婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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翌朝。

王城の執務室は、文字通り「戦場」と化していた。

「ない! ないないない! どこだ!?」

クレイス殿下の悲鳴が、部屋中に響き渡る。

「おい、あの青い表紙の書類はどこへやった!? 隣国との通商条約の草案だぞ!」

側近たちが顔面蒼白で駆け回る。

「で、殿下! 棚の二段目にはありません!」

「三段目も空です!」

「馬鹿者! 昨日までは確かにここにあったのだ! 誰かが捨てたに違いない!」

殿下は机の上の書類の山を、苛立ち紛れに払いのけた。

バサバサと紙吹雪のように重要書類が舞う。

その中の一枚を拾い上げ、殿下はさらに青ざめた。

「な、なんだこれは……白紙? 書きかけではないか!」

「そ、それは……ノエル嬢が『続きは明日やります』と言っていた案件でして……」

「明日? 今日のことか? ならなぜ彼女はいない! 早く呼べ! これを完成させろと命じろ!」

側近の一人が、恐る恐る口を開く。

「あ、あの……殿下。ノエル様は昨晩、婚約破棄を言い渡されて実家へ帰られましたが……」

「……は?」

殿下はキョトンとした顔をした。

まるで、昨日の出来事が夢だったかのような反応だ。

「あ、ああ、そうだった。俺が追い出したんだったな。……で?」

「で、とは?」

「いつ戻ってくるんだ? もう朝だぞ。遅刻とはいい度胸だ」

側近たちは顔を見合わせた。

この王子、本気で言っているのか。

「い、いえ、ですから……婚約破棄ですので、もう登城されることは……」

「ははは、何を言っている。あれはちょっとしたお仕置きだ。一晩泣き腫らして反省すれば、許してやるつもりだったのだ」

殿下はニヤリと笑い、椅子にふんぞり返った。

「どうせ今頃、屋敷で枕を濡らして『殿下、どうかお許しを』と震えているに決まっている。おい、使いを出せ。迎えに行ってやれ」

「は、はあ……」

「ただし! 戻ってきたら土下座だぞ。皆の前で謝罪させ、たっぷりと反省文を書かせてから、この山積みの書類を片付けさせるのだ!」

殿下は高笑いした。

その笑い声は、しかし、数時間後に届く「ある報告」によって、絶望の悲鳴へと変わることになるのだが――。

それはまだ、少し先の話。

          ***

一方その頃。

私は、天国にいた。

「……ふかふかだ」

私は頬をスリスリと擦り付けた。

柔らかい。あまりにも柔らかい。

これは雲か? それともマシュマロか?

いいえ、アースガルド公爵邸の客室にある、キングサイズのベッドです。

「……気に入ったか」

部屋の入り口から、低い声がした。

驚いて飛び起きると、腕を組んだルーク様(雇用主)が仁王立ちしていた。

「あ、申し訳ありません閣下! あまりの寝心地の良さに、つい現実逃避を」

私は慌ててベッドから降り、姿勢を正した。

昨晩、深夜に公爵領に到着した私は、そのままこの部屋に通されたのだ。

「監禁部屋」かと思いきや、王城の私の部屋より広いスイートルームだった時の衝撃といったら。

「謝るな。……そのベッドは、特注だ」

ルーク様が無表情で言う。

「特注、ですか?」

「ああ。北国の水鳥の、胸元の毛だけで作らせた。……一晩で疲れが取れるはずだ」

「ひえっ」

値段を聞くのが怖い。

「それに、遮光カーテンも完備だ。……朝まで誰にも邪魔されず眠れる」

「す、素晴らしい……」

私は感動に打ち震えた。

王城では、朝日と共に「ノエル様! 緊急案件です!」と叩き起こされるのが日課だったからだ。

「それで、今日の予定ですが」

私は仕事モードに切り替えた。

いくら好待遇とはいえ、タダ飯を食らうわけにはいかない。

「事務官としての業務内容は? 領地の帳簿整理ですか? それとも治水工事の視察? 何なりとお申し付けください」

腕まくりをする私を見て、ルーク様は眉をひそめた。

そして、信じられない一言を放った。

「……二度寝しろ」

「はい?」

「顔色が悪い。……目の下に隈がある」

ルーク様が近づいてきて、私の目の下を親指でグイと撫でた。

距離が近い。

氷の公爵の顔が目の前にある。

整いすぎた顔立ちに、心臓が変な跳ね方をした。

「し、しかし! 給金を頂く以上、働かなくては」

「これが仕事だ」

「は?」

「業務命令だ。……昼まで寝ていろ。その後、昼食を食え。……また寝ろ」

「それはただの怠惰な生活では!?」

「休むのも仕事だ。……お前は痩せすぎだ。見ていて痛々しい」

ルーク様はそう言うと、サイドテーブルに置かれた銀のベルを指差した。

「何かあればそれを鳴らせ。……執事が飛んでくる。甘いものが欲しければ、パティシエを叩き起こして作らせる」

「パティシエまで常駐なんですか!?」

「……俺が好きだからな」

ルーク様はそっぽを向いたが、耳がまた赤い。

この人、もしかしてただの甘党なのだろうか。

「とにかく、部屋からは出るな。……まだ、使用人たちが慣れていない」

「あ……」

私は昨晩の到着時を思い出した。

出迎えてくれた使用人たちが、私とルーク様が並んでいるのを見て、全員ガタガタと震え上がり、「魔王と魔女の凱旋だ……」「世の終わりだ……」と呟いていたのを。

「私の目つきが悪いせいで、申し訳ありません」

「違う。……俺が怖がられているだけだ」

ルーク様は自虐的に笑った。

その不器用な笑顔を見て、私は不思議と恐怖を感じなかった。

むしろ、少しだけ「可愛い」と思ってしまったのだ。疲れているのだろうか。

「では、お言葉に甘えて……あと五分だけ」

「五時間だ」

「五時間!?」

「おやすみ」

ルーク様は短く言うと、私の肩をポンと押し、ベッドに倒れ込ませた。

そして、布団を顎まで掛けてくれる。

まるで子供扱いだ。

「……良い夢を」

バタン、と扉が閉まる。

静寂が戻った部屋で、私は布団に包まりながら天井を見上げた。

(……変な人)

噂通りの冷酷な公爵なら、今頃私は地下牢で鎖に繋がれていたはずだ。

それなのに、ここは暖かくて、甘い香りがして、布団は極上で。

「……契約書、ちゃんと確認しなきゃ」

そう呟いたものの、私の意識は急速に遠のいていった。

三年ぶりの、安心して眠れる朝。

私は泥のように、あるいは死んだように、深く深く眠りに落ちていった。

一方、扉の外では。

廊下に立ったルークが、待機していた老執事に小声で命じていた。

「……セバス」

「はい、旦那様」

「王都の『銀の匙』の店主を、至急呼び寄せろ」

「は?」

「領地に支店を出させる。……ノエルが起きたら、焼きたてを食わせたい」

「……旦那様、それはさすがに権力の乱用では?」

「うるさい。金ならいくらでも積む」

氷の公爵は、真剣そのものの顔で言った。

「……彼女の寝顔を見たか? 天使だぞ」

「はあ……(般若のような疲れ顔に見えましたが)」

執事は主人の重症っぷりに、深い深いため息をついたのだった。
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