私の婚約を母上が勝手に破棄してしまいました

桜井ことり

文字の大きさ
15 / 24

15話

しおりを挟む
夜が明け、朝日が部屋に差し込んでも、フウカの心は深い闇に沈んだままだった。
泣き腫らした目は重く、体は鉛のようにだるい。
鏡に映った自分の顔は、昨夜、ポチに「星よりも美しい」と褒められた面影など、どこにもなかった。
一夜にして、フウカの世界から、すべての色は失われてしまったかのようだった。

それでも、朝はやってくる。
フウカは、侍女に手伝ってもらいながら、心を無にして身支度を整えた。
虚ろな気持ちのまま、食堂へと向かう。
そこには、既に、父と母が席に着いていた。

「おはよう、フウカ」

父、トウカが、いつもと変わらない穏やかな声で娘に微笑みかけた。

「昨夜は、楽しかったようだな。ポチ殿下も、喜んでおられただろう」

「……はい、お父様」

フウカは、短く答えるのが精一杯だった。
父の顔を、まともに見ることができない。
その優しい笑顔の裏にある、罪悪感と苦悩を知ってしまった今、どういう顔をして向き合えばいいのか、分からなかった。

「フウカ、顔色が悪いぞ。少し、紅茶の銘柄を変えてやろうか。鎮静効果のあるカモミールがいいだろう」

母、フリンダが、娘の様子を気遣う。
その声もまた、いつもと、何も変わらない。
昨夜、一人きりの書斎で、あれほどの痛みを抱えていたことなど、微塵も感じさせない、完璧で、静謐な公爵夫人の姿が、そこにはあった。

(どうして……)

フウカは、胸が張り裂けそうになるのを、必死でこらえた。

(どうして、お二人は、平然としていられるのですか……?)

父は、己の過ちを隠し、優しい父親を演じている。
母は、夫の裏切りに気づきながら、その全てを飲み込み、完璧な妻を演じている。
この、静かで、穏やかな朝食の風景は、全てが、偽りの上に成り立っている、脆い砂上の楼閣なのだ。

もう、耐えられなかった。
こんな悲しい仮面舞踏会を、これ以上、続けるわけにはいかない。

「……申し訳ありません。少し、気分が優れなくて。お先に、失礼いたします」

フウカは、ほとんど食事に手をつけることなく、席を立った。
両親が、心配そうな声をかけてくるのを背中で聞きながら、逃げるようにして、自室へと戻った。

部屋に戻り、扉を閉めた瞬間、フウカの足は崩れ落ちた。
床にへたり込み、膝を抱える。
どうすればいい?
わたくしに、何ができる?

母の、あの、あまりにも寂しい背中が、脳裏に焼き付いて離れない。
父の、あの、救いを求めるような、憂いを帯びた瞳も。
二人を、愛している。
心から、幸せになってほしいと願っている。
けれど、今の自分は、あまりにも無力だった。

その、絶望的な無力感の中で、ふと、一つの声が、フウカの心に蘇った。

『何かあれば、いつでも私を呼ぶんだ』

ポチ様の、声。
わたくしの、盾になる、と。そう、誓ってくれた人の声。
フウカは、まるで溺れる者が藁を掴むかのように、その声に、その存在に、思いを馳せた。

震える手で、便箋とペンを取る。
何を書けばいいのか、分からない。
けれど、ただ、彼に会いたかった。

『ポチ様。……どうしても、お話したいことが、ございます。少しだけ、お時間をいただくことは、叶いますでしょうか』

それだけを書くのが、精一杯だった。


***


フウカの短い手紙を受け取ったポチは、それから一時間もしないうちに、ロイゼフ公爵邸に姿を現した。
その顔には、いつもの穏やかな笑みはなく、フウカを案じる、真剣な色が浮かんでいる。

