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「……なんだ、この紙の山は。嫌がらせか? 新手の暗殺計画なのか?」
王宮の執務室。
かつては豪華な調度品に囲まれていたこの部屋も、今や必要最低限の机と椅子があるだけだ。
そしてその机の上には、王子の視界を遮るほどの厚さで書類が積み上げられていた。
「嫌がらせではありません。殿下、それが本来の『第一王位継承者』がこなすべき一日の業務量ですよ」
壁際で時計を確認していた会計官のハンスが、感情の失せた声で告げる。
「嘘をつけ! 今までは、こんなものはなかったぞ! 私がここに来れば、いつも綺麗に整理された三枚ほどの報告書と、淹れたてのハーブティー、それに私の功績を称える詩集が置いてあったはずだ!」
「それはラーニャ様が、殿下が目を通す前にすべての書類を精査し、不備を突き返し、各部署への指示を済ませ、殿下でも読める『超簡略版』を作成していたからです」
「……何だと?」
王子は呆然として、目の前の山の一番上にある紙を手に取った。
そこには『農区における灌漑施設の老朽化に伴う予算配分および、水利権の再調整に関する陳述書』という、呪文のようなタイトルが躍っている。
「……読めない。文字が滑って、頭に入ってこないぞ。ハンス、これをいつものように三行にまとめろ」
「お断りします。私は会計官であって、あなたの家庭教師でも秘書でもありません。そして、その『三行にまとめる作業』のために、ラーニャ様は毎日睡眠時間を削っておられたのですよ」
「ラーニャが……? あ、あいつ、そんなことをしていたのか? だが、あいつはいつも『お茶が冷めますわよ』とか『早くサインをなさい』とか、文句ばかり言っていたじゃないか!」
「それこそが愛……いえ、義務感だったのでしょうね。今のあなたには、その文句を言ってくれる人すらおりませんが」
ハンスは冷たく言い放つと、さらに追加の書類をドサリと机に置いた。
重みで、机がミシリと悲鳴を上げる。
「待て! まだあるのか!? もういい、こんなものは後回しだ! それより朝食はどうした! さっきから腹が鳴って、集中できないんだ!」
「朝食なら、先ほど配膳室に届けておきましたよ。黒パン一つと、薄いスープです。あ、ご自分でお取りに行ってくださいね。現在、あなたの身の回りの世話をする使用人は、人件費削減のため一人も配置されておりませんから」
「……私が、自分で取りに行けというのか!? この私が!」
「ええ。行かなければ、ネズミに食べられるだけですよ」
王子は屈辱に震えながら、よろよろと立ち上がった。
藁布団で寝たせいで腰が痛い。
おまけに、自分で服を着ようとしてボタンを掛け違え、ひどく間抜けな格好になっている。
「……ラーニャ。ラーニャがいれば、今頃私はシルクのシャツを着て、温かいオムレツを食べていたはずなのに……」
「殿下。その『ラーニャ様』を、公衆の前で罵倒して追い出したのは、他ならぬあなたですよ」
ハンスの言葉が、王子の胸にグサリと突き刺さる。
だが、彼の脳構造は驚くべき自己防衛本能を備えていた。
「……わかったぞ。そうか、そういうことだったのか!」
「……何がですか?」
「ラーニャは、私に『独り立ち』を促しているんだ! 私が甘えすぎていたから、あえて突き放して、真の王としての資質を試しているに違いない!」
「……はぁ?」
ハンスがこれまでで一番深い溜息をついたが、王子は止まらない。
彼は瞳に怪しい光を宿し、ガタガタの椅子に座り直した。
「見ていろ、ラーニャ! 私はこの試練を乗り越えてみせるぞ! この程度の書類、愛の力で……愛の力で……えーと、この『灌漑』というのは、何と読むんだ?」
「……『かんがい』です」
「そうか、カンガイだな! よし、まずはこの文字の書き取りから始めるぞ!」
「……日が暮れますよ、殿下」
王子の前向きすぎる勘違いは、もはや病の域に達していた。
一方その頃、アストレア公爵邸では。
「王子、今頃漢字ドリルでもやってるかしら?」と笑うラーニャと、「ボス、この新作タルト、外側のパイ生地が最高です!」と口の周りを汚すメリルが、平和な午後のひとときを楽しんでいた。
王子の「日常」は、かつての贅沢がどれほど他人の犠牲の上に成り立っていたかを思い知る、地獄のロードへと変貌していたのである。
