婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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実家の屋敷の前に立っていたのは、この国の影の支配者とも噂される男だった。

ルーク・ヴァン・アースガルド公爵。

現国王の弟であり、元婚約者であるクレイス殿下の叔父にあたる人物だ。

透き通るような銀髪に、冷たい氷河を思わせるブルーの瞳。

その美貌は「歩く芸術品」と称されるほどだが、同時に彼が発する絶対零度の威圧感は「歩く災害」とも恐れられている。

そんな彼が、なぜか我が家の門柱に寄りかかっていた。

腕を組み、不機嫌そうに眉間に深いシワを刻んでいる。

(……終わった)

私は馬車の窓からその姿を見た瞬間、悟りを開いた。

先ほどの婚約破棄騒動。

あれだけの啖呵を切って、王子に請求書を叩きつけたのだ。

王族への不敬罪で即刻処刑が決まったに違いない。

そして、その執行人がこの「氷の公爵」というわけだ。

仕事が早い。早すぎる。さすがは有能と名高い公爵閣下だ。

「……降りてこないつもりか?」

低く、重低音の声が響く。

御者のトムはすでに白目を剥いて気絶していた。使えない。

私は覚悟を決めて、馬車の扉を開けた。

「……ごきげんよう、アースガルド公爵閣下」

私は極力、表情筋を殺してカーテシーをした。

夜風が冷たいが、それ以上に目の前の男の視線が冷たい。

「このような夜更けに、我が家のような貧乏貴族の屋敷へ何用でしょうか。まさか、お茶を飲みに来たわけではありませんよね?」

「……」

公爵は無言で私を見下ろしている。

その鋭い眼光は、まるで獲物を品定めする肉食獣のようだ。

(殺る気だ。この人、完全に殺る気満々だわ)

私は冷や汗をかきそうになるのを必死で堪える。

ここで取り乱しては、ローゼン家の名折れ。

最期まで誇り高く、ふてぶてしく散ってやる。

「クレイス殿下の件でしたら、謝罪はいたしません。あれは正当な権利の主張ですので」

先手を打ってそう告げると、公爵の眉間のシワがさらに深くなった。

一歩、彼が近づいてくる。

私は反射的に身構えた。

「……聞いた」

「はい?」

「婚約破棄の件だ。……あの愚か者が、すまなかった」

「へ?」

予想外の言葉に、間の抜けた声が出た。

謝罪? あの氷の公爵が?

いや、待て。これは罠かもしれない。油断させておいて、背後からバッサリいく作戦か。

「い、いえ。謝罪など……私はむしろ感謝しているくらいで」

「無理をして笑うな」

公爵が遮るように言った。

「?」

「噂は聞いている。お前が三年間、あの馬鹿のためにどれだけ尽くしてきたか。……それをあのような形で踏みにじられ、悔しくないはずがない」

公爵の声に、わずかな熱が帯びているような気がした。

怒っている? 誰に? 私に?

ふと、大きなあくびが出そうになった。

緊張の糸が切れたのと、昨今の激務による睡眠不足が祟ったのだろう。

生理現象には勝てない。

(あ、まずい)

私は慌てて口元を扇で隠したが、あくびのせいでじわりと涙が滲んでしまった。

それを見た公爵が、目を見開く。

「……泣いているのか?」

「はい? いえ、これは」

ただのあくびです、と言おうとした。

しかし、公爵の大きな手が伸びてきて、私の頬に触れた。

その手は驚くほど熱く、そして震えていた。

「……すまない。俺がもっと早く、動いていれば」

「あの、閣下? ちょっと誤解が」

「何も言うな」

公爵は懐から何かを取り出すと、強引に私の口に押し当てた。

「んぐっ!?」

口の中に広がる、芳醇な甘みと香ばしさ。

これは……クッキー?

