婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

文字の大きさ
4 / 28

4

しおりを挟む
五時間後。

私は、人生で最高の目覚めを迎えた。

「……体が、軽い」

ベッドの上で体を起こし、自分の手を見る。

指先まで血が巡り、肌には艶が戻っている。

鏡を覗き込むと、そこには目の下のクマが消え、心なしか目つきの悪さも二割ほど軽減された(当社比)美女が映っていた。

睡眠とは、これほどまでに偉大なものだったのか。

「お、お目覚めでしょうか……ノエル様……」

恐る恐る声をかけてきたのは、部屋の隅で震えていた若いメイドだ。

私が視線を向けると、彼女は「ヒッ」と肩を跳ねさせた。

「あ、あの! お湯加減はいかがいたしますか!? 熱湯攻めがよろしいでしょうか!?」

「……普通のお風呂でお願いできるかしら。あと、ラベンダーのオイルがあれば」

「は、はいぃ! ただちに!」

メイドは脱兎のごとく部屋を飛び出していった。

どうやら私の「目つき矯正」は、まだ一般人には効果が薄いらしい。

          ***

入浴を済ませ、用意されたシンプルなドレス(生地は最高級シルク)に着替えた私は、執事のセバスに案内されて公爵の執務室へと向かった。

重厚な扉の前で、セバスが足を止める。

「旦那様がお待ちです。……どうか、お手柔らかに」

「お手柔らかに?」

誰に対してだろう。

まあいい。私は深呼吸をして、扉をノックした。

「入れ」

地を這うような低い声。

扉を開けると、そこは広大な執務室だった。

壁一面の本棚、高級そうな調度品、そして部屋の中央にある巨大な執務机。

その奥に、氷の公爵ルーク様が座っていた。

眉間に深い皺を寄せ、書類を睨みつけている。その背後には、禍々しいオーラすら見えるようだ。

(……やはり、ここからが本番ね)

私は気を引き締めた。

昨日の甘い言葉や待遇は、あくまで私をここに連れてくるための餌。

これから提示されるのは、王城での激務をも上回る、地獄の労働契約に違いない。

でなければ、あんな高級ベッドやマカロンの説明がつかない。

「失礼いたします、閣下。ノエル・フォン・ローゼン、ただいま参りました」

私は机の前まで進み、ビシッと敬礼に近いお辞儀をした。

ルーク様が顔を上げる。

そのアイスブルーの瞳が、私をじっと見つめる。

「……座れ」

「はい」

勧められた椅子に座る。

革張りの椅子は、これまた驚くほど座り心地が良い。

ルーク様は、一枚の羊皮紙を私の前にスッと差し出した。

「契約書だ」

「拝見します」

私は目を走らせた。

ここには、私のこれからの運命が記されている。

『雇用契約書』

『雇用主:ルーク・ヴァン・アースガルド』

『被雇用者:ノエル・フォン・ローゼン』

ふむ、ここまでは普通だ。

問題は次だ。

『第一条:勤務時間』

『原則として、午前十時から午後三時までとする。ただし、昼休憩二時間を挟むものとする』

「……はい?」

私は思わず声を上げた。

実働三時間?

見間違いだろうか。

『第二条:業務内容』

『一、公爵の視界に入る範囲に存在すること』

『二、公爵が提供する菓子、食事を摂取し、その感想を述べ外食産業への投資判断材料とすること』

『三、適度な散歩』

『四、猫を愛でる(屋敷にいる猫の名前はタマ)』

「……」

私は羊皮紙から顔を上げ、ルーク様を見た。

彼は真剣な表情で、腕を組んでいる。

「……不満か?」

ドスの効いた声で問われる。

私は震える手で契約書を机に置いた。

「閣下。これは何かの冗談でしょうか」

「俺はいつだって本気だ」

「では、罠ですね? この裏に、実は『失敗したら鉱山送り』とか『借金の連帯保証人』とか、そういう特約事項が隠されているのでは?」

「ない」

「では、誤植ですか? 『視界に入る』というのは、敵対勢力の暗殺者から閣下を身を挺して守る『肉の盾』としての業務を指す隠語でしょうか?」

「違う」

ルーク様はため息をついた。

「言葉通りの意味だ。……お前はそこにいて、飯を食って、笑っていればいい」

「それが仕事だとおっしゃるのですか!?」

私は立ち上がった。

「馬鹿にしないでください! 私はこう見えても、王国の国家予算を組み直した実績があります! このような……ペットのような扱いは心外です!」

そうだ。私は仕事がしたいのだ。

自分の能力を活かし、対価を得る。それが私の誇り。

ただ食っちゃ寝して給金をもらうなど、ニートと変わらないではないか!