王宮の執務室。
かつては豪華な調度品に囲まれていたこの部屋も、今や必要最低限の机と椅子があるだけだ。
そしてその机の上には、王子の視界を遮るほどの厚さで書類が積み上げられていた。
「嫌がらせではありません。殿下、それが本来の『第一王位継承者』がこなすべき一日の業務量ですよ」
壁際で時計を確認していた会計官のハンスが、感情の失せた声で告げる。
「嘘をつけ! 今までは、こんなものはなかったぞ! 私がここに来れば、いつも綺麗に整理された三枚ほどの報告書と、淹れたてのハーブティー、それに私の功績を称える詩集が置いてあったはずだ!」
「それはラーニャ様が、殿下が目を通す前にすべての書類を精査し、不備を突き返し、各部署への指示を済ませ、殿下でも読める『超簡略版』を作成していたからです」
「……何だと?」
王子は呆然として、目の前の山の一番上にある紙を手に取った。
そこには『農区における灌漑施設の老朽化に伴う予算配分および、水利権の再調整に関する陳述書』という、呪文のようなタイトルが躍っている。
「……読めない。文字が滑って、頭に入ってこないぞ。ハンス、これをいつものように三行にまとめろ」
「お断りします。私は会計官であって、あなたの家庭教師でも秘書でもありません。そして、その『三行にまとめる作業』のために、ラーニャ様は毎日睡眠時間を削っておられたのですよ」
「ラーニャが……? あ、あいつ、そんなことをしていたのか? だが、あいつはいつも『お茶が冷めますわよ』とか『早くサインをなさい』とか、文句ばかり言っていたじゃないか!」
「それこそが愛……いえ、義務感だったのでしょうね。今のあなたには、その文句を言ってくれる人すらおりませんが」
ハンスは冷たく言い放つと、さらに追加の書類をドサリと机に置いた。
重みで、机がミシリと悲鳴を上げる。
「待て! まだあるのか!? もういい、こんなものは後回しだ! それより朝食はどうした! さっきから腹が鳴って、集中できないんだ!」
「朝食なら、先ほど配膳室に届けておきましたよ。黒パン一つと、薄いスープです。あ、ご自分でお取りに行ってくださいね。現在、あなたの身の回りの世話をする使用人は、人件費削減のため一人も配置されておりませんから」
「……私が、自分で取りに行けというのか!? この私が!」
「ええ。行かなければ、ネズミに食べられるだけですよ」
王子は屈辱に震えながら、よろよろと立ち上がった。
藁布団で寝たせいで腰が痛い。
おまけに、自分で服を着ようとしてボタンを掛け違え、ひどく間抜けな格好になっている。
「……ラーニャ。ラーニャがいれば、今頃私はシルクのシャツを着て、温かいオムレツを食べていたはずなのに……」
「殿下。その『ラーニャ様』を、公衆の前で罵倒して追い出したのは、他ならぬあなたですよ」
ハンスの言葉が、王子の胸にグサリと突き刺さる。
だが、彼の脳構造は驚くべき自己防衛本能を備えていた。
「……わかったぞ。そうか、そういうことだったのか!」
「……何がですか?」
「ラーニャは、私に『独り立ち』を促しているんだ! 私が甘えすぎていたから、あえて突き放して、真の王としての資質を試しているに違いない!」
「……はぁ?」
ハンスがこれまでで一番深い溜息をついたが、王子は止まらない。
彼は瞳に怪しい光を宿し、ガタガタの椅子に座り直した。
「見ていろ、ラーニャ! 私はこの試練を乗り越えてみせるぞ! この程度の書類、愛の力で……愛の力で……えーと、この『灌漑』というのは、何と読むんだ?」
「……『かんがい』です」
「そうか、カンガイだな! よし、まずはこの文字の書き取りから始めるぞ!」
「……日が暮れますよ、殿下」
王子の前向きすぎる勘違いは、もはや病の域に達していた。
一方その頃、アストレア公爵邸では。
「王子、今頃漢字ドリルでもやってるかしら?」と笑うラーニャと、「ボス、この新作タルト、外側のパイ生地が最高です!」と口の周りを汚すメリルが、平和な午後のひとときを楽しんでいた。
王子の「日常」は、かつての贅沢がどれほど他人の犠牲の上に成り立っていたかを思い知る、地獄のロードへと変貌していたのである。
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