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しおりを挟むたった数日のうちで、オーダーメイドのワイシャツは結局のところ、ワインを拭いてしまった一枚と、今着ている一枚が廃棄処分になることが決定した。もはや洗っても取れないレベルの泥にまみれ、阿賀野はガレージの中で座り込んでいた。
発情ですっかり参ってしまった真柴を玄関に放り込んで鍵を閉めさせた後、阿賀野は引き戸越しに呼びかけた。
「真柴君。電話の用件は落ち着いたら聞く。それより、畑の台風対策は大丈夫か?」
真柴の敷地に広がる畑には、ビニールハウスの類いはなかった。全てが露地栽培で、いつもはつやつやとした野菜が実っている畑は、豪雨に晒されて水浸しになっていた。
さんざん雨に打たれ、背中に乗っけていた真柴から離れたことで、さっきよりはましになっている。少しクリアになった思考で周囲を見渡し、真柴がガレージで蹲っていた理由を考えれば、彼が台風対策のために外に出ていたことはなんとなくわかった。
「俺で出来ることがあればやる。君はそこで俺に指示を出してくれ」
「でも、……っふ、う…あ、あがの、さん、なんで」
引き戸一枚を隔てた向こう側から聞こえる声は、困惑と狼狽が入り混じっている。
「理由は後で、落ち着いてからだ。君の畑だろう。どうにかしないと、駄目になってからじゃ遅い」
農作業などしたこともないが、指示があれば動けなくもない。早く指示しろとせっつくと、真柴はいくつか阿賀野に対策をお願いした。
「排水溝、お、お願いします……草が詰まったら、排水出来なく、なるので」
「どこ側にある?」
「全部のはた、畑の、右側に側溝が…」
「そこにごみが溜まらないようにすればいいんだな? わかった。道具はガレージから借りるぞ。君は抑制剤を飲んで、家の中に。なにかあったら電話する。いいか、絶対出てくるなよ。俺も抑制剤を飲んでいるし、君には首輪を嵌めた。それでも間違いが起きないわけじゃない。絶対に、開けるな」
「でも」
「でもじゃない。俺はアルファで、君はオメガだ。俺の、運命だ。間違いで、なんて馬鹿は絶対に犯さない」
阿賀野も抑制剤を飲まなければ、そろそろ危うい。高圧的すぎると自覚はしたが、敢えて強い口調で怒鳴ると、引き戸の向こうの真柴は静かになった。
抑制剤を一錠飲んで、それから阿賀野は広大な敷地内を駆けずりまわった。すべての畑は既に収穫が済んでいたり、ものによっては特殊な布で畝ごとに覆われていた。畑の側溝は風に吹き飛ばされた草が溜まっているところもあれば、まるで川のように水が流れているところもあった。逐一見て回って詰まりを取り除き、あるいははずれかけの覆い布を固定し直したりしているうちに土で滑って何度か転び、生まれて初めて泥まみれになっていた。
潔癖症というわけではないが、土いじりが趣味というわけでもない。地面にすら触れることなど滅多にないので、土はこんな感触だったか、と思いながら頬にベッタリと着いた泥を手のひらで拭う。湿った草と土と水の匂いがした。
真柴に会いに来ただけなのに、気付けば慣れない畑作業までしている。そのうえ、本来ならば手籠めにするいい機会だったはずの真柴の首には首輪を嵌め、自分は服用量を超えた抑制剤まで飲んで、その機会を自ら遠ざけた。
(何してるんだ、俺は)
困惑と同時に笑いがあがってくるが、疲れすぎて口角をあげることしか出来ない。
考えてみれば、夕飯も百貨店のベーカリーで買ったクロワッサンを齧っただけだ。昨夜から寝ていないので寝不足でもある。そう考えると唐突に強烈な眠気が襲ってきて、阿賀野は壁に預けていた背をずるずると倒した。どうせワイシャツもスラックスももう廃棄だ。これ以上汚れたところで、気にすることもない。
「……あ」
倒れた先は、思いがけずふかふかとしている。そして、真柴の匂いが僅かに残っていた。
(真柴君が隠れていた藁か)
さすがに本人がいなくなって数時間経っているので、匂いはほとんど残っていない。微かな残り香は多少の劣情を煽ったが、それよりもどこか安堵がある。
(……傷つけずに済んだ)
我慢のたびに噛んでいた阿賀野の口腔は傷だらけで、数日はお粥しか口に出来ないかもしれないが、本能に屈して真柴を組み敷くようなことにはならずに済んだ。
それだけがなによりも良かったと安堵のため息を吐いて、そのまま阿賀野の呼吸は寝息になる。
発情に振り回されたオメガとアルファを一つ屋根の下に閉じ込めた暴風雨は、西へ東へと吹き荒れながら、しばらく止みそうにもなかった。
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