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第一部 揺動のレジナテリス
戦史1 レインフォール接敵 JAC,22th,AD121
しおりを挟むどのくらい歩いたか、険しい獣道を降り続けたか、太陽と月が1度づつ頭上を通り過ぎた。
初夏の時期は比較的穏やかな気候で、雨の多いレインフォールでは珍しく曇り空が続いていた。
昼は時折射す穏やかな木漏れ日と囀りに励まされ、夜は静寂と不思議な安堵に抱かれ眠った。
リコの予報通りに二日目の夜明け前から空が陰り、昼前には風が湿っぽくなった。
カイルという名の大男は、話しかけてくることは余りないが、返事がないということはなく、
反応は返ってくるので、リコはめげずに取り留めも無い事を話し続けながら歩いた。
何の前置きも無くリコの前から姿を消した父――ヴァンがカイルに託したという話を信じて、
疑問も持たずに付いてきたリコだったが、不満や不安はなかった。
幼少の頃からふらっと消える父親のことだからという思いと、
何より森を出ようとすること自体が生まれて初めてのことで、
見慣れた景色ですら真新しく感じられる程には、興奮が勝っていたからだった。
「少……し休、む、ぞ」
独り言のようにカイルは沿道の若木にもたれかかるように腰を預けた。
リコもそれを見て、弓と矢筒を立てかけた大きな木の根に腰を下ろし、
腰に下げていた水袋の底を絞って喉を潤す。
ポーチから葉包みを取り出し、上部を剥がして露わになった干し肉を齧りながら、
張った足に手を伸ばして身体を倒すと、フッと何かに気づいて首元から引っ張り出した。
「ねぇ、これって何なの? 下げとけって言われたけど……」
「鍵、だ」
「それは聞いたけど……どこの鍵?」
「解……ら、ない」
「父さんはどこにいったのかな?」
「……解ら、ない」
「ふぅん……ところで、カイルはどこからきたの?」
「マ、ルモ……アル、バロ」
「マル……?」
リコも以前父親から少しだけ聞いた事があった。
レインフォールやノルドランドよりも北、深く木々に覆われ光も殆ど射さない事から
《暗き森》と呼ばれている場所があるという話を。
「そこは人が住んでるの?」
「多く、は、ない」
「カイルのお父さんはどこに行ったんだっけ?」
「解……ら、ない」
「僕の父さんも同じ所に行ったんだよね?」
「そう、だ、が、解らな、い」
ヴァンとカイルの父は昔からの知り合いらしいが、リコはそんな話を聞いたことがなかった。
母のことも父から聞いた話でしかなく、今でも小さな胸の奥を鋭く刺し苛んでいた。
「そだ、カイルのお母さんはその森に住んでるの?」
これまでリコの問いに、たどたどしくも答えていたカイルが初めて黙った。
そして、間を置いて無言でゆっくり腰を上げ、槍を手にする。
「行く……ぞ。日……が暮、れる前……に」
聞かない方が良かったのかと、首を傾げ立ち上リコの頬に雫が滴った。
「やっぱり降ってきたね。いつものことだし慣れてるけど」
右に、左に、と尻についた木っ端や草っきれを払いながら、リコは曇天を見上げた。
「暗、き森に、は……雪、も降る」
「雪? 何それ?」
「雨……が、凍……った、もの、だ」
「こおった?? なにそれ?」
聞きなれない言葉の意味を記憶の中から探しながら、リコは大きく口を開けて給水を試みる。
薄暗い空を遮る樹々を避けて左右に雨水を迎え入れていると、カイルが指差した。
先導して歩くカイルは、人が通るような道ではない僅かな獣道を迷うことも無く進んでいく。
その技術は森で生まれ森で過ごして来たリコの目から見ても熟練の動きだった。
「ねぇ、本当にそっちであってるの?」
「恐ら……く」
「あ、そっか。一度ここを通って湖まで来たんだっけ」
カイルは先程より少し短い間を置いて答えた。
「……夜か……明日、朝に……は着く」
いざとなれば家に戻れば良いだけだと気にしないことにしたリコだが、火の心配はしていた。
この空模様では二度目の野宿をするより、早く森を抜けてしまった方が良さそうだと
小走りでカイルを追う――その時、聞いた事もない、刺すような甲高い音が二人の両耳に届いた。
カイルは左手でリコの移動を制して、腰を落とし臨戦態勢を取る。
