで待っていたからだ。
 冷たい海の底にずっと沈んでいた郷治の心に、温かな陽の光がようやく射し込んだ瞬間だった。



 冷たい海の底 終
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