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子飼い
直訴
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その夜、安治は言いつけどおり、藤吉郎の本陣を訪ねた。控えの間で待っていると、程なくして藤吉郎がやってきた。
「甚内、お主いかにして先回りした?」
藤吉郎は、安治を咎めることなく、安治の力量を試すように切り出した。
「畏れながら、殿の船に潜んでおりました。」
「船に隠れておったと!?」
「御意にござりまする。殿が湖水を渡って摂津に向かわれると、小耳にはさみ申した。陸路で向かわれては、追いつく術もございませぬが、船であれば乗ってしまえばこちらのものでございます。荷駄の陰に菰を被って隠れた故、船奉行様もお気づきにはならなかったようでございます。」
「甚内、お主、船に馴染みがあるのか!?」
「憚りながら、近江の者にとって、湖水は陸と変わりませぬ。風を掴めば、これほど早いものもありますまい。」
それを聞いた藤吉郎は、深く頷いた。安治は、藤吉郎の気色を窺ってみたが、怒りを堪えているような素振りは全く感じられなかった。
「明朝、横山城への早船を出す。お主は、それに乗って横山城に帰るがよい。」
「畏れ多きお言葉でございます。拙者は、軍令を無視した者でございます。お咎めを受けなかったばかりか、かようなご厚情に甘んじていては、他の者に示しがつきませぬ。このまま出立し、徒歩で横山城に戻りまする。それが、せめてもの罪滅ぼしと心得る次第でございませぬ。」
「ならぬ!大事な配下が夜盗にでも襲われたとあっては、それこそ、他の者に示しがつかぬ。よいか、必ず船で帰るのじゃぞ。」
藤吉郎は、そう言い残して足早に去っていった。とりあえず、最初の賭けには勝った。安治は、安堵した。咎められることもなく、また見張りとともに横山城に戻ることにもならなかった。藤吉郎からは、“船で帰れ”と言われただけである。
ここはもう一勝負してみるか。安治は、藤吉郎の本陣を抜け出し、三条大橋を目指した。ここから三条大橋まで、二里半ほどだ。今から向かえば、夜明け前には着くだろう。安治は足早に歩きだした。
三条大橋に着いても、辺りは漆黒の闇の中であった。このまま橋の上で夜を明かしても構わないが、往来の真ん中にただ居るというのも体裁が悪い。そこで、安治は橋のたもとで、暫しの休息をとることとした。
空が白み始めてきた。安治は、往来の邪魔にならぬよう、欄干に身を寄せ、藤吉郎の到着を平伏して待った。程なくして、馬のいななきが遠くから聞こえてきた。
「甚内、帰れと申したはずじゃ。一度ならず、二度までも軍令に背くとは、一体、いかなるいかなる所存じゃ!」
藤吉郎は、馬上からその小柄な体に似合わない大音声で安治を叱責した。腹の底まで響く声に安治は驚いていた。これが若くして一軍を預かる方の器量というものか。ならば、ここで臆するわけにはいかぬ。ここまで来た以上、殿に賭けるほかない。安治は、頭を上げ、藤吉郎を見上げた。
「畏れながら申し上げます。確かに、殿から“船で”帰るよう、お言葉頂戴いたしました。さりながら、拙者のような若輩者、殿のお船で一人悠々と帰るなど、畏れ多いことでございます。ましてや、そんな拙者を見た同輩は、どう思うことでございましょう。甚内の腰抜けと思われるのが関の山でございます。一寸の虫にも五分の魂でございます。大殿の危急を救わんとするこの事態に、指くわえてみているわけにはまいりませぬ。いかなる使い走りでも構いませぬ。どうぞ、この甚内めにご下命賜りますよう、切にお願い申し上げ奉ります!」
安治は、一気にまくしたて、改めて平伏した。
「だれぞ、この者にわしの替え馬を与えよ。」
藤吉郎は、思いがけないことをいった。
「甚内。お主の軍令破りは、本来ならば許されないものじゃ。じゃがそれもお主の忠節の高さの賜物であろう。この藤吉郎、そのような心意気、買わぬわけにはいかぬ。松本からここまで駆けてきたとあっては、ろくに休んでもおらぬのであろう。道中は、この馬上で休むがよい。追って沙汰する。」
「恐悦至極に存じ上げ奉ます!」
安治の仕掛けは、まんまとはまった。もちろん、安治に勝算が無かったわけではない。昨夜、藤吉郎は、“必ず船で帰れ”と言った。横山城に戻るだけなら、徒歩で帰っても何ら不都合はない。むしろ、わざわざ船で帰る方が不自然だ。藤吉郎は、“鎌をかけた”のだ。安治の忠義が本物か見極めようとしたのであろう。安治の機微を読む力も試そうとしたのかも知れない。これまでも藤吉郎は、何くれとなく安治に目をかけてくれていたが、今日に限っては、藤吉郎の主だった配下が居並ぶ前で安治は持ち上げられたのだ。周囲の安治を見る目も間違いなく変わるはずだ。もっとも、これはこれで安治が超えるべき壁は高くなったともいえる。藤吉郎が、周囲に分かる形で安治を“買った”以上、安治としても相応の働きをせねば面目が立たない。下手をすると、藤吉郎の顔に泥を塗ることになる。頭ではわかっていたつもりでも、藤吉郎の馬に跨ってみると、改めて藤吉郎からその覚悟を問われているように感じた。手綱を握る安治の手に、自然力がこもった。