「フウカ。顔色が、酷いぞ。一体、何があったんだ」

屋敷の庭園で、二人きりになると、ポチはすぐにそう切り出した。
その、心からの心配がこもった声を聞いただけで、フウカの目から、涙がこぼれ落ちそうになる。

「ポチ様……」

どう切り出せばいいのか、分からない。
これは、ロイゼフ家の、内々の、恥ずべき問題だ。
他国の王子である彼を、巻き込んでいいはずがない。

フウカが、ためらい、唇を噛む。
そんな彼女の葛藤を見透かしたように、ポチは、静かに言った。

「私を、頼ってくれないか」

その青い瞳は、ただ、まっすぐにフウカだけを見つめていた。
嘘も、偽りも、計算も、何もない。
ただ、純粋に、フウカの力になりたいという、強い意志だけが、そこにあった。

フウカの心のダムが、決壊した。

「……わたくしの、両親のことなのです」

嗚咽をこらえながら、フウカは、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
父の不倫のことは、伏せた。それは、父の名誉を守るための、娘としての最後の意地だった。

「お母様が……。とても強い方なのですが、本当は、一人で、大きな悲しみを、抱えていらっしゃるようなのです」
「そして、お父様も……。ずっと、何かに苦しんでおられるご様子で……」
「わたくし、お二人を、とても愛しております。また、昔のように、心から笑い合ってほしいのです。けれど……わたくしには、どうすればいいのか、何も……。あまりにも、無力で……」

言葉は、途中で涙に変わった。
フウカは、その場にうずくまり、声を殺して泣いた。

ポチは、そんなフウカの言葉を、一言も遮らずに、最後まで静かに聞いていた。
そして、彼女が泣きじゃくる肩を、そっと、大きな手で抱き寄せた。

「フウカ。顔を上げて、私を見て」

フウカが、涙に濡れた顔を上げると、ポチは、今まで見たこともないほど、真剣な顔をしていた。

「君は、決して無力ではない」

彼は、フウカの両手を取ると、その目に、強い力を込めて言った。

「私は、君に誓ったはずだ。君の盾になると。その誓いは、君の心に痛みを与える、全てのものが対象だ」

その声は、王としての覚悟を秘めて、重く、そして力強く響いた。

「君のご両親の問題は、今この瞬間から、私の問題でもある。君が、君のご家族が、本当の笑顔を取り戻せるように、私が助ける。このグロリア王国の第一王子、ポチの名誉にかけて、君に誓おう」

それは、単なる慰めの言葉ではなかった。
一国の王子が、その全てを賭けて立てた、神聖な誓いだった。

「……ポチ、様……」

フウカは、彼の、あまりにも大きく、そして頼もしい愛に、言葉を失った。
この人は、詳しい事情も聞かずに、ただ、自分の痛みに寄り添い、それを自分のものとして、背負ってくれようとしている。

再び、涙が溢れてきた。
けれど、それは、先程までの、絶望の涙ではなかった。
暗闇のどん底で、一条の光を見つけたような、安堵と、感謝の涙だった。

フウカは、ポチの胸に顔をうずめた。
もう、一人ではない。
この、誰よりも強く、そして優しい人が、共に戦ってくれる。

今は、まだ、どうすればいいのか分からないけれど。
この人と一緒なら、きっと、あの、冷たくて悲しい仮面舞踏会を、終わらせることができる。
フウカは、彼の胸の温もりを感じながら、そう、固く信じていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに

reva
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。 選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。 地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。 失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。 「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」 彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。 そして、私は彼の正妃として王都へ……

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました

蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。 そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。 どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。 離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない! 夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー ※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。 ※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

愛する夫が目の前で別の女性と恋に落ちました。

ましゅぺちーの
恋愛
伯爵令嬢のアンジェは公爵家の嫡男であるアランに嫁いだ。 子はなかなかできなかったが、それでも仲の良い夫婦だった。 ――彼女が現れるまでは。 二人が結婚して五年を迎えた記念パーティーでアランは若く美しい令嬢と恋に落ちてしまう。 それからアランは変わり、何かと彼女のことを優先するようになり……

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

処理中です...