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巣ごもりオメガと運命の騎妃
58.ナハルベルカへ
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遠くに見えていた布市場の赤い尖塔が見えなくなり、ミシュアルはようやく背中を背もたれに預けた。
これから一週間近くかけて、ナハルベルカへ戻ることになる。
来た時と同じように自分で馬を繰っても良かったのだが、誘拐時にかがされた薬の副作用がどう出るかわからないからとイズディハールに説得され、帰路は馬車になった。
いまのところ、ミシュアルの体調に変化はない。しかしまだサリムが寝付いており、見送りにも出てこれなかったほどなのだ。もともと体を壊していたせいもあるだろうが、何かしら体に作用しているのは確かだ。
(これ以上悪くなりませんように)
遠く離れた国へ帰るミシュアルにできるのは、祈ることだけだ。
早く快癒しますようにと思わず手を組むと、向かいに座ったイズディハールがどうした、と声をかけてきた。
「サリム殿の体調が早く良くなるようにと……」
「そのことか。なにかあれば連絡をくれるとハイダルも言っていたから、あまり心配するな」
「本当ですか?」
「ああ。それ以外にも、今回の事件についてのやりとりはこれからも必要だ。ついでというわけではないが、近況は伝えてくれるだろう」
サリムとの手紙のやり取りは頻繁ではないが、寝付いていてはペンを執ることも難しいだろうと考えていただけに、ミシュアルはイズディハールの言葉に胸をなでおろした。
「良かった……そういえば」
ほっとしたのもつかの間、事件についてイズディハールが言及したことで、ミシュアルはふとあの事件にかかわった男たちを思い出した。
クク山脈での乱闘後、捕縛された彼らとは会っていない。どうなったのかも知らなかった。
「あの盗賊たちは全員捕まったんですよね」
「とりあえず、お前たちをさらった四人は全員捕らえた。薬の入手経路や、手引きした者がいないかを詰問するが、近いうちに裁かれることになるだろう。ドマルサーニの法では人身売買は重罪だ。そのうえ、さらった相手が悪かったな。皇太子妃――それも、運命のつがいをさらうなど……命さえあればとは言うが、生きていたとして、ということにはなるはずだ。生き延びたとしても、ナハルベルカの法も持ち出すつもりだ。あいつらは私のつがいを浚ったんだ。許すわけにはいかない」
ふんと鼻を鳴らすイズディハールは、まだ憤っているのだろう。組んだ腕から出た指先が、いらいらと肌を叩いていた。
普段落ち着いているイズディハールが怒りをあらわにすることは珍しい。それほど腹に据えかねているのだなと思いつつ、怒りの理由の中に自分への想いを見つけたミシュアルは、少し嬉しくなった。
しかしにやにやと相好を崩すような情けない顔は見せたくない。思わず笑みそうになった口を抑えてうつむいたミシュアルだったが、すぐにイズディハールのあわてた声が頭上で響いた。
「どうした、体調が悪いのか? おい、馬車を停めてくれ。ミシュアルの様子が」
「ちっ、違います! 大丈夫です、そのまま進んでください」
中で騒ぐ声は御者にも聞こえたのだろう。一瞬車輪の回転音が鈍くなり、また気を取り直したように走り出した。
「本当に大丈夫なのか? まだメラからそれほど離れていない。今なら引き返すことも……」
「違うんです、その――く、くしゃみが出そうで」
とっさの言い訳に、ミシュアルのつがいは胡乱な目を向けてきたが、にやけそうだったので隠してたなどとはとても言えない。
わざとらしくくしゃみを一回して、ミシュアルはええと、と話をそらすことにした。
「それはそうと……あの薬はなんだったんですか?」
クク山脈からメラに戻ってからもバタバタとせわしなく、体を調べてもらったものの薬のことは詳しく聞いていない。いまさらながらミシュアルが聞くと、イズディハールは眉間にしわを刻んだ。
「あれは、カシュカという実の粉末だった。ハイダルと一緒に調剤師から話を聞いたが、オメガにしか効かないもので、抑制剤にも使われるものらしい。だが、本来は十回の服用分を煎じたとしてもせいぜい水で溶かして一滴程度しか使われないものだと聞いた。それをお前たちは粉末で吸い込んだんだ」
「じゃあ、ものすごく強い抑制剤を使われたってことですか?」
「そんなところだな。即効性と強力な抑制が特徴で、流通経路も限られているほどの劇物だ。遅れて副作用が出るかもしれない。だからミシュアル、体調に何か変化があればすぐに言ってくれ。どんな些細なことでも構わない」
「わかりました」
うなずいたものの、きっとなにもないだろうとミシュアルは思っていた。
あの薬をかがされて、もう一週間経っている。薬で朦朧としたのはその日だけで、その後は脱走やら奪還やらで目まぐるしく動き回っていた。それでも不調は感じなかったし、体もいつも通り動く。
サリムの方が小柄なうえ、もともとあった不調が重なったせいで大きく薬が作用してしまっただけで、自分にはあまり効かなかったのだろう――そう思っていた。
しかしドマルサーニを出て六日目、本来ならば王都の正門から入る王とつがいの乗った馬車は、まるで隠れるようにそっと裏手の門から王宮へ入った。
そして何事だとざわめく大臣たちは、一行から早々に離脱したザネリ副師団長から、王直筆の手紙を受け取ることになる。