「……何の音?」
「解ら、な……い」
リコはゆっくりと目を閉じて意識を集中し、そして拡散する。
雨の音。所どころで囁く虫の声。何かしら動物の遠吠え。小さく打つ鼓動。
それらの合間、何かが藪を擦る音――が、そう遠くない場所から発せられているのを感じた。
同じような仕草を終えたカイルを見て、リコは出来る限りの小声で確認する。
「もう少し前の方、右の茂みのかなり奥――だよね……行ってみる?」
「……後ろ、から来、て、くれ」
「なんで?」
カイルは表情を変えずに槍を前に倒して、足を滑らすように歩き始めた。
「弓……は後、ろ、から……だ」
「そういうものなの? よくわからないけど……わかった」
獣道から茂みに入り密集した木々の隙間を、リコは弓を寝かせてまるで緑の布を縫うように、
カイルは大きな身体で、更に長い縫針――槍を持ちながらも滑らせるようにして進んで行く。
二人の狩人は遜色ない技術を用いて、静かに、素早く、そして確実に目標に近づいていった。
本格的に降り始めた雨が雑音を消し、無風が追跡を後押ししていた、のだが――
不意に。風――がそよぎ始める。
風上だと匂いが届いて気づかれる恐れがあるが幸運にも風下に位置していた。
リコは鼻先に意識を移し、少し深く呼吸をする。
生温かい風に混じった異臭を感じ、既に頭を低くしているカイルに目配せする。
それが何かしらの焦げる匂いだと気づいてから少し経つと、前方奥に開けた場所が目に入る。
開けた――のではなく、燃えて拓けたのだと二人が気づくまで、そう時間はかからなかった。
木々が燃え、それを雨が消して煙と蒸気で視界がぼやけている。
じっとりと流れる暖気は、熱気と言っても良いくらいに纏わりつき、
リコは息を詰まらせながら足元の冷気を振り払った。
雨が徐々に首筋を伝う冷たい汗と一面の煙を洗い流して、その姿を浮かび上がらせる。
「……――!」
思わず声が出そうになったリコは、必死に手で口を押さえて呑み込み見開いた眼を細めた。
息をするのも忘れて眼前に蠢く大きな影を、少しでも確認しようと首を前へ前へと伸ばす。
大型でゴツゴツした獣が、尖った口の先端から赤く長い舌を出したり引っ込めたりしている。
長い首を前に倒して藪を突いているのか、何かを食べているのか、遠目には確認が出来ないが、
燃える木々に照らされて、左右に振る頭から時折異形が覗かせる。
「カイル……あれ……何?」
「解……ら、ない。見……た事、が、ない」
会話とは言えない声量で相棒同士意見を交わすが、《暗き森》にも生息しない生物のようだ。
リコは『よく観て察するように』という父の教えを思い出して、見ることに集中する。
体長は、カイルの倍はあるだろうか。背伸びをしたらどうなるかわからないくらい大きい。
人と同じように二本の足で立ち、両腕の先は槍の先のように尖って鋭利になっているようだ。
そして手先から腕、背中にかけて垂れさがる薄い幕――蝙蝠の羽のようなものが見て取れる。
飛ぶ為のものか、ただの飾りか、現時点のリコの知識や経験では判断出来なかった。
「ここ、から、射、れる、か?」
「当てるだけなら出来ると思うよ? 頭とか心臓……って、どこにあるか分かんないけど、
そーゆうの狙うのは難しい……かな」
「解っ、た」
観察の合間に割り込んできたカイルの問いかけに対して、リコは今の段階での判断を返し、
カイルは対象物を凝視したまま、即座に距離を詰め始める、と同時に更に声を落とした。
「ど、こ……でも、良い。狙え……る、か?」
「うん……大きいから、多分平気」
「当たった、ら、行く。距離、をと……って、思い……きり、撃……て」
こくこくと無言で二度頷いたリコは背中の矢筒から矢を取り、番え、ゆっくり半ばまで引く。
一度見やってカイルが数歩にじりよったのを確認してから、キリキリと右手に力を籠める。
靴底が砂利を擦る音を、夕立が洗い流し弾ける火花が周囲に散らす。
枝が当たらないようにと、弓を大きく右に倒しながら狙いを定める。
湧き上がる高揚を抑え、静かに息を吐きながら、手の甲を頬に添える。
普段以上に引き手に集中し、狙いを犠牲に、威力を意識し――引き絞る。
肩甲骨を軋むほどに近づけ、腕力と集中と精神を凝縮させ――気を籠める。
