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しおりを挟む都内にある阿賀野の部屋に置かれたクイーンサイズのベッドには、とあるラグジュアリーホテルと同じ寝具が使われている。出張で宿泊した際に肌触りや感触が気に入り、すぐにコンシェルジュにブランドを聞いて同じものを揃え、それ以来ずっと愛用していた。
枕は少し高めでパイプ入ったもの。夏の盛りである今時期は、麻のタオルケットを好んで使っている。
けれど、目覚めた阿賀野が頭を預けていたのはオーダーメイドした枕ではなく積み上げた藁の一部で、肩にかかっていたのは使用感のあるくったりとした感触が柔らかい、コットンのタオルケットだった。どこか懐かしいさを感じる、畳のような匂いがする。同時に、甘く芳しい香りもする。それはいつまでも嗅いでいたい匂いだった。
「……あっ」
匂いの元であるタオルケットにもう少し寄りたいと体を身じろがせた時だった。驚きを含んだ声が響いて、泥のような眠りに埋もれていた阿賀野の意識は急浮上した。
頬に藁が当たっている。ここは自宅の寝室ではない。
今に至るまでの出来事が動画の早回しのように脳裏によみがえり、ぐったりと重たい体を起こそうとした阿賀野の耳に、バンとけたたましい音が響いた。
昨夜、暴風雨の吹き荒れる中で足を踏み入れたこの倉庫は、暗くて大きな耕運機や棚以外の位置が分かりづらかった。けれど、いつの間に夜が更けたのか、倉庫内は薄暗い程度の明るさになっていて、音の方向に視線をやると、隅の方にアルミ製の扉が見えた。
扉は閉まっていたが、その向こうではどたばたと騒がしい足音が遠ざかろうとしている。咄嗟に立ち上がってドアノブをひねると、予想外にあっさりとそれは開いた。
ギイと音を立てて開いた扉の向こうには、板張りの廊下が真っ直ぐ伸びていた。左右にいくつか襖や扉が見え、そこが家内であるのだと気付いた阿賀野の視界の端で、廊下の突き当り近くにある扉がバタンと閉まった。
廊下には誰もいなくなったが、鼻先にまとわりつくように残る匂いは、間違いなく真柴の発情期の匂いだ。けれど阿賀野の体は一瞬で疼いたものの、数時間前に味わった狂おしいほどの衝動ではなかった。
多く服用したからなのか、発情のピークが過ぎたからなのか、どっちだろうかと考えていると、ふとすぐ近くに紙が落ちていることに気付いた。
なにかのメモだろうかと視線をやると、そこには少し震えた線で文字がつづられていた。
『阿賀野さんへ
昨日は迷惑をおかけしてすみませんでした。
台所のテーブルに、簡単ですが朝ごはんを用意してあります。めしあがってください。足りなければ、冷蔵庫のものを食べてくださってかまいません。冷めていたら、レンジを使ってください。
サイズが合うかわからないのですが、着替えもお風呂場に置いておきます。着替えた服は、洗濯をして後日お返しします。近くにカゴも置いておくので、そこに入れてください。
トイレやお風呂も使ってください。お休みになるんでしたら、寝室を使ってください。ただ、玄関に一番近い扉は開けないでください。
まだ発情期が終わらないので、お見送りは出来ません。本当にすみません。後日お礼をします。すみません。
真柴要』
メモの隅には間取り図が描いてあった。
真柴のいるところは家屋と倉庫を隔てる扉で、そこからまっすぐに伸びた廊下の右側にトイレ、浴室、キッチン、リビングと並び、突き当りが玄関だ。左側は中庭と寝室があり、寝室と玄関の間の僅かな壁部分にはバツが書いてある。そこから矢印が伸びた先に、『ここには入らないでください』と注意書きがあった。そこは、先ほど真柴が飛び込んだ扉だった。
本来なら、つがいではない発情期のオメガの近くに居座ることは賢い選択ではない。すぐにここを去るべきだというのは阿賀野もわかっていたが、外は暴風雨が吹き荒んでいる。喉の渇きと空腹と疲労もひどい。判断を鈍る一方だ。
「……、真柴くん」
ひとつ呼吸をして、誰もいない板間に声を投げる。少し擦れた大声が、ひとけのない廊下にがらんと響いた。
「メモを読んだ。すまないが、言葉に甘える。車にいったん戻るけど、抑制剤を飲んだらバスルームを借りるよ。ご飯もごちそうになる。寝室も少し借りる。天気が落ち着いたらすぐに出ていくけど、その時にはまた、声を掛けるから」
返事はないが、聞こえてはいるだろう。玄関の付近で、ぎしりと床板の軋む音がした。
匂いはするが、昨日よりははるかに薄い。おそらく真柴も抑制剤を飲んだのだ。更に真柴も抑制剤を服用すれば、扉を隔てているのだし、おそらくは大丈夫だ。
雨風が吹き荒れるなか、一度車に戻った阿賀野は、抑制剤をシートごと持ってきた。すきっ腹に薬を入れるのはよくないことだとわかってはいたが、今度は用量通り一錠だけを水で流し込んで、風呂を借りる。
真柴という男は他人を避けて生きているものの、気が利かないわけではないらしい。
それほど広くもなく、古びてところどころひびが入ったタイルが敷き詰められた風呂場の小さなバスタブには、湯が張られていた。
ある程度払ったものの動くと土がぱらぱらと落ちるので、風呂場で全て脱いで、阿賀野は改めてオーダーメイドのシャツの惨状を見直したが、それほど悪い気はしなかった。そのまま捨てるつもりではあったが、少し考えて、こちらも泥だらけになって処分行きだと思っていたスラックスと一緒に脱衣所の隅に置かれたカゴに入れた。
会うべきか会わずにいるべきか、確かに昨日までは迷っていたはずだった。けれど、次の機会を逃さないために、捨てるつもりだった服をきっかけにしようとしている。
そもそも、押し通していいものかと悩む時点で気付くべきだったのだ。
この感覚は衝動によく似ていて、阿賀野にとっては今まで味わったことのない感情だ。
もうすぐ三十路なのに自分でも判別のつかない感情に振り回されて思わずため息を吐いた阿賀野は、憂鬱を振り切るようにカランをひねった。
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