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第三部:信長包囲網と天運の行方
第17話 半兵衛の死と遺言
しおりを挟む 天正六年(1578年)、織田家の快進撃は続いていた。
中国地方の雄・毛利家を討つべく、羽柴秀吉を総大将とした大軍が播磨国へと進駐する。
だが、その輝かしい戦歴の裏で、一つの巨大な影が、静かに落ちようとしていた。
織田家の軍師、竹中半兵衛重治が、病に倒れたのだ。
長年にわたる過酷な軍旅が、彼の体を蝕んでいた。
かつて神の如き知略を巡らせたその頭脳は未だ明晰であったが、彼の命の灯火は、風前の灯のように弱々しく揺らめいていた。
播磨の陣中に設けられた静かな一室。
秀吉は、枕元に座し、友であり、織田家にとって至宝の軍師である男の痩せこけた手を握りしめていた。
「半兵衛……しっかりしろ。 貴様がおらんで、このわしが毛利の大軍を相手にできると思うてか」
秀吉の言葉に、半兵衛は穏やかに微笑んだ。
その顔色は紙のように白く、声はかすれていた。
「……藤吉郎殿。あなたならば、ご心配には及びませぬ。あなたには、人蕩しの天賦の才がある」
「才なものか。 貴様の知恵を借りてきただけのことよ」
二人の間に、しばし沈黙が流れる。
やがて、半兵衛は何かを思い出したように、静かに口を開いた。
それは、秀吉にとって、あまりにも意外な言葉だった。
「藤吉郎殿……一つ、わしの最後の願いとして、聞き入れていただきたいことがある」
「何だ、改まって。言ってみろ」
「……呉学人殿のことです」
その名を聞き、秀吉は少し面食らった。
「誤先生か? ああ、相変わらず利家の所で、妙な幸運を振りまいておるわ。 あやつは戦よりも、内政の方が儲かるようだがな」
秀吉は、どこか面白おかしな存在として語った。 だが、半兵衛の眼差しは、真剣そのものだった。
「藤吉郎殿……呉学人殿には、決して逆らうな」
その、遺言ともとれる強い口調に秀吉は思わず息を飲んだ。
「……どういうことだ、半兵衛」
半兵衛は、弱々しい息をつなぎながら、最後の力を振り絞るように語り始めた。
「わしは、ずっとあの方を理解しようと努めてきた。兵法で、算術で、人の心の機微で……わしが持ちうる全ての物差しで、あの方を測ろうとしてきた。だが、全て無駄だった」
その瞳は、遠い過去を見つめているようだった。
稲生、金ヶ崎、長篠……数々の戦場が、彼の脳裏に去来しているのだろう。
「あの人は、我ら人の子とは違う理で、この世を見ているのかもしれぬ」
半兵衛の声には、畏怖の念がこもっていた。
「我らが風を読み、流れを読むのであれば、あの方は風を吹かせ、流れそのものを作り出す。
我らが人の知恵で戦うのであれば、あの方は天運そのものを味方につけて戦うのだ」
「……天運……」
「そうだ。信長様が天下を取るには、あの方の天運が必ず、必ず必要になる……」
半兵衛は、秀吉の手を、弱々しい力で握り返した。
「ゆえに、頼む。 藤吉郎殿。
あの方の献策が、いかに奇妙で、いかに常軌を逸しているように見えても、決してそれを侮り、退けてはならぬ。
あの方の言葉こそが、天の声。そう心得よ……」
それが、天才軍師・竹中半兵衛が、この世で発した最後の言葉だった。
彼は、まるで肩の荷が下りたかのように、安らかな表情を浮かべると、そのまま静かに息を引き取った。
彼は最後まで、呉学人を「天運に愛された究極の軍師」だと、固く、固く信じ続けて逝ったのだ。
一人残された秀吉は、友の亡骸の前で、ただ呆然と座していた。
半兵衛の遺言が、彼の頭の中で何度も何度も反響する。
(違う理で世を見ている……天運……)
これまで、どこか面白く、得体の知れない幸運な男としか見ていなかった呉学人。
その存在が、秀吉の中で、巨大で、そしてどこか神聖ささえ帯びたものへと、大きく姿を変えようとしていた。
半兵衛が残した最後の計略。
それは、呉学人という「伝説」を、決定的に不動のものとする、最強の一手だったのかもしれない。
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