獣が不意に首をあげ、羽を大きく広げ、触発されるように――手を解き放つ。
――パンッッ という弦音、獣が反応して飛び立とうとするのとほぼ同時に、
滑空する矢はクンッ と左上から右下へ僅かに弧を描いて
右翼のほぼ中央に、突き刺さった。
今――とリコが視線を移した時、既にカイルは信じられない速さで一直線に飛び出していた。
数歩で目標との距離を半分に詰め、左前右後に構えた長い武器を、照準に捉える――
よりも先に、翼獣が深呼吸をするように頭を後ろに反り、真っ赤で長い舌を吐き――
「カイル! あぶない!! 前!!」
ボッと爆ぜる音がしたかと思うと、
カイルは大きな体躯を獲物を狙う野犬のように地に伏せ、頭を狙って放たれた長く赤い舌――
では無い、巨大な炎の帯――を頭上にやり過ごす。
真っ赤な炎の大剣が刺突のようにカイルが立っていた空間を焼き払い、
雨を一瞬で蒸発させ、薄く靄がかかる瞬きの刹那――
それでいてリコには長く感じられる程に流れるような動きで、
カイルは槍を自分の腰の後ろへ引き寄せ――時と力を混ぜ合わせて一点に集めるように――
いち――にい――さん――
リコの狩人の目でも追うのが困難なほど、物凄い速さで三度――左腹部を突き立てた。
pgyaaaaaaaaaaaaaaaaaaau
耳を刺す高音で鳴いた獣は大きく後ろによろめき、踏み止まって巨体をこちらに向き直す。
再度矢を構えながら、先の展開を考えるよりも早く、リコはカイルの後ろに飛び出した。
羽を広げてジタバタとうごめく翼獣は、態勢を保てずにふらつき倒れまいと踏ん張って猛る。
リコの放った矢が羽を貫通して横腹に突き刺さっており、飛翔の妨げになっているようだ。
カイルの一撃……三撃は、深々と下腹部を割いたようで、止めどなく赤黒い血が流れている。
そのカイルは射手が飛び出してきたことに、気づいていないのか、気に留めていないのか、
先ほどの炎の届く距離の外に離れて、動きを見計っている。リコは声をかけようとして止め、
出方に合わせて援護するよう意識したが、目の前の異形を正面に捉えて様々な思いが妨げた。
あの炎に焼かれたら……熱いんだろうか……
爪に引き裂かれたら……痛いのだろうか……
様々な考えが嫌でも頭をよぎり、リコの左腕を伝わり矢先を震わせて小刻みに鳴らす。
ボッボッと、次の炎を捻り出そうとしているのか、傷の影響で漏れているのか意図せずか、
互いに様子見をしているかのように、荒い吐息と深い深呼吸の音だけが周囲に静かに響いた。
考える暇も迷う時間もなく目の前の獣は大きく吼え、右の翼を自らの身体に強く叩き付け――
バキッという鈍い音が、矢をへし折ったそれと気づくのとほぼ同時に火獣はより大きく、高く首を上げ――
息を深く深く、もっと深く、周囲から熱気を掻き集めるように吸い込み始める。
藪の中から狙いを定めていた時の倍、三倍はあるかのようにみえる体の長さに圧倒されて、
矢を番えるか、後ろに下がるかの判断が出来ず、リコの両足は縫い付けられたように麻痺する。
「来る、ぞ」
カイルが声色も変えずに背後のリコを一瞥するが、リコは地面に根を下ろした大木のように動かない――
自分の二本の足を見開いて、矢を番えたままの姿勢で硬直していた。
恐らく生まれて初めて感じているであろう『恐怖』という異常状態は、
リコの思考と行動を停止させるのに十分すぎる効果を発揮していた。
身体よりもまず心が――耐えられなかった。
リコは動かない両足よりも、咆哮する獣よりも、強く騒ぐ心臓の音から意識を離せない――
そして一面の視界が、ゆっくりと、拡大するように、一色に、全てが……染まる――
時に緩やかに、
時に目にも負えない速さで、
周りの動きを、正しく、認識できす……
全てが、遅く、それでいて速く、
そして、確かな、死が……目の前に――迫るのを感じた時――
眼前――
鼻先――
口元――
意識――
目の前に広がる小さな世界は、轟音と共に――紅蓮に染まった。
埋め尽くす《赤》は、流れる全ての血が噴き出したかのように――小さな狩人の脳を支配した。
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