手放したのは、貴方の方です

空月そらら

文字の大きさ
21 / 60

第21話:芽生える想い

しおりを挟む
数週間に及んだ領地視察の旅から戻って数日。首都ヴァルテンシュタットは、すっかり初夏の装いを見せていた。公爵邸の庭園では、色とりどりの花々が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。あの旅は、まるで夢の中の出来事だったかのように、私の心に鮮やかな記憶を残していた。そして、その記憶の中心には、いつもライオネル公爵の姿があった。

(公爵様……)

執務室で公爵と向き合い、様々な案件について議論を交わす日常は変わらない。けれど、私の心の中には、以前とは明らかに違う感情が芽生え始めていた。それは、尊敬や信頼という言葉だけでは表しきれない、もっと温かくて、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、そんな想い。

領地視察で見た彼の姿が、私の脳裏に焼き付いて離れないのだ。民の声に真摯に耳を傾ける真剣な眼差し。時には厳しく、しかしその根底には常に深い慈愛を感じさせる言葉。そして何よりも、このガルディアという国を、そこに住む人々を、心から愛し、より良い未来へと導こうとする燃えるような情熱。

エスタードのレオンハルト殿下は、常に自分のことばかりだった。自分の名誉、自分の権力、自分の享楽。民のことなど、所詮は自分の地位を盤石にするための駒程度にしか考えていなかったように思う。それに比べて、ライオネル公爵は……。

(この方は、本物の為政者なのだわ……)

彼の公正さ、その厳しさの中に隠された優しさ、そして国へのひたむきな想い。それらを知るにつれて、私の胸の中で、彼に対する感情は、憧れから、もっと個人的な、強い引力へと変わっていった。それは、おそらく……恋、というものなのだろう。

婚約破棄された私が、再び誰かに恋心を抱くなんて、思ってもみなかった。ましてや、相手があの冷徹と噂されるライオネル公爵だなんて。けれど、この感情は、もう自分ではどうすることもできないほど、大きく育ってしまっている。

ある日の午後、公爵と二人で、隣国との間で懸案となっている交易協定の改定案について話し合っていた時のこと。議論が一段落し、ふと窓の外に目をやると、美しい夕焼けが空を染めていた。

「……綺麗ですわね」

思わず呟くと、公爵もペンを置き、窓の外へと視線を向けた。

「ああ……そうだな」

その横顔は、夕陽に照らされて、いつもよりも少しだけ柔らかく見える。私は、その姿から目が離せなくなってしまった。

「公爵様は……時々、何か大きなものと戦っていらっしゃるように見えます」

口をついて出たのは、自分でも意外な言葉だった。公爵は、少し驚いたように私に視線を戻した。

「……大きなもの、か」

「はい。それは、この国の未来であったり、あるいは……公爵様ご自身の、何か……」

彼は、しばらくの間、黙って私を見つめていた。その黒い瞳の奥に、深い孤独の色が揺らめいたような気がして、私の胸が小さく痛んだ。

「……君には、そう見えるのか」

やがて、彼は静かにそう言った。肯定も否定もしない、その言葉の裏に、彼が抱えるものの重さを感じずにはいられなかった。

「もし……もし私に何かできることがございましたら、どんなことでもお申し付けください。公爵様のお力に、少しでもなりたいのです」

それは、私の偽らざる本心だった。この人の隣で、この人の支えになりたい。そう強く願う自分がいた。

私の言葉を聞くと、公爵はほんのわずかに目を見開き、そして……初めて見るような、とても優しい、穏やかな表情を浮かべた。

「……ありがとう、アリアナ。君のその言葉だけで、私は十分に救われている」

その微笑みは、私の心を一瞬で捕らえて離さなかった。ああ、私は、この人のこんな顔をもっと見たい。この人の心の重荷を、少しでも軽くしてあげたい。

芽生えた想いは、もう止められそうになかった。この冷たくも美しい公爵の隣で、私は自分の運命を、そして彼との未来を、真剣に考え始めていた。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

お飾りの婚約者で結構です! 殿下のことは興味ありませんので、お構いなく!

にのまえ
恋愛
 すでに寵愛する人がいる、殿下の婚約候補決めの舞踏会を開くと、王家の勅命がドーリング公爵家に届くも、姉のミミリアは嫌がった。  公爵家から一人娘という言葉に、舞踏会に参加することになった、ドーリング公爵家の次女・ミーシャ。  家族の中で“役立たず”と蔑まれ、姉の身代わりとして差し出された彼女の唯一の望みは――「舞踏会で、美味しい料理を食べること」。  だが、そんな慎ましい願いとは裏腹に、  舞踏会の夜、思いもよらぬ出来事が起こりミーシャは前世、読んでいた小説の世界だと気付く。

報われなくても平気ですので、私のことは秘密にしていただけますか?

