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14話
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あの魔法のようなダンスの後も、ポチは夜会が終わるまで、片時もフウカのそばを離れなかった。
彼の隣は、世界で一番安全で、そして心地よい場所だった。
向けられる視線は、もはや好奇や嫉妬ではなく、羨望と賞賛の色を帯びていた。
『氷の人形』と囁く声は、どこからも聞こえてこない。
皆が、第一王子にエスコートされ、幸せそうに微笑む、一人の美しい令嬢として、フウカを見ていた。
夢のような時間は、あっという間に過ぎ去っていった。
「今夜は、本当にありがとう。君と過ごせて、私は、生涯で最も幸せな時間を過ごすことができた」
ロイゼフ公爵邸の玄関前。
フウカを送ってくれたポチは、名残惜しそうに、その手を取った。
「また、明日、会えるだろうか」
その問いに、フウカは、満面の笑みで頷いた。
「はい。わたくしも、ポチ様にお会いしたいです」
その言葉に、彼は心から嬉しそうに微笑むと、フウカの手の甲に最後の口づけを落とし、夜の闇へと去っていった。
屋敷の中に足を踏み入れても、フウカの幸福感は続いていた。
心は、温かい光で満たされ、足取りは、雲の上を歩いているかのように軽い。
世界が、昨日までとは、全く違う色に見えた。
自室に戻り、侍女に手伝ってもらってドレスを脱ぐ。
ベッドに潜り込んでも、興奮でなかなか寝付けそうになかった。
目を閉じれば、ポチの優しい笑顔が、甘い声が、そして、ダンスの時に感じた腕の力強さが、鮮やかに蘇ってくる。
(わたくし、本当に、幸せ……)
この気持ちを、誰かに伝えたかった。
そうだ、お母様に、報告しなくては。
夜会が、とても楽しかったこと。ポチ様が、とても優しかったこと。
きっと、あの不器用な母も、娘の幸せな報告を喜んでくれるはずだ。
そんなことを考えていると、ふと、屋敷が妙に静まり返っていることに気がついた。
父は、公務の会合で、まだ戻っていないのかもしれない。
では、母は?
いつもなら、もう休んでいる時間のはずなのに。
フウカは、そっとベッドを抜け出すと、音を立てないように、廊下に出た。
母の寝室は、暗い。
しかし、その隣にある、母専用の書斎の扉の隙間から、一本の、か細い光が漏れていた。
(まだ、起きていらっしゃるの……?)
こんな夜更けに、珍しい。
フウカは、少し不思議に思いながら、その書斎の扉へと、静かに近づいていった。
母を驚かせようとか、そんな悪戯心があったわけではない。
ただ、今夜の幸せな気持ちを、一刻も早く、分かち合いたかったのだ。
扉は、ほんの少しだけ、開いていた。
フウカは、中を覗き込むようにして、その隙間に、そっと目をやった。
書斎の中は、薄暗かった。
煌々と輝く月の光が、大きな窓から差し込み、部屋の調度品を青白く照らし出している。
その窓辺に、母が一人、背を向けて立っていた。
夜着姿のその背中は、いつもフウカが見る、絶対的な強者のそれとは、どこか違って見えた。
ほんの少しだけ、小さく、そして、ひどく疲れているように感じられた。
(お母様……?)
