乾坤一擲

響 恭也

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閑話 今川氏真のその後

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 文禄3年、駿河国。
「今が好機じゃ、織田の屋台骨は揺らいでおる。麿の宿願を果たすときじゃ!」
 今川氏真は駿河に入り、旧臣朝比奈泰朝を訪ねていた。彼は大名としての今川氏滅亡後、徳川家の被官となっていた。だが氏真を守り切れなかった負い目もあり、居館に彼が訪ねてきた時拒絶しきれなかったのである。
「殿、いえ、あえて今川殿と呼ばせていただく。拙者と貴殿はもはや主従に非ず」
「泰朝は麿を見捨てるでおじゃるか!?」
「さにあらず。見捨てるのであればそうですな。今川旧臣の浪人者を紹介するでありましょう」
「そうか、では彼らがどこにおるか教えてたもれ!」
「それはできませぬ」
「泰朝は保身を考えておじゃるか?」
「拙者はすでに老齢なれば、今更わが身を惜しむことはございませぬ。なれど」
「なれど?」
「今更ですが、我が時間はあの時より止まっており申す」
「あの時とは?」
「永禄3年の尾張にござる。あの折、義元公をお守りできなんだこと、わが生涯の痛恨事にござる」
「父上の…」
「さよう、そしてその後、拙者は今川家を支えきれませなんだ。掛川退去の折、伊豆に赴いてから、そして北条を退去するとき。都度都度に義元公にお詫び申し上げましたが、我が力及ばず、こうして老醜をさらしております」
「いや、泰朝はよくやってくれていた。力及ばぬのは麿の器量が及ばぬゆえにおじゃる」
「ありがたきお言葉にござる。それゆえに拙者も最後のご奉公ができ申す」
「どういうことじゃ?」
「挙兵はおやめなされ。そもそも駿河のどこに立て籠もるおつもりか?」
「駿府じゃのう」
「いまの主は松平秀康殿にて、その雄略は父たる家康殿を上回ると言われる方にござる。みすみす城を乗っ取られるとでも?」
「うぬ…」
「噂によると小田原に氏康殿が入ったとのこと。北条が援軍を出すならば伊豆との国境にある興国寺あたりですかな?」
「おお、それじゃ! さすが泰朝は知恵者でおじゃる!」
「おやめなされ。伊豆には織田の猛将、滝川左近が陣取ってござる。彼の者知略にも優れて御座れば、興国寺を手薄にして誘い込み、そのまま包囲して干殺しくらいのことはやりかねませんぞ?」
「むう、ではどうすればよいのか?」
「まず、今川殿が此度挙兵のきっかけと考えたことは、信長公のご逝去にござろう?」
「そうじゃ、幕府は動揺しておるし、将軍も無理難題を言い始めた。織田の支配が揺らいでおるのじゃ!」
「その言葉、誰に言われました?」
「今川の旧臣と名乗る男が麿のもとに参り、駿河にて段取りを整えていると申したのでおじゃる!」
「その者の名は?」
「え…?」
「どこのなんという者ですかな? 風体は?」
「派手な着流しを纏っておった。ヒョウ柄の。それでちょび髭を生やしておったのう」
「見事にたばかられておりますな。おそらくですが、織田の忍び頭の彦太郎でしょうな」
「あの秀隆殿の懐刀でおじゃるか!?」
「ただ傾いた服装と、髭という風貌で、さらに奇矯なふるまいをするという特徴だけが独り歩きしておるゆえ、本物の彦太郎かはわかりませぬが」
「恐ろしや…」
「さて、話を元に戻しましょう。最近ですが今川旧臣の浪人者が騒いでおります。おそらく同じように焚きつけられたのでしょう。そして彼らが今川殿という旗頭、名分を得れば必ずや挙兵に至ります。同じように焚きつけられたものが各地にいるのでしょう。おそらくですが氏政殿も同じではないでしょうかな?」
「ということは…?」
「まず、織田の屋台骨、揺らいでおりますか? そうであれば、拙者は今このように平服で屋敷におるはずがございませぬな。郎党を引き連れ駿府のお城に詰めております」
「確かに」
「そもそも、信長公が死んだという話ですが、どこからともなく流れてきております。そして幕府が喪に服しているという話はありません。家康様は石山に登られたようですが」
「む? 家康殿が江戸にいないとなれば…」
「そう、兵を起すに千載一遇の機とみるでしょうな。だがそれは誘いだとしたら?」
「…すり潰される未来しか見えないでおじゃる」
「「御名答にござる。これにて我が最後のご奉公の意を汲んでいただけたと思われますが?」
「泰朝よ、感謝いたす。ひとまず京に戻るでおじゃる」
「それが良いかと。今川の再興はもはや不可能です。信長公が本当になくなっていたとしても、今更幕府の屋台骨は揺らぎますまい」
「左様か…これも時代の移り変わり、栄枯盛衰というものにおじゃるのう…」
「まこと、栄枯盛衰は世の習いにござる」
「泰朝、世話になりっぱなしであったな。麿がこの身を全うできるはすべてそなたのおかげじゃ。感謝するでおじゃる」
「はは、ありがたきお言葉にござる。これで少しは義元公へのご恩を返すことができたと思います」
「二代にわたって世話をかけたのう。これにてさらばじゃ。泰朝よ、達者でな」
「はい、氏真さまもご壮健にて」
「おう、最後には元の呼び方になっておるぞ?」
「最後だからですよ」