小桜
恋愛
レフィナード城の片隅で治癒師として働く男爵令嬢のペルラ・アマーブレは、騎士隊長のルイス・クラベルへ密かに思いを寄せていた。 しかし、ルイスは命の恩人である美しい女性に心惹かれ、恋人同士となってしまう。 突然の失恋に、落ち込むペルラ。 そんなある日、謎の騎士アルビレオ・ロメロがペルラの前に現れた。 「俺は、放っておけないから来たのです」 初対面であるはずのアルビレオだが、なぜか彼はペルラこそがルイスの恩人だと確信していて―― ペルラには報われてほしいと願う一途なアルビレオと、絶対に真実は隠し通したいペルラの物語です。

【完結】真の聖女だった私は死にました。あなたたちのせいですよ?

恋愛
聖女として国のために尽くしてきたフローラ。 しかしその力を妬むカリアによって聖女の座を奪われ、顔に傷をつけられたあげく、さらには聖女を騙った罪で追放、彼女を称えていたはずの王太子からは婚約破棄を突きつけられてしまう。 追放が正式に決まった日、絶望した彼女はふたりの目の前で死ぬことを選んだ。 フローラの亡骸は水葬されるが、奇跡的に一命を取り留めていた彼女は船に乗っていた他国の騎士団長に拾われる。 ラピスと名乗った青年はフローラを気に入って自分の屋敷に居候させる。 記憶喪失と顔の傷を抱えながらも前向きに生きるフローラを周りは愛し、やがてその愛情に応えるように彼女のほんとうの力が目覚めて……。 一方、真の聖女がいなくなった国は滅びへと向かっていた── ※小説家になろうにも投稿しています いいねやエール嬉しいです!ありがとうございます!

最愛の人に裏切られ死んだ私ですが、人生をやり直します〜今度は【真実の愛】を探し、元婚約者の後悔を笑って見届ける〜

腐ったバナナ
恋愛
愛する婚約者アラン王子に裏切られ、非業の死を遂げた公爵令嬢エステル。 「二度と誰も愛さない」と誓った瞬間、【死に戻り】を果たし、愛の感情を失った冷徹な復讐者として覚醒する。 エステルの標的は、自分を裏切った元婚約者と仲間たち。彼女は未来の知識を武器に、王国の影の支配者ノア宰相と接触。「私の知性を利用し、絶対的な庇護を」と、大胆な契約結婚を持ちかける。

虐げられてきた妾の子は、生真面目な侯爵に溺愛されています。~嫁いだ先の訳あり侯爵は、実は王家の血を引いていました~

木山楽斗
恋愛
小さな村で母親とともに暮らしていアリシアは、突如ランベルト侯爵家に連れて行かれることになった。彼女は、ランベルト侯爵の隠し子だったのである。 侯爵に連れて行かれてからのアリシアの生活は、幸福なものではなかった ランベルト侯爵家のほとんどはアリシアのことを決して歓迎しておらず、彼女に対してひどい扱いをしていたのである。 一緒に連れて行かれた母親からも引き離されたアリシアは、苦しい日々を送っていた。 そしてある時彼女は、母親が亡くなったことを聞く。それによって、アリシアは深く傷ついていた。 そんな彼女は、若くしてアルバーン侯爵を襲名したルバイトの元に嫁ぐことになった。 ルバイトは訳アリの侯爵であり、ランベルト侯爵は彼の権力を取り込むことを狙い、アリシアを嫁がせたのである。 ルバイト自身は人格者であり、彼はアリシアの扱われた方に怒りを覚えてくれた。 そのこともあって、アリシアは久方振りに穏やかな生活を送れるようになったのだった。 そしてある時アリシアは、ルバイト自身も知らなかった彼の出自について知ることになった。 実は彼は、王家の血を引いていたのである。 それによって、ランベルト侯爵家の人々は苦しむことになった。 アリシアへの今までの行いが、国王の耳まで行き届き、彼の逆鱗に触れることになったのである。

地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに

有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。 選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。 地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。 失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。 「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」 彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。 そして、私は彼の正妃として王都へ……

義母の企みで王子との婚約は破棄され、辺境の老貴族と結婚せよと追放されたけど、結婚したのは孫息子だし、思いっきり歌も歌えて言うことありません!

もーりんもも
恋愛
義妹の聖女の証を奪って聖女になり代わろうとした罪で、辺境の地を治める老貴族と結婚しろと王に命じられ、王都から追放されてしまったアデリーン。 ところが、結婚相手の領主アドルフ・ジャンポール侯爵は、結婚式当日に老衰で死んでしまった。 王様の命令は、「ジャンポール家の当主と結婚せよ」ということで、急遽ジャンポール家の当主となった孫息子ユリウスと結婚することに。 ユリウスの結婚の誓いの言葉は「ふん。ゲス女め」。 それでもアデリーンにとっては、緑豊かなジャンポール領は楽園だった。 誰にも遠慮することなく、美しい森の中で、大好きな歌を思いっきり歌えるから! アデリーンの歌には不思議な力があった。その歌声は万物を癒し、ユリウスの心までをも溶かしていく……。

将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです

きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」 5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。 その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

処理中です...