辺境伯夫人は領地を紡ぐ

やまだごんた

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35.過去

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「ヴァルデン辺境伯さま」
 領地を視察するレオニダスの耳に、聞き覚えのある声が響いた。
 馬上から見渡すと、後方に見覚えのあるみすぼらしいが、男好きする見栄えの女がいた。
「カティア――」
 レオニダスは女の名を呼んだ。
 女は3歳くらいの子供を連れていた。
「その子は――?」
 レオニダスの声は緊張が込められていた。

「あの頃、ヴァルデン辺境伯さまに助けていただかなければ、今頃この子をこうやって抱くこともできなかったと思うと――」
 馬から降りて、木に縛り付けたレオニダスに、カティアはそう言って子供を愛しそうに抱きしめると、目に涙を溜めた。
 子供は赤毛の可愛らしい男の子だった。カティアに抱きしめられると、嬉しそうに抱き返すようにカティアにしがみついている。
「この子の父親はわかりません――あんな仕事をしていたんですもの」
 カティアはそう言うと、レオニダスを見つめた。
「でも、あれからはヴァルデン辺境伯さま――あなたにしか抱かれてないんですよ」

 カティアは娼婦だった。
 親のいない子供だったカティアは、18の時に針子の仕事を解雇され、従軍娼婦として働く道を選んだ。
 町中で娼婦をするより安全だったからだ。
 だが、戦争でいきり立った男達をあしらうだけの技量は、年若いカティアにはなかった。
 カティアは下級兵士達の格好の捌け口となっていた。
 幸い、娼婦への暴力は禁止されていたので、殴られたりすることはなかったが、カティアの尊厳はとことん踏み躙られていた。
 娼婦用の天幕の外で声を殺して泣いていたときに、声をかけられたのがレオニダスだった。
「兵士には俺がきつく言い聞かせておく。お前は安心して仕事をしなさい」
「で――でも、私が閣下に告げ口したってバレたら私――」
 カティアは本気で怯えているようだった。
「なら俺がお前を買おう。明日から俺の天幕に来い」
 レオニダスはそう言うと、さっさとその場を去った。
 翌日、管理人からレオニダスの天幕に行くように言われると、カティアは自分が夢を見ているのではないかと思った。

「なら、その子は――」
 その後すぐに冬が来たため、レオニダスがカティアを買ったのはひと月にも満たない期間だ。
 だが、子を成すには十分な時間であることも、レオニダスはわかっていた。
「私……本当は二度と辺境伯さまの前に姿を現さないつもりでした。でも、辺境伯さまのお姿を見かけたら――」
 カティアはそう言うと、どこか期待を込めた眼差しでレオニダスを見上げた。
 レオニダスは目の前の女の存在に、初めて自分の過去を恥じた。

 
 屋敷にはどうやって帰ったのかはわからない。愛馬が連れて帰ってくれたのだろう。
 カティアにはまた遣いを寄越すことを伝えると、視察を切り上げて屋敷へと急いだ。
 オスカーとマルグリットがいる執務室に入ると、レオニダスは膝から崩れ落ちるように跪いた。
「マリー……すまない」
 それだけ発するのがやっとだった。
 マルグリットにすべて話さなければならないのはわかっていた。
 だが、それでマルグリットに婚姻の解消を言い渡されたら――いや、出て行かずとも、二度と触れるなと言われるかもしれない。
 戦士が女を抱くことは恥ずべきではない。
 滾った体を沈めるには女の体が一番なのだと、男は教えられてきたのだから。
 だからレオニダスもそうした。
 それだけだった。
 だが――
 マルグリットを抱くことは、戦場のそれとは全く違うものだった。
 触れるたびに熱が込み上げ、もっと触れたくなる。いくら求めても満たされないのに、触れ合うだけで満たされる不思議な感覚は、レオニダスの幸せだった。
 いや、触れ合えずとも、マルグリットの緑色の瞳が自分に向けられて、彼女が微笑みかけてくれるだけで十分だった。
 どう切り出せばいいのか、どう言えば彼女を傷つけずに話せるのか。
 考えあぐねているレオニダスに、マルグリットは告げた。
「話は伺っておりますわ。その女性と一度話がしたいと思っております」
 マルグリットの瞳は、いつもの暖かさを失っていた。
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