7 / 23
7.
しおりを挟む
なぜ母上に甘えるのが僕じゃないんだ。
なぜ母上は僕をあんな目で見るんだ。
僕の知らない間に母上は僕ではなくロメオと一緒にいた。
僕が欲しかった優しい眼差し、暖かい抱擁、一緒に過ごす時間。母上の優しい声で紡がれる物語はどんなに美しく素晴らしいんだろう。ずっと夢見ていた。
母上が僕に笑いかけ、優しく名を呼んでくれる事を。あの柔らかい御手で僕の頭を、頬を撫で、おやすみなさいとキスをしてくれることを。
なぜ――
「あなた!いけません!」
何も感じなかったカインの五感に、夫人の声が割って入ってきた。
悲痛な叫び声のようなその声はカインの耳を震わせる。
次にカインの五感は柔らかい暖かさを感じた。そして息もできないほどの力強さで抱きしめられている事を理解するまで時間はかからなかった。
「どくんだ!アルティシア!」
「なりません。なりません!」
カインの耳に入ってくるのは、父と母の声だった。自分にはいつも冷たい母だが、父にはその表情を和らげる所を何度も見ている。
愛し合い、理解しあっている事は幼いカインにも理解できた。争うところなど見たことがない。そんな二人が声を荒げている。
ああ――僕が魔力を暴走させてしまったからだ。
僕がこんなだからお二人が仲を違えてしまったんだ。僕が魔力を上手に制御できないから。僕が生まれてきたから。
カインの心は増々黒い熱に焼かれて、体を覆う魔力は一層強くなり、カインの体を包み込んでいる力は少しずつ絶えて、解けようとしていた。
「いいえ。公子。公子が悪いわけではありません」
はっきりとカインの耳に幼い女の子の声が響いた。舌足らずで、とても優しい声だ。
「ごめんなさい。私が来るのが遅れたせいで――」
女の子の声が近くなってくる。自分を覆っていた魔力が軽くなっていく。
「――シトロン公女」
侯爵の声がはっきりと聞こえた。もう怒鳴っていない。夫人の声は聞こえない。もう僕のそばからいなくなったんだろうか。温かさはまだ自分を包んでいる。
そう言えばロメオが倒れていた。ロメオを助けに行ったのか。母様は僕よりもロメオが――
胸にまた黒い熱が噴き上げようとした。
「公子、落ち着いてください。夫人が苦しんでいらっしゃる。私が楽にしてあげるから目を開けて。私を見て」
暖かい手がカインの手を取ると、胸にあった黒い熱が急速に消えていくのを感じた。
自分を包む魔力が無くなり、空気が軽くなったのを感じた。
まだ朦朧とした意識に少しずつ五感を取り戻したカインは漸く自分が両手で顔を覆っていた事に気が付いた。と同時に、自分を抱きしめていた力が解けたことも感じられた。
「アルティシア!」
侯爵の悲鳴に近い叫びが、カインの意識をはっきりと覚醒させた。勢いよく侯爵を仰ぎ見たカインは、その目に崩れ落ちる夫人と、それを抱き止める侯爵の姿――そして侯爵の手に握られたナイフが侯爵の手を離れて地面に落ちるのを写し、そのまま意識を失った。
シトロン公女と呼ばれた少女は、エスクード侯爵邸の寝室で、ベッドに横たわるエスクード侯爵夫人の顔を見つめていた。
自分とは正反対の美しい金色の髪。閉じられた瞼の奥には空の青さほども美しい青い瞳。美の女神の彫刻のように整った顔に透き通った白い肌。
若いころは絶世の美女であったと噂をよく聞いていたその人は、花の盛りを過ぎた今も尚美しさを保っていた。
――不公平だな。
ジルダ・シトロンは自分の顔を鏡で見た。
赤毛で顔色は青白く、低く丸い鼻。腫れぼったい目は辛気臭い雰囲気を演出するのに最適な小道具だ。
美形が多い貴族の中で、ジルダの容姿が恵まれないのには理由があった。
曾祖母の時代に、北方にある砂漠地域の豪族と交易を結ぶ為に長の息子を婿に迎えた。
砂漠地域の豪族は交易と魔獣狩りを生業とするにふさわしく、逞しい体をもち、目は細く小さく、凹凸の少ない顔をしていた。
しかし、おじい様は私のように不細工なお顔ではなかったわ……男らしく、意志の強そうなお顔をされていたもの。きっと生まれてくる性別を間違えたのね、私は。
ジルダは幼いながらも、自分の顔には諦めを覚えていた。同じ祖父の血を引く父はジルダにそっくりだが、鼻筋は祖母に似たため、全体的に均整の取れた顔で異国情緒溢れる美男子……とまではいかないまでも、2度の結婚を経て2男3女を儲けた今でも、愛妾の座を狙って迫る女性がいると言えばお察しだろう。
もちろん、同じ血筋の兄弟たちも奇跡のような調和の恩恵を受け、祖父にそっくりなのは自分だけだった。生まれた時からそんな環境で育っていると、諦めもつくというものだろう。
しかし、ジルダにも奇跡は起きていた。
生まれ持った魔力吸収の能力だけでなく、並外れた魔力操作を身につけていたのだ。
それは幼いジルダにとって、小さな誇りだった。
だが、エスクード侯爵夫人を間近で見たジルダは、そんな小さな誇りなど意味もないほど圧倒的に美しく、優雅な女性を目にして、僅か6歳にして世の中の不公平を悟る事となった。
なぜ母上は僕をあんな目で見るんだ。
僕の知らない間に母上は僕ではなくロメオと一緒にいた。
僕が欲しかった優しい眼差し、暖かい抱擁、一緒に過ごす時間。母上の優しい声で紡がれる物語はどんなに美しく素晴らしいんだろう。ずっと夢見ていた。
母上が僕に笑いかけ、優しく名を呼んでくれる事を。あの柔らかい御手で僕の頭を、頬を撫で、おやすみなさいとキスをしてくれることを。