そこに書かれていたのは、通常よりも早くつがいであるミシュアルの発情期が始まってしまったこと、申し訳ないがあと三日、王不在のまま政務に励んでくれという激励だった。
これから一週間近くかけて、ナハルベルカへ戻ることになる。
来た時と同じように自分で馬を繰っても良かったのだが、誘拐時にかがされた薬の副作用がどう出るかわからないからとイズディハールに説得され、帰路は馬車になった。
いまのところ、ミシュアルの体調に変化はない。しかしまだサリムが寝付いており、見送りにも出てこれなかったほどなのだ。もともと体を壊していたせいもあるだろうが、何かしら体に作用しているのは確かだ。
(これ以上悪くなりませんように)
遠く離れた国へ帰るミシュアルにできるのは、祈ることだけだ。
早く快癒しますようにと思わず手を組むと、向かいに座ったイズディハールがどうした、と声をかけてきた。
「サリム殿の体調が早く良くなるようにと……」
「そのことか。なにかあれば連絡をくれるとハイダルも言っていたから、あまり心配するな」
「本当ですか?」
「ああ。それ以外にも、今回の事件についてのやりとりはこれからも必要だ。ついでというわけではないが、近況は伝えてくれるだろう」
サリムとの手紙のやり取りは頻繁ではないが、寝付いていてはペンを執ることも難しいだろうと考えていただけに、ミシュアルはイズディハールの言葉に胸をなでおろした。
「良かった……そういえば」
ほっとしたのもつかの間、事件についてイズディハールが言及したことで、ミシュアルはふとあの事件にかかわった男たちを思い出した。
クク山脈での乱闘後、捕縛された彼らとは会っていない。どうなったのかも知らなかった。
「あの盗賊たちは全員捕まったんですよね」
「とりあえず、お前たちをさらった四人は全員捕らえた。薬の入手経路や、手引きした者がいないかを詰問するが、近いうちに裁かれることになるだろう。ドマルサーニの法では人身売買は重罪だ。そのうえ、さらった相手が悪かったな。皇太子妃――それも、運命のつがいをさらうなど……命さえあればとは言うが、生きていたとして、ということにはなるはずだ。生き延びたとしても、ナハルベルカの法も持ち出すつもりだ。あいつらは私のつがいを浚ったんだ。許すわけにはいかない」
ふんと鼻を鳴らすイズディハールは、まだ憤っているのだろう。組んだ腕から出た指先が、いらいらと肌を叩いていた。
普段落ち着いているイズディハールが怒りをあらわにすることは珍しい。それほど腹に据えかねているのだなと思いつつ、怒りの理由の中に自分への想いを見つけたミシュアルは、少し嬉しくなった。
しかしにやにやと相好を崩すような情けない顔は見せたくない。思わず笑みそうになった口を抑えてうつむいたミシュアルだったが、すぐにイズディハールのあわてた声が頭上で響いた。
「どうした、体調が悪いのか? おい、馬車を停めてくれ。ミシュアルの様子が」
「ちっ、違います! 大丈夫です、そのまま進んでください」
中で騒ぐ声は御者にも聞こえたのだろう。一瞬車輪の回転音が鈍くなり、また気を取り直したように走り出した。
「本当に大丈夫なのか? まだメラからそれほど離れていない。今なら引き返すことも……」
「違うんです、その――く、くしゃみが出そうで」
とっさの言い訳に、ミシュアルのつがいは胡乱な目を向けてきたが、にやけそうだったので隠してたなどとはとても言えない。
わざとらしくくしゃみを一回して、ミシュアルはええと、と話をそらすことにした。
「それはそうと……あの薬はなんだったんですか?」
クク山脈からメラに戻ってからもバタバタとせわしなく、体を調べてもらったものの薬のことは詳しく聞いていない。いまさらながらミシュアルが聞くと、イズディハールは眉間にしわを刻んだ。
「あれは、カシュカという実の粉末だった。ハイダルと一緒に調剤師から話を聞いたが、オメガにしか効かないもので、抑制剤にも使われるものらしい。だが、本来は十回の服用分を煎じたとしてもせいぜい水で溶かして一滴程度しか使われないものだと聞いた。それをお前たちは粉末で吸い込んだんだ」
「じゃあ、ものすごく強い抑制剤を使われたってことですか?」
「そんなところだな。即効性と強力な抑制が特徴で、流通経路も限られているほどの劇物だ。遅れて副作用が出るかもしれない。だからミシュアル、体調に何か変化があればすぐに言ってくれ。どんな些細なことでも構わない」
「わかりました」
うなずいたものの、きっとなにもないだろうとミシュアルは思っていた。
あの薬をかがされて、もう一週間経っている。薬で朦朧としたのはその日だけで、その後は脱走やら奪還やらで目まぐるしく動き回っていた。それでも不調は感じなかったし、体もいつも通り動く。
サリムの方が小柄なうえ、もともとあった不調が重なったせいで大きく薬が作用してしまっただけで、自分にはあまり効かなかったのだろう――そう思っていた。
しかしドマルサーニを出て六日目、本来ならば王都の正門から入る王とつがいの乗った馬車は、まるで隠れるようにそっと裏手の門から王宮へ入った。
そして何事だとざわめく大臣たちは、一行から早々に離脱したザネリ副師団長から、王直筆の手紙を受け取ることになる。
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