「甚内、お主いかにして先回りした?」
藤吉郎は、安治を咎めることなく、安治の力量を試すように切り出した。
「畏れながら、殿の船に潜んでおりました。」
「船に隠れておったと!?」
「御意にござりまする。殿が湖水を渡って摂津に向かわれると、小耳にはさみ申した。陸路で向かわれては、追いつく術もございませぬが、船であれば乗ってしまえばこちらのものでございます。荷駄の陰に菰を被って隠れた故、船奉行様もお気づきにはならなかったようでございます。」
「甚内、お主、船に馴染みがあるのか!?」
「憚りながら、近江の者にとって、湖水は陸と変わりませぬ。風を掴めば、これほど早いものもありますまい。」
それを聞いた藤吉郎は、深く頷いた。安治は、藤吉郎の気色を窺ってみたが、怒りを堪えているような素振りは全く感じられなかった。
「明朝、横山城への早船を出す。お主は、それに乗って横山城に帰るがよい。」
「畏れ多きお言葉でございます。拙者は、軍令を無視した者でございます。お咎めを受けなかったばかりか、かようなご厚情に甘んじていては、他の者に示しがつきませぬ。このまま出立し、徒歩で横山城に戻りまする。それが、せめてもの罪滅ぼしと心得る次第でございませぬ。」
「ならぬ!大事な配下が夜盗にでも襲われたとあっては、それこそ、他の者に示しがつかぬ。よいか、必ず船で帰るのじゃぞ。」
藤吉郎は、そう言い残して足早に去っていった。とりあえず、最初の賭けには勝った。安治は、安堵した。咎められることもなく、また見張りとともに横山城に戻ることにもならなかった。藤吉郎からは、“船で帰れ”と言われただけである。
ここはもう一勝負してみるか。安治は、藤吉郎の本陣を抜け出し、三条大橋を目指した。ここから三条大橋まで、二里半ほどだ。今から向かえば、夜明け前には着くだろう。安治は足早に歩きだした。
三条大橋に着いても、辺りは漆黒の闇の中であった。このまま橋の上で夜を明かしても構わないが、往来の真ん中にただ居るというのも体裁が悪い。そこで、安治は橋のたもとで、暫しの休息をとることとした。
空が白み始めてきた。安治は、往来の邪魔にならぬよう、欄干に身を寄せ、藤吉郎の到着を平伏して待った。程なくして、馬のいななきが遠くから聞こえてきた。
「甚内、帰れと申したはずじゃ。一度ならず、二度までも軍令に背くとは、一体、いかなるいかなる所存じゃ!」
藤吉郎は、馬上からその小柄な体に似合わない大音声で安治を叱責した。腹の底まで響く声に安治は驚いていた。これが若くして一軍を預かる方の器量というものか。ならば、ここで臆するわけにはいかぬ。ここまで来た以上、殿に賭けるほかない。安治は、頭を上げ、藤吉郎を見上げた。
「畏れながら申し上げます。確かに、殿から“船で”帰るよう、お言葉頂戴いたしました。さりながら、拙者のような若輩者、殿のお船で一人悠々と帰るなど、畏れ多いことでございます。ましてや、そんな拙者を見た同輩は、どう思うことでございましょう。甚内の腰抜けと思われるのが関の山でございます。一寸の虫にも五分の魂でございます。大殿の危急を救わんとするこの事態に、指くわえてみているわけにはまいりませぬ。いかなる使い走りでも構いませぬ。どうぞ、この甚内めにご下命賜りますよう、切にお願い申し上げ奉ります!」
安治は、一気にまくしたて、改めて平伏した。
「だれぞ、この者にわしの替え馬を与えよ。」
藤吉郎は、思いがけないことをいった。
「甚内。お主の軍令破りは、本来ならば許されないものじゃ。じゃがそれもお主の忠節の高さの賜物であろう。この藤吉郎、そのような心意気、買わぬわけにはいかぬ。松本からここまで駆けてきたとあっては、ろくに休んでもおらぬのであろう。道中は、この馬上で休むがよい。追って沙汰する。」
「恐悦至極に存じ上げ奉ます!」
安治の仕掛けは、まんまとはまった。もちろん、安治に勝算が無かったわけではない。昨夜、藤吉郎は、“必ず船で帰れ”と言った。横山城に戻るだけなら、徒歩で帰っても何ら不都合はない。むしろ、わざわざ船で帰る方が不自然だ。藤吉郎は、“鎌をかけた”のだ。安治の忠義が本物か見極めようとしたのであろう。安治の機微を読む力も試そうとしたのかも知れない。これまでも藤吉郎は、何くれとなく安治に目をかけてくれていたが、今日に限っては、藤吉郎の主だった配下が居並ぶ前で安治は持ち上げられたのだ。周囲の安治を見る目も間違いなく変わるはずだ。もっとも、これはこれで安治が超えるべき壁は高くなったともいえる。藤吉郎が、周囲に分かる形で安治を“買った”以上、安治としても相応の働きをせねば面目が立たない。下手をすると、藤吉郎の顔に泥を塗ることになる。頭ではわかっていたつもりでも、藤吉郎の馬に跨ってみると、改めて藤吉郎からその覚悟を問われているように感じた。手綱を握る安治の手に、自然力がこもった。
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