フウカが声をかけようとした、その時。
机の上に置かれた、一枚の便箋が、目に留まった。
上質で、花の香りがつけられた、優美な便箋。
そこに綴られた流麗な文字は、明らかに、女性のものだった。
母が、ふっと、その便箋を手に取った。
その横顔は、月の光に照らされて、まるで彫像のように、何の感情も浮かんでいない。
ただ、その姿から、深い、深い、どうしようもないほどの『諦観』が、滲み出ているのを、フウカは感じ取った。
やがて、母は、小さな、ほとんど聞き取れないほどの溜息を、一つだけ漏らした。
そして、手の中の便箋を、音もなく、くしゃりと握り潰す。
その美しい唇が、微かに動いた。
自らを、嘲るかのように。
誰に聞かせるともなく、ただ、己の心に言い聞かせるように。
「……夫の不倫相手からの、ご丁寧な手紙か」
その声は、静かだった。
けれど、フウカの耳には、雷鳴のように響いた。
「…………不倫だけに、フリンダ、ってね」
ぽつり、と。
母の口から、いつもの、自虐的な駄洒落がこぼれ落ちた。
いつもなら、フウカが「お母様!」と呆れて言う、その一言。
けれど、今夜のそれは、今までフウカが聞いてきた、どの言葉よりも、悲痛な響きを持っていた。
強い母。
無敵の母。
国さえも、その腕一つで守ってしまう、最強の母。
その母が、たった一人、誰にも見せない書斎の闇の中で、夫の裏切りに、たった一人で耐えている。
涙を流すでもなく、怒りを露わにするでもなく。
ただ、くだらない駄洒落一つで、その全ての痛みを、心の奥底に封じ込めて。
(……ああ……ああ……っ)
フウカは、声にならない悲鳴を、両手で必死に押さえつけた。
全身が、わなわなと震える。
足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で壁に手をついてこらえた。
数分前まで、自分を満たしていた、あの幸福感は、どこへ行ってしまったのだろう。
ポチとの甘い思い出が、ガラス細工のように、粉々に砕け散っていく。
どうして、気づかなかったのだろう。
父の苦悩にも。
そして、母の、この、あまりにも深い悲しみにも。
フウカは、音を立てないように、後ずさった。
一歩、また一歩と、その場を離れる。
自分の部屋の扉にたどり着くと、転がり込むようにして、ベッドに倒れ込んだ。
涙が、溢れてきた。
けれど、それは、自分の幸せが壊された悲しみからくる涙ではなかった。
お母様。
わたくしのお母様。
世界で一番、強くて、優しくて、不器用な、たった一人のお母様。
その、あまりにも大きな背中が、今も、フウカの瞼の裏に焼き付いて離れない。
フウカは、声を殺し、ただ、ひたすらに泣いた。
今夜の舞踏会の思い出は、もう、ずっと遠い過去の出来事のように感じられた。
彼の隣は、世界で一番安全で、そして心地よい場所だった。
向けられる視線は、もはや好奇や嫉妬ではなく、羨望と賞賛の色を帯びていた。
『氷の人形』と囁く声は、どこからも聞こえてこない。
皆が、第一王子にエスコートされ、幸せそうに微笑む、一人の美しい令嬢として、フウカを見ていた。
夢のような時間は、あっという間に過ぎ去っていった。
「今夜は、本当にありがとう。君と過ごせて、私は、生涯で最も幸せな時間を過ごすことができた」
ロイゼフ公爵邸の玄関前。
フウカを送ってくれたポチは、名残惜しそうに、その手を取った。
「また、明日、会えるだろうか」
その問いに、フウカは、満面の笑みで頷いた。
「はい。わたくしも、ポチ様にお会いしたいです」
その言葉に、彼は心から嬉しそうに微笑むと、フウカの手の甲に最後の口づけを落とし、夜の闇へと去っていった。
屋敷の中に足を踏み入れても、フウカの幸福感は続いていた。
心は、温かい光で満たされ、足取りは、雲の上を歩いているかのように軽い。
世界が、昨日までとは、全く違う色に見えた。
自室に戻り、侍女に手伝ってもらってドレスを脱ぐ。
ベッドに潜り込んでも、興奮でなかなか寝付けそうになかった。
目を閉じれば、ポチの優しい笑顔が、甘い声が、そして、ダンスの時に感じた腕の力強さが、鮮やかに蘇ってくる。
(わたくし、本当に、幸せ……)
この気持ちを、誰かに伝えたかった。
そうだ、お母様に、報告しなくては。
夜会が、とても楽しかったこと。ポチ様が、とても優しかったこと。
きっと、あの不器用な母も、娘の幸せな報告を喜んでくれるはずだ。
そんなことを考えていると、ふと、屋敷が妙に静まり返っていることに気がついた。
父は、公務の会合で、まだ戻っていないのかもしれない。
では、母は?
