婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。

黒猫かの

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「……ああ、もうっ! この報告書は一体何なんだ! 主語と述語が迷子になっているではないか!」


王宮の執務室。
かつてはエリーが「完璧な事務処理」と「容赦ないダメ出し」で整えていたその聖域は、今や紙屑の山が築かれるカオスな空間へと変貌を遂げていた。


ウィルフレッド王子は、髪をかき乱しながら机に突っ伏した。
彼の目の前には、近隣の村から届いた、読解不能なミミズが這ったような文字の嘆願書が並んでいる。


「殿下……落ち着いてください。エリー様がいらっしゃった頃は、彼女が全てを『三行』に要約し、さらに『この政策は予算の無駄遣い、実施者の頭脳も無駄遣いですわ』という辛辣な付箋を貼ってくださっていたのですが……」


側近のエイドリアンが、胃を押さえながら震える声で告げる。


「分かっている! あの時は『口うるさい女だ』と思っていたが、いざいなくなってみると……この書類のどこが間違っているのか、誰も指摘してくれないのだ! これでは私が、ただの無能な王子に見えるではないか!」


「……殿下、いえ、その……すでに外部からは、事務処理能力の低下を危惧する声が……」


「黙れ! 私だって頑張っている! だが、マリアに手伝わせようとしたら……」


王子の視線の先。
部屋の隅にあるソファでは、マリアが国家予算案のページを丁寧に破り、「見てください、王子様! たくさん繋げて、お部屋を飾る鎖を作りましたわ!」と満面の笑みを浮かべていた。


「……ああ、マリア。それは来期の道路補修計画だ。……鎖にするには、少しばかり国民の血税が重すぎるな……」


王子は力なく笑った。
かつてのエリーなら、ここでマリアに向かって「その鎖で、自分の危機感の無さを縛り上げたらよろしいわ!」と、音速を超える勢いでツッコミを入れてくれたはずだ。


それが今や、誰も何も言わない。
部下たちは王子の顔色を伺い、マリアはただニコニコしている。
そこにあるのは、エリーという名の「正論の嵐」が去った後の、不気味で無能な静寂だった。


「……マリア様、それから殿下。……街からの報告ですが、エリー様はどうやら、カイン副団長と共に『不正貴族の摘発』を始めたようです」


エイドリアンの言葉に、王子が弾かれたように顔を上げた。


「なんだと? カインだと!? あの鉄面皮の男と、あいつが……!?」


「はい。どうやら、エリー様の実況によって、ヴァン・ダルク伯爵の横領が白日の下に晒されたとか。陛下もその手腕を高く評価されており、最近では『エリーを呼び戻してはどうか』という冗談……いえ、打診まで出ている始末でして」


王子の心に、どす黒い嫉妬の炎が燃え上がった。
自分がこれほどまでに苦労しているというのに、彼女はあろうことか、自分を捨てた元婚約者の部下と仲良く「掃除」を楽しんでいるというのか。


「……認めん。認めんぞ。エリーは、私の横で私の間違いを指摘するために存在していたはずだ! それを、あのような無愛想な男に明け渡すなど……!」


「殿下。……そもそも、婚約を破棄されたのは殿下の方ですが」


エイドリアンの冷静な一言が、王子の心にクリティカルヒットした。
しかし、今の王子にはその「事実」さえも、自分を奮い立たせるための燃料でしかなかった。


「うるさい! 私は……私はただ、彼女が本当に平民として苦労しているか、この目で確かめに行くだけだ! そう、もし彼女が『やっぱり殿下がいないと寂しいですわ』と泣きついてきたら、事務官として雇ってやってもいいと言いに行くのだ!」


「……非常に往生際が悪いですね、殿下」


王子はエイドリアンの呆れ顔を無視し、クローゼットから一番「平民に見えなくもない(ただし金糸がふんだんに使われている)」マントを引っ張り出した。


「マリア! これから街へ行くぞ! エリーという女が、いかに間違った人生を歩んでいるか、私が直接教えてやる!」


「ええっ、お散歩ですか!? 嬉しいですわ、王子様! 私、美味しいお菓子が食べたいです!」


「……ああ、菓子でも何でも買ってやる。さあ、行くぞ!」


こうして、現実逃避と未練の塊となった王子は、天災級のトラブルメーカーを連れて、再び街へと繰り出すことを決意した。


一方、そんな王子の焦燥など露ほども知らないエリーは。


「……はい、カイン様! 今の書類の書き方、判定入ります! 文字の間隔が狭すぎて、私の視力が三秒で低下しましたわ! 行間を空けるのは、騎士の礼儀以前に人間としてのマナーですわよ!」


「……すまない。以後、気をつける」


彼女は騎士団の詰所で、カインを相手に絶好調のツッコミを飛ばしながら、人生で最も充実した時間を過ごしていた。
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