なぜ――
「あなた!いけません!」
何も感じなかったカインの五感に、夫人の声が割って入ってきた。
悲痛な叫び声のようなその声はカインの耳を震わせる。
次にカインの五感は柔らかい暖かさを感じた。そして息もできないほどの力強さで抱きしめられている事を理解するまで時間はかからなかった。
「どくんだ!アルティシア!」
「なりません。なりません!」
カインの耳に入ってくるのは、父と母の声だった。自分にはいつも冷たい母だが、父にはその表情を和らげる所を何度も見ている。
愛し合い、理解しあっている事は幼いカインにも理解できた。争うところなど見たことがない。そんな二人が声を荒げている。
ああ――僕が魔力を暴走させてしまったからだ。
僕がこんなだからお二人が仲を違えてしまったんだ。僕が魔力を上手に制御できないから。僕が生まれてきたから。
カインの心は増々黒い熱に焼かれて、体を覆う魔力は一層強くなり、カインの体を包み込んでいる力は少しずつ絶えて、解けようとしていた。
「いいえ。公子。公子が悪いわけではありません」
はっきりとカインの耳に幼い女の子の声が響いた。舌足らずで、とても優しい声だ。
「ごめんなさい。私が来るのが遅れたせいで――」
女の子の声が近くなってくる。自分を覆っていた魔力が軽くなっていく。
「――シトロン公女」
侯爵の声がはっきりと聞こえた。もう怒鳴っていない。夫人の声は聞こえない。もう僕のそばからいなくなったんだろうか。温かさはまだ自分を包んでいる。
そう言えばロメオが倒れていた。ロメオを助けに行ったのか。母様は僕よりもロメオが――
胸にまた黒い熱が噴き上げようとした。
「公子、落ち着いてください。夫人が苦しんでいらっしゃる。私が楽にしてあげるから目を開けて。私を見て」
暖かい手がカインの手を取ると、胸にあった黒い熱が急速に消えていくのを感じた。
自分を包む魔力が無くなり、空気が軽くなったのを感じた。
まだ朦朧とした意識に少しずつ五感を取り戻したカインは漸く自分が両手で顔を覆っていた事に気が付いた。と同時に、自分を抱きしめていた力が解けたことも感じられた。
「アルティシア!」
侯爵の悲鳴に近い叫びが、カインの意識をはっきりと覚醒させた。勢いよく侯爵を仰ぎ見たカインは、その目に崩れ落ちる夫人と、それを抱き止める侯爵の姿――そして侯爵の手に握られたナイフが侯爵の手を離れて地面に落ちるのを写し、そのまま意識を失った。
シトロン公女と呼ばれた少女は、エスクード侯爵邸の寝室で、ベッドに横たわるエスクード侯爵夫人の顔を見つめていた。
自分とは正反対の美しい金色の髪。閉じられた瞼の奥には空の青さほども美しい青い瞳。美の女神の彫刻のように整った顔に透き通った白い肌。
若いころは絶世の美女であったと噂をよく聞いていたその人は、花の盛りを過ぎた今も尚美しさを保っていた。
――不公平だな。
ジルダ・シトロンは自分の顔を鏡で見た。
赤毛で顔色は青白く、低く丸い鼻。腫れぼったい目は辛気臭い雰囲気を演出するのに最適な小道具だ。
美形が多い貴族の中で、ジルダの容姿が恵まれないのには理由があった。
曾祖母の時代に、北方にある砂漠地域の豪族と交易を結ぶ為に長の息子を婿に迎えた。
砂漠地域の豪族は交易と魔獣狩りを生業とするにふさわしく、逞しい体をもち、目は細く小さく、凹凸の少ない顔をしていた。
しかし、おじい様は私のように不細工なお顔ではなかったわ……男らしく、意志の強そうなお顔をされていたもの。きっと生まれてくる性別を間違えたのね、私は。
ジルダは幼いながらも、自分の顔には諦めを覚えていた。同じ祖父の血を引く父はジルダにそっくりだが、鼻筋は祖母に似たため、全体的に均整の取れた顔で異国情緒溢れる美男子……とまではいかないまでも、2度の結婚を経て2男3女を儲けた今でも、愛妾の座を狙って迫る女性がいると言えばお察しだろう。
もちろん、同じ血筋の兄弟たちも奇跡のような調和の恩恵を受け、祖父にそっくりなのは自分だけだった。生まれた時からそんな環境で育っていると、諦めもつくというものだろう。
しかし、ジルダにも奇跡は起きていた。
生まれ持った魔力吸収の能力だけでなく、並外れた魔力操作を身につけていたのだ。
それは幼いジルダにとって、小さな誇りだった。
だが、エスクード侯爵夫人を間近で見たジルダは、そんな小さな誇りなど意味もないほど圧倒的に美しく、優雅な女性を目にして、僅か6歳にして世の中の不公平を悟る事となった。
22
あなたにおすすめの小説
王女を好きだと思ったら
夏笆(なつは)
恋愛
「王子より王子らしい」と言われる公爵家嫡男、エヴァリスト・デュルフェを婚約者にもつバルゲリー伯爵家長女のピエレット。
デビュタントの折に突撃するようにダンスを申し込まれ、望まれて婚約をしたピエレットだが、ある日ふと気づく。
「エヴァリスト様って、ルシール王女殿下のお話ししかなさらないのでは?」
エヴァリストとルシールはいとこ同士であり、幼い頃より親交があることはピエレットも知っている。
だがしかし度を越している、と、大事にしているぬいぐるみのぴぃちゃんに語りかけるピエレット。
「でもね、ぴぃちゃん。私、エヴァリスト様に恋をしてしまったの。だから、頑張るわね」