しかも、ただのクッキーではない。

王都で一番予約が取れないと言われている『銀の匙』の、最高級バタークッキーだ。

「……食え」

「もがっ、んぐ(飲み込んだ)。……おいしい」

思わず本音が漏れる。

公爵は、私がクッキーを食べる姿を真剣な眼差しで見つめていた。

まるで、餌付けされた野良猫を見るような目だ。

「……泣き止んだか」

「いえ、元から泣いてませんけど」

「強がるな。目が赤いぞ」

「それは風が目に染みただけで」

「……まだ足りないか」

公爵は私の言い訳を聞こうともせず、懐からさらに別の包みを取り出した。

今度はマカロンだ。しかも、季節限定のピスタチオ味。

私の目が、現金にも輝いてしまったらしい。

公爵の口元が、わずかに緩んだ気がした。

「……やる」

「え、これもいただけるんですか?」

「ああ。……だから、俺の屋敷に来い」

「はい、喜んで! ……って、はい?」

私はマカロンを受け取りかけた手で、ピタリと止まった。

今、サラッととんでもないことを言わなかったか?

「屋敷に来い、とは?」

「言葉通りの意味だ。……ローゼン家には戻るな」

「はあ!? いやいや、やっと実家に帰ってきたんですよ? これから泥のように眠る予定なんです!」

「なら、俺の屋敷で眠ればいい」

公爵は強引に私の手首を掴んだ。

その力は強いが、不思議と痛みはない。

「ローゼン侯爵には話を通してある。……お前の身柄は、アースガルド家が預かることになった」

「身柄拘束!? やはり処刑ですか!? マカロンは最後の晩餐ですか!?」

「違う!」

公爵が苛立ったように声を荒らげる。

その大声に、気絶していた御者のトムがビクッと跳ね起きた。

公爵はバツが悪そうに視線を逸らし、ボソリと言った。

「……再就職だ」

「はい?」

「お前の能力を買っている。……我が公爵家の事務官として、お前を雇いたい」

私は瞬きをした。

事務官。

それはつまり、仕事だ。

「……お断りします」

私は即答した。

「なぜだ。給金なら王家の倍は出す」

「お金の問題ではありません! 私は働きたくないんです! これからはスローライフを満喫すると決めたんです!」

「三倍だ」

「ぐっ……」

「週休三日。残業なし。……さらに、王都の有名菓子店の新作を、毎日俺が並んで買ってきてやる」

「……!」

悪魔の囁きだ。

この男、私の弱点を完全に把握している。

「……ちなみに、ボーナスは?」

「年四回だ」

「福利厚生は?」

「屋敷の温泉使い放題。専用の執事をつける」

私はゴクリと喉を鳴らした。

揺れる。心が猛烈に揺れる。

しかし、ここで頷いてはまた社畜生活に逆戻りだ。

「……少し、考えさせていただけますか」

「ダメだ。今すぐ決めろ」

公爵は有無を言わせぬ迫力で私に迫る。

その顔は怖いが、耳がほんのりと赤いことに、私は気づいていなかった。

「……王子が、追ってくるぞ」

その一言が、決定打だった。

「はい?」

「あの馬鹿が、お前を連れ戻すために近衛騎士団を動かそうとしている」

「なっ……!?」

「ここにお前がいれば、数時間後には強制連行だ。……だが、俺の領地なら手出しはできない」

公爵はニヤリと笑った。その笑みは、確かに悪役のそれだったが、今の私には救世主に見えた。

「……守ってやると言っている」

その言葉は、不器用すぎて、脅迫にしか聞こえなかったけれど。

私はため息をつき、マカロンの箱をしっかりと抱きしめた。

「……その条件、契約書にしていただけますね?」

「ああ、すぐに用意させる」

「ならば……御意」

こうして私は、実家に帰ってわずか十分で、再び馬車に乗せられることになった。

行き先は、氷の公爵が支配する北の領地。

これが、私の新たな(そして甘くて怖い)労働日々の始まりだった。
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