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第三部:信長包囲網と天運の行方
第18話 運命の年へ
しおりを挟む 天才軍師・竹中半兵衛が播磨の陣中に散ってから、数年の歳月が流れた。
彼の死を悼む間もなく、歴史の奔流は、その速度をますます速めていく。
天正十年(1582年)
織田家の天下布武は、もはや最終段階へと差し掛かっていた。
長篠で牙を折られた武田家は、ついに滅亡。
十年にも及んだ石山本願寺との死闘も、織田家の勝利に終わった。
東国、北陸はことごとく信長様の支配下に組み込まれ、残す大敵は、西国の雄・毛利、四国の長宗我部、そして九州の島津を残すのみとなっていた。
日の本全土が、織田家の威光の前にひれ伏す日は、目前に迫っていた。
その栄光の中心にそびえ立つのが、琵琶湖のほとりに築かれた壮麗な安土城である。
天主の最上階から天下を見下ろす信長様の姿は、もはや戦国の覇者というよりも、この国の新しい支配者、神に最も近い存在としての威厳を放っていた。
その頃、俺、呉学人は、相変わらず前田利家の側近として、戦よりも内政の仕事に忙殺される日々を送っていた。
亡き半兵衛殿の、あの有り難すぎる遺言のおかげで、俺を見る家臣たちの目は、もはや「幸運なうっかり者」を見るものではなくなっていた。
誰もが俺を、天の理を操る神算鬼謀の軍師……あるいは、織田家に勝利をもたらす歩く護符か何かのように見ている。
その居心地の悪さは、筆舌に尽くしがたい。
(俺は、ただの呉学人なのだが……)
誰にも届かぬ心の叫びは、虚しく胸の内に響くだけだった。
そんなある日、俺と利家は、安土城の信長様から、直々の呼び出しを受けた。
黄金と黒漆で彩られた絢爛豪華な広間に通された俺は、その威容に圧倒され、ただただ小さくなる。
中央に座す信長様の威光は、もはや直視することさえ憚られた。
「うむ、二人とも、よう参った」
信長様は、広げられた地図を指し示しながら、本題に入った。
「見ての通り、藤吉郎が中国攻めで手こずっておる。 備中高松城の水攻めは上手くいっておるようだが、毛利の本隊が援軍として現れ、膠着状態に陥っておるとな」
「はっ、聞き及んでおります」
利家が、緊張した面持ちで答える。
「刻は来た。わし自らが出陣し、毛利を根絶やしにする。 その先駆けとして、明智光秀に援軍を率いらせ、備中の藤吉郎の元へ送る手筈となっておる」
明智光秀……織田家臣団の中でも、信長様の信頼が最も篤い、知勇兼備の名将。
彼が動くとなれば、戦局は大きく動くに違いない。
信長様は、側近から一つの封書を受け取ると、それを俺たちの前に置いた。
それは、織田家の家紋である木瓜紋が蝋で厳重に封印された、一通の密書だった。
「これには、藤吉郎に与える今後の策と、毛利を滅した後の西国の差配について、わしの考えが記してある。
何者にも見られてはならぬ、極めて重要な文じゃ」
信長様の視線が、利家を通り越し、真っ直ぐに俺を射抜いた。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がる。
「誤先生」
「は、はひっ!」
緊張のあまり、声が裏返った。
「この密書を、備中高松城の藤吉郎の元へ届ける役目、そなたに命ずる」
広間が、わずかにどよめいた。
使者としての役目ならば、もっと足の速い者や、腕の立つ者がいくらでもいる。
なぜ、戦闘能力もなければ、足も遅い俺に……
その家臣たちの疑問に答えるかのように、信長様は、絶対的な信頼を込めた声で言った。
「誤先生。 貴様の足の速さや武勇など、わしは期待しておらぬ」
「は、はあ……」
「わしが期待するのは、ただ一つ。 貴様の持つ『天運』よ」
天運……
また、その言葉だ。
「この文は、織田家の未来そのもの。
道中で賊に襲われるやもしれんし、敵の間者に狙われるやもしれん。
だが、貴様が運ぶのであれば、いかなる災いも、なぜか貴様を避けていくであろう」
信長様は、立ち上がると、俺の目の前まで歩み寄り、その密書を俺の手に握らせた。
「誤先生、貴様の天運で、この文を無事藤吉郎の元へ届けよ」
その手の中で、ずしりと重い密書。
それは、ただの紙の重さではなかった。
織田家の未来、そして日の本の未来そのものの重みだった。
(天運……天運ですと……? 何を根拠に……!
ただのうっかり者の私に、そんな大役が務まるはずがない!)
俺は、悲鳴を上げそうになるのを、必死でこらえた。
断ることなど、許されない。
俺は、震える手で密書を懐にしまうと、床に頭がつくほど深く、平伏した。
「……御意に……ございます……」
──こうして、呉学人は歴史上、最も重大な任務を背負うことになった。
壮麗な安土城を後にし、備中高松城へと向かう一人旅。
懐の中の密書の重みが、呉学人の心にずっしりとのしかかる。
一歩、また一歩と西へ向かう呉学人の足は、まるで泥沼に囚われたかのように重かった。
呉学人はまだ、知らない……
この任務が、呉学人の人生における最大のミスを誘発し、そして、それが日本の歴史そのものを、誰も予期しなかった方向へと大きく捻じ曲げてしまうことになるということを。
運命の年、天正十年、初夏。
物語は、その最終局面へと、静かに、しかし確実に動き出していた。
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