いつもなら、もう休んでいる時間のはずなのに。
フウカは、そっとベッドを抜け出すと、音を立てないように、廊下に出た。
母の寝室は、暗い。
しかし、その隣にある、母専用の書斎の扉の隙間から、一本の、か細い光が漏れていた。
(まだ、起きていらっしゃるの……?)
こんな夜更けに、珍しい。
フウカは、少し不思議に思いながら、その書斎の扉へと、静かに近づいていった。
母を驚かせようとか、そんな悪戯心があったわけではない。
ただ、今夜の幸せな気持ちを、一刻も早く、分かち合いたかったのだ。
扉は、ほんの少しだけ、開いていた。
フウカは、中を覗き込むようにして、その隙間に、そっと目をやった。
書斎の中は、薄暗かった。
煌々と輝く月の光が、大きな窓から差し込み、部屋の調度品を青白く照らし出している。
その窓辺に、母が一人、背を向けて立っていた。
夜着姿のその背中は、いつもフウカが見る、絶対的な強者のそれとは、どこか違って見えた。
ほんの少しだけ、小さく、そして、ひどく疲れているように感じられた。
(お母様……?)
フウカが声をかけようとした、その時。
机の上に置かれた、一枚の便箋が、目に留まった。
上質で、花の香りがつけられた、優美な便箋。
そこに綴られた流麗な文字は、明らかに、女性のものだった。
母が、ふっと、その便箋を手に取った。
その横顔は、月の光に照らされて、まるで彫像のように、何の感情も浮かんでいない。
ただ、その姿から、深い、深い、どうしようもないほどの『諦観』が、滲み出ているのを、フウカは感じ取った。
やがて、母は、小さな、ほとんど聞き取れないほどの溜息を、一つだけ漏らした。
そして、手の中の便箋を、音もなく、くしゃりと握り潰す。
その美しい唇が、微かに動いた。
自らを、嘲るかのように。
誰に聞かせるともなく、ただ、己の心に言い聞かせるように。
「……夫の不倫相手からの、ご丁寧な手紙か」
その声は、静かだった。
けれど、フウカの耳には、雷鳴のように響いた。
「…………不倫だけに、フリンダ、ってね」
ぽつり、と。
母の口から、いつもの、自虐的な駄洒落がこぼれ落ちた。
いつもなら、フウカが「お母様!」と呆れて言う、その一言。
けれど、今夜のそれは、今までフウカが聞いてきた、どの言葉よりも、悲痛な響きを持っていた。
強い母。
無敵の母。
国さえも、その腕一つで守ってしまう、最強の母。
その母が、たった一人、誰にも見せない書斎の闇の中で、夫の裏切りに、たった一人で耐えている。
涙を流すでもなく、怒りを露わにするでもなく。
ただ、くだらない駄洒落一つで、その全ての痛みを、心の奥底に封じ込めて。
(……ああ……ああ……っ)
フウカは、声にならない悲鳴を、両手で必死に押さえつけた。
全身が、わなわなと震える。
足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で壁に手をついてこらえた。
数分前まで、自分を満たしていた、あの幸福感は、どこへ行ってしまったのだろう。
ポチとの甘い思い出が、ガラス細工のように、粉々に砕け散っていく。
どうして、気づかなかったのだろう。
父の苦悩にも。
そして、母の、この、あまりにも深い悲しみにも。
フウカは、音を立てないように、後ずさった。
一歩、また一歩と、その場を離れる。
自分の部屋の扉にたどり着くと、転がり込むようにして、ベッドに倒れ込んだ。
涙が、溢れてきた。
けれど、それは、自分の幸せが壊された悲しみからくる涙ではなかった。
お母様。
わたくしのお母様。
世界で一番、強くて、優しくて、不器用な、たった一人のお母様。
その、あまりにも大きな背中が、今も、フウカの瞼の裏に焼き付いて離れない。
フウカは、声を殺し、ただ、ひたすらに泣いた。
今夜の舞踏会の思い出は、もう、ずっと遠い過去の出来事のように感じられた。
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