「……そうか」

ルーク様が目を細めた。

室内の温度が、数度下がった気がする。

「お前は、もっと働きたいと言うんだな?」

「はい! もっと具体的で、生産性のある仕事を希望します! 領地の帳簿チェックでも、魔物討伐の作戦立案でも、何でもやります!」

「……わかった」

ルーク様は羽ペンを取り出し、契約書にさらさらと何かを書き加えた。

「これでどうだ」

差し出された契約書を見る。

『第五条:公爵のメンタルケア担当として、一時間に一回、公爵を罵倒すること』

「は?」

「俺は周囲から恐れられすぎて、誰も本音を言わない。……お前のその冷徹なツッコミが必要だ」

「え、あ、はい。まあ、それなら得意ですが……」

「それから、第六条」

『公爵が極度のコミュ障により会議が停滞した際、代わりに喋ること』

「……通訳ですか?」

「そうだ。俺が『ん』と言ったら『賛成』、『あ』と言ったら『却下』、『……』と黙ったら『全員処刑』ではなく『検討します』と翻訳しろ」

「難易度が高いですね!?」

「できるか?」

試すような目で見られる。

私はニヤリと笑った。

なるほど、そういうことか。

この公爵様は、自分の不器用さを補うための「有能な翻訳機」を求めているのだ。

それならば納得がいく。

「お安い御用です、閣下。殿下の通訳(馬鹿語→共通語)を三年間やっておりましたので、その手の翻訳は得意分野です」

「……よし」

ルーク様は満足げに頷いた。

「では、契約成立だ。……サインしろ」

「はい」

私はペンを取り、署名した。

『ノエル・フォン・ローゼン』

書き終えると同時に、ルーク様がベルを鳴らす。

たちまち扉が開き、十人ほどのメイドたちがワゴンを押して入ってきた。

ワゴンの上には、山のようなケーキ、タルト、ゼリー、焼き菓子。

「……これは?」

「業務だ」

ルーク様は一番手前のショートケーキを指差した。

「領内の洋菓子店の新作だ。……試食して、五段階で評価しろ」

「え、今からですか?」

「そうだ。……真剣にやれ。お前の舌にかかっている」

私はゴクリと喉を鳴らした。

目の前には、宝石のように輝くイチゴのショートケーキ。

王城では、食事すらろくに摂れず、カロリーメイトのような携帯食で済ませていた日々が走馬灯のように駆け巡る。

「……わかりました。この業務、全力で遂行いたします!」

私はフォークを構えた。

一口食べる。

生クリームの濃厚な甘さと、イチゴの酸味が口の中で爆発する。

「……っ!」

「どうだ?」

ルーク様が身を乗り出してくる。

私は真顔で、しかし目尻をわずかに下げて言った。

「星、五つです。……生きててよかった」

その言葉を聞いた瞬間、ルーク様がガタッと椅子から崩れ落ちた。

「か、閣下!?」

「……破壊力が、強すぎる」

ルーク様は机に突っ伏し、耳まで真っ赤にして震えていた。

「え? 何がですか? 毒でも入っていましたか?」

「違う……。尊い……」

「はい?」

「なんでもない。……次だ。モンブランを食え」

「御意!」

こうして、私の「公爵家・事務官(実態はスイーツ評論家兼通訳)」としての初日が始まった。

その頃、王城では。

「まだか! ノエルはまだ戻らんのか!」

クレイス殿下が、私の不在により崩壊し始めた書類の山に埋もれながら、悲痛な叫びを上げていたことを、私は知る由もなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの
恋愛
ある日、マリス王国の侯爵令嬢クロナは、王子が男爵令嬢リリィと密会し、自分を「可愛げのない女」と罵り、卒業パーティーで「婚約破棄」を言い渡そうと画策している現場を目撃してしまう。 普通なら嘆き悲しむ場面だが、クロナの反応は違った。

悪役令嬢は推し活中〜殿下。貴方には興味がございませんのでご自由に〜

みおな
恋愛
 公爵家令嬢のルーナ・フィオレンサは、輝く銀色の髪に、夜空に浮かぶ月のような金色を帯びた銀の瞳をした美しい少女だ。  当然のことながら王族との婚約が打診されるが、ルーナは首を縦に振らない。  どうやら彼女には、別に想い人がいるようで・・・

いいえ、ただ私は婚約破棄されたいだけなんです!

鏡おもち
恋愛
伯爵令嬢ロニエ・エヴァンズには、ささやかな野望があった。それは、ハイスペックすぎて重すぎる愛を持つ婚約者、第一王子アレンから「婚約破棄」を突きつけられ、実家の離れで一生ダラダラと昼寝をして過ごすこと。 ロニエは学園入学を機に、あの手この手で「嫌われる努力」を開始する。

逆行した悪女は婚約破棄を待ち望む~他の令嬢に夢中だったはずの婚約者の距離感がおかしいのですか!?