 こうして騒乱が治まるまで氏真は京の屋敷に籠り、一切外部との接触を断った。その身の処し方が信長の目に留まったのは、そもそも氏真は真っ先に策にはまり自滅すると思っていたからだ。
「今川氏真、久しいな」
「はは、信長様もご壮健にて何よりにおじゃる」
「うむ、また貴公の蹴鞠の妙技を見せてもらいたい…というわけではない」
「はい?」
「此度の騒乱、お主のもとにもうちの間者が行っていたであろうが。なぜに挙兵せなんだ?」
「挙兵しようとはしたのですが、わが身のふがいなさ故、付き従うものがおりませんで」
「さにあらず、押しとどめた臣がおろうが?」
「御慧眼、お見事におじゃる。泰朝に止められ申した」
「そうか。なればその功に免じ、今川家の再興を許す。所領は駿河にはやれぬが、勝竜寺そばに1万石を与える」
「麿の身に余る処遇なれば…」
「お主に余ろうとも、家臣と力を合わせればよい。それに戦はもうない…はずじゃ」
「なれば、駿河の今川旧臣を呼び寄せてよろしいか?」
「いいだろう。朝比奈を付け家老とせよ」
「ありがたき…」
「のう、桶狭間の事は武門の習い故、詫び言はせぬ」
「そうですの。麿も武門の身ゆえ、恨み言はありませぬ。父上の武運の拙きゆえに」
「そう…じゃの」
「まあ、あれですな。戦なき世であれば、蹴鞠に精を出しましょう。あとは公家との付き合いですかのう?」
「そうだな。幽斎の助けになってやってくれぬか」
「はっ!」

 こうして今川家は公家大名として存続することとなった。細川幽斎とともに公家対策を行うこととなる。もともと蹴鞠で名を売っていたこともあり、意外な人脈を築いていた。
 のちに京に大学が設けられる。公家の知識と歴史を学ぶことと、教養の伝授を目的とされ、大名の子弟は一定期間ここで学ぶことを義務付けられた。また算術や築城術、農業や経済など、内政に携わる知識も教える日ノ本最高の学府とされてゆく。平民であっても優秀であれば入学でき、ここを卒業したものは、大名家や商家に招かれた。
 また、公家と縁を結ぶこともあり、多数優秀な人材を輩出し、日ノ本の活力を担う場となる。初代校長は細川幽斎であったが、教頭として、教師陣の取りまとめは氏真がすることとなった。大学の基礎を築いた彼らは、学問の祖として天満宮に祭られることとなる。
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