ピエレットは、そう言って、胸の前で小さく拳を握り、決意を込めた。
ルシール王女殿下の好きな場所、好きな物、好みの装い。
と多くの場所へピエレットを連れて行き、食べさせ、贈ってくれるエヴァリスト。
「あのね、ぴぃちゃん!エヴァリスト様がね・・・・・!」
そして、ピエレットは今日も、エヴァリストが贈ってくれた特注のぬいぐるみ、孔雀のぴぃちゃんを相手にエヴァリストへの想いを語る。
小説家になろうにも、掲載しています。
とある伯爵の憂鬱
如月圭
恋愛
マリアはスチュワート伯爵家の一人娘で、今年、十八才の王立高等学校三年生である。マリアの婚約者は、近衛騎士団の副団長のジル=コーナー伯爵で金髪碧眼の美丈夫で二十五才の大人だった。そんなジルは、国王の第二王女のアイリーン王女殿下に気に入られて、王女の護衛騎士の任務をしてた。そのせいで、婚約者のマリアにそのしわ寄せが来て……。
【完結】婚約者が好きなのです
maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。
でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。
冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。
彼の幼馴染だ。
そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。
私はどうすればいいのだろうか。
全34話(番外編含む)
※他サイトにも投稿しております
※1話〜4話までは文字数多めです
注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)
記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる
きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。
穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。
——あの日までは。
突如として王都を揺るがした
「王太子サフィル、重傷」の報せ。
駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。
私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―
喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。
そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。
二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。
最初は手紙も返ってきていたのに、
いつからか音信不通に。
あんなにうっとうしいほど構ってきた男が――
なぜ突然、私を無視するの?
不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、
突然ルイスが帰還した。
ボロボロの身体。
そして隣には――見知らぬ女。
勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、
私の中で何かが壊れた。
混乱、絶望、そして……再起。
すがりつく女は、みっともないだけ。
私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。
「私を簡単に捨てられるとでも?
――君が望んでも、離さない」
呪いを自ら解き放ち、
彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。
すれ違い、誤解、呪い、執着、
そして狂おしいほどの愛――
二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。
過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた
榛乃
恋愛
伯爵家の令嬢・リシェルは、侯爵家のアルベルトに密かに想いを寄せていた。
けれど彼が選んだのはリシェルではなく、双子の姉・オリヴィアだった。
二人は夫婦となり、誰もが羨むような幸福な日々を過ごしていたが――それは五年ももたず、儚く終わりを迎えてしまう。
オリヴィアが心臓の病でこの世を去ったのだ。
その日を堺にアルベルトの心は壊れ、最愛の妻の幻を追い続けるようになる。
そんな彼を守るために。
そして侯爵家の未来と、両親の願いのために。
リシェルは自分を捨て、“姉のふり”をして生きる道を選ぶ。
けれど、どれほど傍にいても、どれほど尽くしても、彼の瞳に映るのはいつだって“オリヴィア”だった。
その現実が、彼女の心を静かに蝕んでゆく。
遂に限界を越えたリシェルは、自ら命を絶つことに決める。
短剣を手に、過去を振り返るリシェル。
そしていよいよ切っ先を突き刺そうとした、その瞬間――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる