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幸いな事に、誕生会の日までカインの魔力は安定していた。
侯爵や使用人の細やかな気遣いで、カインは魔力が溢れそうになった事さえ思い出す事はなく、いつも通り庭園を走り回ったり、綺麗な石を探したり、珍しい花を眺めて過ごしていた。
時折、王に謁見する際の行儀作法や、誕生会の段取りや振舞いの確認があったが、カインは元気な子供であるうえ、優秀な生徒でもあった。そのため、大人達は苦労する事なくそれらを進める事ができた。
誕生会の当日までカインは母親であるエスクード侯爵夫人に会う事はなかった。毎朝行われていた朝の挨拶も行われず、夜も侯爵だけが――屋敷にいる時だけではあるが――カインにおやすみのキスをしに来ていた。
夫人からおやすみのキスを受けたのはいつだっただろう。
カインは思い出せないほど幼い頃に思いを馳せたが、カインの記憶に母との温かい触れ合いはなく、冷たく突き放すような夫人のみがそこにいた。
――秋になれば本格的に跡取りとしての教育が始まるんだ。いつまでも子供のままではいけない。
カインは子供用の礼服を纏い、家族用のサロンのカウチに腰掛け、両親を待った。
普段着ることのない礼服は、上等な白い生地の上着に、金の糸で薔薇や蔦の刺繍が施されていた。胸元と袖に飾られた銀のボタンはエスクード家の家紋が刻印されている。
時々侯爵が着ているのを見たそれとほぼ同じ様式で、王宮での祭事や儀式の時のみ着る服だ。
王の采配で王宮で行われるカインの誕生会は、国中の貴族の憧れだった。
本来であれば、王宮では王族の冠婚葬祭のみが許されるからだ。
つまり、カインの誕生会は特例中の特例だった。
エスクード侯爵は建国の英雄から続く王室の守護者であり、王はその後継者の誕生を長い間待ちわびていたからだ。
そして、王自らがその後継者の誕生を祝う行為は、寵愛の現れであると共に、エスクード侯爵家は王家の最たる忠臣であるとの牽制でもあった。
そんな政治的な理由は幼いカインにはどうでもよかった。
ただ、今回の誕生会は特別なのだ。
王様が僕の為だけに開いてくれる会――その誉れは幼いカインにも理解できた。そして、その場ならもしかしたら夫人も僕を誇らしく思ってくれるかもしれない。そして優しく微笑んでキスをしてくれるかもしれない。
カインの小さな胸は、ささやかな幸せを夢見て高鳴っていた。
「カイン!見違えたぞ。何と立派な」
程なくして一人でサロンに現れた侯爵は、自分と同じ格好の小さな公子を抱き上げると誇らしげに微笑み、抱き上げたまま屋敷を出た。
玄関を出た車止めには、獣車に繋がれた固い皮膚と鋭い鉤爪をもつ草竜が、その細長い体と長いしっぽを持て余すように揺らして立っていた。
獣車は、カインと侯爵の2人を乗せると、王宮への道を半刻ほど休む事もなく駆け足で走っていた。
首と尾を揺らし、長い後肢で地面を蹴って疾走するその速さは、人間の全速疾走よりも何倍も速かった。
「御者のルーも魔力が強いが、カインがいるおかげで草竜が殊更従順だな」
調子のいい走りに侯爵は満足げにひとりごちた。
「草竜と魔力の強さは関係があるのですか?」
本当はなぜ夫人がいないのか聞きたかったが、聞いてはいけない気がしたので草竜の事を尋ねた。
「家畜化されてるとはいえ、草竜は魔獣だからな。草竜は本来群れで生活するんだ。そして群れでは魔力が強い者が頭とみなされる。だから草竜を扱うのは魔力が草竜よりも強い者でなければいけない」
「なるほど。僕はルーよりも魔力が強いから草竜もいいところを見せようと頑張ってくれてるんですね」
侯爵は妻によく似たカインの青い瞳を見つめながらゆっくり頷くと説明を続けた。
「草竜の魔力は普通の人間と同じくらいだから、草竜を従えられる程の魔力持ちとなると数が限られてくる。その分給料も高い。草竜の獣車かどうかでその家が金持ちかわかるし、金持ちでなければその家の家人が強い魔力を持っているかがわかる程だ。侯爵家には草竜が3頭と獣車が4台ある。もちろん、御者も3人だ。それだけではない。お前がいた領地も、首都の屋敷…全て他の貴族よりも豊かで大きい。それらは全てカイン、お前が引継ぐんだぞ」
侯爵の説明をひと通り聞いたものの、最後はよくわからなかったカインは、獣車の窓からひょいと顔を出して草竜を見た。
長い首と尾を機嫌よく揺らしながら、短い鉤爪を持つ前足を持ち、カインなら3人は乗れそうな巨大な体躯と軽やかに回転する2本の脚。まるで肉食獣の見た目だが草食なのだと言う。
気配を感じたのか、ちらりと振り向いた草竜と目が合うと、草竜は鼻息を強く吐いて石畳で舗装された道を更に加速した。
「わ!わ!」
窓から落ちそうになって慌てて車内に頭を引っ込めたカインは侯爵の膝にしがみついて大笑いした。侯爵もつられて声を上げて笑った後、優しく微笑んでカインの頬を撫でた。
「アルティシアは先に王宮に入っているんだ。……王妃様がアルティシアと過ごしたいと言われてな。お前に伝えるのを忘れていて申し訳ない」
「父上が謝られることではありません。王宮に行けば会えるのですから」
侯爵の温かい手に頬を擦り付け、カインは萎みかけた期待をもう一度膨らませた。
程なくして獣車は王宮に入り、キャビンから飛び降りたカインは草竜に駆け寄り「お疲れ様!君のおかげでとても速く王宮に着く事ができたよ。――僕ね、王宮は初めてで早く見たいと思ってたんだ!」と草竜の長い首に頬擦りした。
その時だった。
「カイン。本日の主役のあなたがなんと穢らわしい」
夫人の声が低くカインの耳に響いた。
侯爵や使用人の細やかな気遣いで、カインは魔力が溢れそうになった事さえ思い出す事はなく、いつも通り庭園を走り回ったり、綺麗な石を探したり、珍しい花を眺めて過ごしていた。
時折、王に謁見する際の行儀作法や、誕生会の段取りや振舞いの確認があったが、カインは元気な子供であるうえ、優秀な生徒でもあった。そのため、大人達は苦労する事なくそれらを進める事ができた。
誕生会の当日までカインは母親であるエスクード侯爵夫人に会う事はなかった。毎朝行われていた朝の挨拶も行われず、夜も侯爵だけが――屋敷にいる時だけではあるが――カインにおやすみのキスをしに来ていた。
夫人からおやすみのキスを受けたのはいつだっただろう。
カインは思い出せないほど幼い頃に思いを馳せたが、カインの記憶に母との温かい触れ合いはなく、冷たく突き放すような夫人のみがそこにいた。
――秋になれば本格的に跡取りとしての教育が始まるんだ。いつまでも子供のままではいけない。
カインは子供用の礼服を纏い、家族用のサロンのカウチに腰掛け、両親を待った。
普段着ることのない礼服は、上等な白い生地の上着に、金の糸で薔薇や蔦の刺繍が施されていた。胸元と袖に飾られた銀のボタンはエスクード家の家紋が刻印されている。
時々侯爵が着ているのを見たそれとほぼ同じ様式で、王宮での祭事や儀式の時のみ着る服だ。
王の采配で王宮で行われるカインの誕生会は、国中の貴族の憧れだった。
本来であれば、王宮では王族の冠婚葬祭のみが許されるからだ。
つまり、カインの誕生会は特例中の特例だった。
エスクード侯爵は建国の英雄から続く王室の守護者であり、王はその後継者の誕生を長い間待ちわびていたからだ。
そして、王自らがその後継者の誕生を祝う行為は、寵愛の現れであると共に、エスクード侯爵家は王家の最たる忠臣であるとの牽制でもあった。
そんな政治的な理由は幼いカインにはどうでもよかった。
ただ、今回の誕生会は特別なのだ。
王様が僕の為だけに開いてくれる会――その誉れは幼いカインにも理解できた。そして、その場ならもしかしたら夫人も僕を誇らしく思ってくれるかもしれない。そして優しく微笑んでキスをしてくれるかもしれない。
カインの小さな胸は、ささやかな幸せを夢見て高鳴っていた。
「カイン!見違えたぞ。何と立派な」
程なくして一人でサロンに現れた侯爵は、自分と同じ格好の小さな公子を抱き上げると誇らしげに微笑み、抱き上げたまま屋敷を出た。
玄関を出た車止めには、獣車に繋がれた固い皮膚と鋭い鉤爪をもつ草竜が、その細長い体と長いしっぽを持て余すように揺らして立っていた。
獣車は、カインと侯爵の2人を乗せると、王宮への道を半刻ほど休む事もなく駆け足で走っていた。
首と尾を揺らし、長い後肢で地面を蹴って疾走するその速さは、人間の全速疾走よりも何倍も速かった。
「御者のルーも魔力が強いが、カインがいるおかげで草竜が殊更従順だな」
調子のいい走りに侯爵は満足げにひとりごちた。
「草竜と魔力の強さは関係があるのですか?」
本当はなぜ夫人がいないのか聞きたかったが、聞いてはいけない気がしたので草竜の事を尋ねた。
「家畜化されてるとはいえ、草竜は魔獣だからな。草竜は本来群れで生活するんだ。そして群れでは魔力が強い者が頭とみなされる。だから草竜を扱うのは魔力が草竜よりも強い者でなければいけない」
「なるほど。僕はルーよりも魔力が強いから草竜もいいところを見せようと頑張ってくれてるんですね」
侯爵は妻によく似たカインの青い瞳を見つめながらゆっくり頷くと説明を続けた。
「草竜の魔力は普通の人間と同じくらいだから、草竜を従えられる程の魔力持ちとなると数が限られてくる。その分給料も高い。草竜の獣車かどうかでその家が金持ちかわかるし、金持ちでなければその家の家人が強い魔力を持っているかがわかる程だ。侯爵家には草竜が3頭と獣車が4台ある。もちろん、御者も3人だ。それだけではない。お前がいた領地も、首都の屋敷…全て他の貴族よりも豊かで大きい。それらは全てカイン、お前が引継ぐんだぞ」
侯爵の説明をひと通り聞いたものの、最後はよくわからなかったカインは、獣車の窓からひょいと顔を出して草竜を見た。
長い首と尾を機嫌よく揺らしながら、短い鉤爪を持つ前足を持ち、カインなら3人は乗れそうな巨大な体躯と軽やかに回転する2本の脚。まるで肉食獣の見た目だが草食なのだと言う。
気配を感じたのか、ちらりと振り向いた草竜と目が合うと、草竜は鼻息を強く吐いて石畳で舗装された道を更に加速した。
「わ!わ!」
窓から落ちそうになって慌てて車内に頭を引っ込めたカインは侯爵の膝にしがみついて大笑いした。侯爵もつられて声を上げて笑った後、優しく微笑んでカインの頬を撫でた。
「アルティシアは先に王宮に入っているんだ。……王妃様がアルティシアと過ごしたいと言われてな。お前に伝えるのを忘れていて申し訳ない」
「父上が謝られることではありません。王宮に行けば会えるのですから」
侯爵の温かい手に頬を擦り付け、カインは萎みかけた期待をもう一度膨らませた。
程なくして獣車は王宮に入り、キャビンから飛び降りたカインは草竜に駆け寄り「お疲れ様!君のおかげでとても速く王宮に着く事ができたよ。――僕ね、王宮は初めてで早く見たいと思ってたんだ!」と草竜の長い首に頬擦りした。
その時だった。
「カイン。本日の主役のあなたがなんと穢らわしい」
夫人の声が低くカインの耳に響いた。
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