魚谷
恋愛
目が覚めると公爵令嬢オリヴィエは学生時代に逆行していた。 彼女は婚約者である王太子カリストに近づく伯爵令嬢ミリエルを妬み、毒殺を図るも失敗。 国外追放の系に処された。 そこで老商人に拾われ、世界中を見て回り、いかにそれまで自分の世界が狭かったのかを痛感する。 新しい人生がこのまま謳歌しようと思いきや、偶然滞在していた某国の動乱に巻き込まれて命を落としてしまう。 しかし次の瞬間、まるで夢から目覚めるように、オリヴィエは5年前──ミリエルの毒殺を図った学生時代まで時を遡っていた。 夢ではないことを確信したオリヴィエはやり直しを決意する。 ミリエルはもちろん、王太子カリストとも距離を取り、静かに生きる。 そして学校を卒業したら大陸中を巡る! そう胸に誓ったのも束の間、次々と押し寄せる問題に回帰前に習得した知識で対応していたら、 鬼のように恐ろしかったはずの王妃に気に入られ、回帰前はオリヴィエを疎ましく思っていたはずのカリストが少しずつ距離をつめてきて……? 「君を愛している」 一体なにがどうなってるの!?

王太子殿下から婚約破棄されたのは冷たい私のせいですか?

ねーさん
恋愛
 公爵令嬢であるアリシアは王太子殿下と婚約してから十年、王太子妃教育に勤しんで来た。  なのに王太子殿下は男爵令嬢とイチャイチャ…諫めるアリシアを悪者扱い。「アリシア様は殿下に冷たい」なんて男爵令嬢に言われ、結果、婚約は破棄。    王太子妃になるため自由な時間もなく頑張って来たのに、私は駒じゃありません!

【完結済】破棄とか面倒じゃないですか、ですので婚約拒否でお願いします

恋愛
水不足に喘ぐ貧困侯爵家の次女エリルシアは、父親からの手紙で王都に向かう。 王子の婚約者選定に関して、白羽の矢が立ったのだが、どうやらその王子には恋人がいる…らしい? つまりエリルシアが悪役令嬢ポジなのか!? そんな役どころなんて御免被りたいが、王サマからの提案が魅力的過ぎて、王宮滞在を了承してしまう。 報酬に目が眩んだエリルシアだが、無事王宮を脱出出来るのか。 王子サマと恋人(もしかしてヒロイン?)の未来はどうなるのか。 2025年10月06日、初HOTランキング入りです! 本当にありがとうございます!!(2位だなんて……いやいや、ありえないと言うか…本気で夢でも見ているのではないでしょーか……) ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ※小説家になろう様にも掲載させていただいています。 ※作者創作の世界観です。史実等とは合致しない部分、異なる部分が多数あります。 ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係がありません。 ※実際に用いられる事のない表現や造語が出てきますが、御容赦ください。 ※リアル都合等により不定期、且つまったり進行となっております。 ※上記同理由で、予告等なしに更新停滞する事もあります。 ※まだまだ至らなかったり稚拙だったりしますが、生暖かくお許しいただければ幸いです。 ※御都合主義がそこかしに顔出しします。設定が掌ドリルにならないように気を付けていますが、もし大ボケしてたらお許しください。 ※誤字脱字等々、標準てんこ盛り搭載となっている作者です。気づけば適宜修正等していきます…御迷惑おかけしますが、お許しください。

罠にはめられた公爵令嬢~今度は私が報復する番です

結城芙由奈@コミカライズ連載中
ファンタジー
【私と私の家族の命を奪ったのは一体誰?】 私には婚約中の王子がいた。 ある夜のこと、内密で王子から城に呼び出されると、彼は見知らぬ女性と共に私を待ち受けていた。 そして突然告げられた一方的な婚約破棄。しかし二人の婚約は政略的なものであり、とてもでは無いが受け入れられるものではなかった。そこで婚約破棄の件は持ち帰らせてもらうことにしたその帰り道。突然馬車が襲われ、逃げる途中で私は滝に落下してしまう。 次に目覚めた場所は粗末な小屋の中で、私を助けたという青年が側にいた。そして彼の話で私は驚愕の事実を知ることになる。 目覚めた世界は10年後であり、家族は反逆罪で全員処刑されていた。更に驚くべきことに蘇った身体は全く別人の女性であった。 名前も素性も分からないこの身体で、自分と家族の命を奪った相手に必ず報復することに私は決めた――。 ※他サイトでも投稿中

婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの
恋愛
主人公ルシアン・ヴァイオレットは、「悪役令嬢」として振る舞う孤独愛好家の公爵令嬢。念願だった第一王子アランとの婚約破棄を言い渡されると、内心では歓喜し、大都会の喧騒から逃れて森の奥の廃墟同然の別荘へと引きこもる。ルシアンの目的は、誰にも邪魔されない至高の静寂ライフを満喫することだった。 しかし、彼女の理想郷にはすでに先客がいた。それは、無口で無愛想だがハイスペックな謎の男、キース。実は彼は、王国の裏社会を統べる『影の英雄』と呼ばれる辺境伯であり、ルシアンの孤高の姿に心奪われた重度の隠れファンだった。

処理中です...