上 下
36 / 336
第一部 四季姫覚醒の巻

第三章 春姫覚醒 8

しおりを挟む

 暖かな光とともに、周囲に激しい風が巻き起こった。
 光の風に包まれた途端、空気中を漂っていた大量の病原菌の粉が、吹き飛ばされて消滅していく。
「浄化の光!? なんと酷い、私の可愛い病原菌たちが、次々と消されてゆく……!」
 病魔の悲鳴があがった。同時に、榎の意識がはっきりと戻ってきた。
「体が、楽になった……」
 榎は起き上がり、手や体を見つめて自身の状態を確認した。病原菌に侵される前の、健康な体に戻っていた。まるで、風がすべての病を吹き飛ばしてくれたかに思えた。
 唖然としながら、榎は風を起こしている光の中心を凝視した。光の中には、椿がいるはずだった。
 光の激しさが、徐々に和らいできた。光源を肉眼でも直視できるくらいになり、榎は目を細めながら、目の前の光景に見入った。
「病むうつつ 淡き光に 散る桜 彼方の心 癒さんことを」
 声が聞こえた。椿の、物静かな、かつ力強い声だった。
 光が弾けて、あたりに飛散した。中心部から、椿が姿を現した。
 椿は桃色を貴重とした十二単を身に纏い、広場に燦然と立っていた。
「――春姫、見参です!」
 椿の、黒くて長い髪がはためいた。絵で見かける平安時代の女性を髣髴とさせる、清楚で麗しい立ち姿だった。
「椿が、春姫だって……?」
 榎は驚いて、呼吸さえ忘れた。全く予想もしていなかっただけに、現実を目の当たりにしても、まだ信じられなかった。
「二人目が、覚醒しちまったか……!」
 宵月夜が、焦った表情で舌を打った。宵月夜の反応から察しても、椿の変身は間違いなさそうだった。
「病魔、引け。四季姫が二人も相手では、お前には荷が重い」
 状況が変わり、宵月夜は急に逃げ腰になった。病魔を引き下がらせるべく指示を出した。
 だが、病魔は相変わらず余裕の表情で、逃げるつもりは微塵もない様子だった。
「お先にお引きください、宵月夜さま。私の生みだした大事な病原菌、いともたやすくやられるなんて、腹立たしい。お礼はきっちり、させていただきます!」
 病魔は苛立ちをあらわにして、地面を蹴った。
「よせ、病魔! 奴は春姫だ、お前とは相性が悪すぎる!」
「夏だろうが春だろうが、感染力には関係ありません。覚悟なさい!」
 宵月夜の制止の声も聞かず、病魔は手に持った壷から、新たに病原菌を掴んで、椿に向かっておどりかかった。
 椿は身じろぎもせず、落ち着いた表情で、やってくる病魔を見つめていた。冷静な瞳は、氷を思わせるほど、冷ややかにも感じられた。
 椿は手に、横笛を持っていた。竹で作られた、真っ白で綺麗な笛だった。笛に口をつけ、椿は演奏する構えを見せた。
「人を蝕む悪しき妖怪。みやこの空へと還りなさい。――〝鎮魂の調べ〟」
 笛の中に、息が吹き込まれた。
 高尚な音色が周囲にこだました。
 直後、病魔の手にしていた病原菌が、空気に飛散して、消滅した。
 病魔は驚いて立ち止まり、表情を恐怖に歪めた。美しい音を耳にした病魔の体に、急激な変化が起こっていた。
「何と恐ろしい音色! 体が、溶けていきます!」
 病魔は悲痛な声を上げた。
 病魔の手が、水に濡れた砂糖菓子みたいに、どろどろと溶けて、地面に滴を落とし始めた。
 やがて、足や顔、体全体が液状化し、病魔は断末魔の悲鳴さえあげられないままに、地面に流れて消滅した。
「馬鹿者が、お前では敵わないと言っただろう、病魔……」
 哀れな手下の末路を見届けて、宵月夜は表情を苦痛に歪めた。
「春姫の力は、癒しの力。病には猛毒だ」
 病魔に最期の言葉を掛けて、宵月夜は翼を翻して去っていった。
 周囲から妖怪の気配が消え、静寂と平安の空気が戻ってきた。
 直後、支えを失ったみたいに、椿の体が崩れて倒れた。
「椿、大丈夫? しっかりして」
 榎は慌てて、椿に駆け寄った。横たわる椿の上体を起こし、必死で呼びかけた。
「平気よ、えのちゃん。少し、疲れただけ」
 椿は、優しく微笑んでいた。熱も引いて、息苦しさも感じられなかった。病魔に感染させられた病気の症状は、すっかり見られなくなっていた。
 ただ、急に四季姫としての力を使ったために、体に負担がかかったのだろう。
「えのちゃんと、同じ格好だね。えヘヘ、おそろいだぁ」
 身に纏っている十二単を眺めながら、椿は嬉しそうに笑った。
「椿。何が起こったか、分かる?」
 榎が尋ねると、椿はゆっくりと、頷いた。
「なんとなく、ね。頭の中で、声が聞こえたわ。椿の奏でる調べで、悪い妖怪を倒せるって」
 椿が体験した感覚は、榎にも身に覚えがあったから、理解できた。
「あとね、病魔を倒しただけじゃ、病気になったみんなは救えないんだって。誰かが、教えてくれたわ」
 椿はゆっくり起き上がり、広場の外れへ歩いていった。榎は側で、椿のふらつく体を支えた。
 広場の隅から、木々の間を除き見ると、山の外の景色が一望できた。周囲は薄暗い田畑が広がっていた。間隔をあけて、電柱や民家の明かりが、ちらほらと確認できた。
 椿は寂しいながらも、確実に営まれている人々の生活を見つめながら、ゆっくりと笛を構えた。
「癒しの調べが、町中に聞こえますように」
 静かで落ち着いた音色が、周囲を包み込んだ。透き通る音は空気を振動させて、きっと、四季が丘全域に響き渡っただろうと思えた。
「もう、大文夫だよ。みんな元気になれるはず」
 榎を見つめて、椿は笑った。
「うん、心が洗われる音色だったよ」
 榎も笑って、頷いた。
しおりを挟む

処理中です...