偽りの婚約者だった公爵令嬢、婚約破棄されてから本物の溺愛をされるまで

nacat

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第15話 再び王都の噂

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春の到来を告げる風が王国の街路を駆け抜けていった。  
ヴァルシアとの戦線が沈静化したという報は、瞬く間に王都の社交界を騒がせた。  
「黒い鎧の将軍が敵国を押し留めたらしい」「それに、王太子の元婚約者、あのリリアーナ・セリウスが外交官として同道しているそうよ」  
「まあ、何て皮肉なのかしら。かつて婚約破棄された令嬢が今や祖国の顔よ」  
広場の噂は、春の鳥よりも速く飛び交っていた。  

その中心にいる当人は、未だ遠いヴァルシアの要塞にいた。  
リリアーナは書簡を手にしていた。  
王妃エリザベートから届いた文には、緊急の帰還命令が記されていた。  
“王太子が再びヴァルシアとの会談を望んでいる。あなたにも出席してほしい”  
その一行を読み、指先に力が入る。  

昼下がりの訓練場で、彼女はライナーにその旨を伝えた。  
「王太子……」  
ライナーの声は冷ややかだった。  
「あの男、まだ口を出すつもりか。己の過ちを外交のせいにするとは」  
「恐らく王妃陛下のご意向です。再会談を開くことで、両国の不安を払拭するおつもりでしょう」  
リリアーナの声は落ち着いていたが、その胸奥には言い知れぬ記憶の棘が刺さる。  
再び彼の前に立つこと。  
決別した相手、もう終わったはずの過去。だがそれが完全に消えることはない。  

ライナーはしばし彼女を見つめた後、静かに言った。  
「行け。だが、あの城では一瞬も油断するな」  
「はい。あなたの言葉、胸に刻みます」  
「……お前が戻らない間、ここを離れるなという命令が俺に出されても、たぶん守らん」  
その言葉に、リリアーナは思わず笑ってしまった。  
「それは命令違反ですよ、将軍」  
「違反くらい慣れた」  
軽く交わされた言葉。だがその微笑の奥には、別れを惜しむような痛みが潜んでいた。  

*  

王都についた日、リリアーナは白いドレスに身を包み、久しく立ち入っていなかった王宮の廊下を歩いた。  
壁には春花を描いた織物が飾られ、遠くの窓からは夕陽が差し込んでいる。  
懐かしさに胸を締めつけられるが、それを顔に出すわけにはいかない。ここでは、一つの表情がすべてを狂わせる。  

広間の扉を開くと、眩い光の中に王妃エリザベートが立っていた。  
「よく戻ったわね、リリアーナ。息災で何より」  
「陛下。ご期待に沿うことができたなら本望でございます」  
「噂は届いているわ。ヴァルシアでは、あなたが将軍と共に討伐を指揮したとか」  
「……少々誇張されているようです。私はただ書簡を運んでいただけです」  

王妃がかすかに口角を上げる。  
「そう、そういう言い方を選べるのは賢い証拠ね。あなたの報告は王城に届くたびに議会をざわつかせたわ。けれど、今日あなたを呼んだのはそれだけではないの」  

「陛下……?」  

「王太子殿下が、あなたに会いたいと申し出たの。本人の正式な要請よ」  

空気が凍った。  
長い間凍結していた時間が、唐突に息を吹き返す。  
リリアーナは一瞬、動きを止めたが、すぐに顔を整えた。  
「承知しました。……私に拒む権利はありませんね」  

王妃の瞳には、複雑な哀しみが見える。  
「無理をしないで。あなたはもう被害者ではないのだから」  

*  

アルベルト王太子は謁見の間で待っていた。  
リリアーナが入ると、彼は微笑もうとしたが、その表情はどこかぎこちない。  
「久しいな、リリアーナ」  
「はい、殿下。お元気そうで」  

互いに形式的な挨拶を交わす。  
だが、王太子の視線は彼女の姿を追い続けて離れない。  
「ヴァルシアでの功績、聞いている。……あの将軍と共に行動していたと」  
「はい。ライナー・クレメンス将軍には多くを学ばせていただきました」  

王太子の口元に一瞬、陰がさす。  
「“将軍”か……。あの男は冷徹だと噂されているが、君にだけは随分と心を開いているようだ」  

「人を信じるために必要なのは、噂ではなく、言葉です」  

その言葉に、アルベルトの肩がわずかに強張る。  
かつて、信じるどころか疑い続けて壊した関係。  
彼は唇を噛みしめながら口を開く。  

「……一つ、謝らせてほしい。あの時、君を“代役”と呼んだ。あれは私の愚かさだった」  
「今さら、謝罪を受け入れる理由が私にあるでしょうか」  

鋭いが、怒りではなく静かな声だった。  
王太子は俯き、深く息をつく。  
「ない……だろうな。それでも、許されたいと願ってしまう。失ったものがあまりに大きかったから」  

リリアーナはその姿に不思議な静けさを感じた。  
昔知っていた輝きはもうない。今の彼は、ただ一人の人間として弱さを晒していた。  
それでも彼女はもう、同情も憐憫も抱かない。  

「殿下、私にとって過去は重荷ではありません。ただ、戻ることのできないものです」  
「……そうか」  

会話が途切れた。  
沈黙の中、アルベルトが近づく。  
「次の条約調印の席で、君を公の立場に戻すつもりだ。外交官の名ではなく、王国代表として」  

「それは陛下のご命令ですか?」  

「私の願いだ」  

ほんの一瞬、彼女の表情に動揺が走る。  
だがすぐに、まっすぐ彼を見返した。  
「私の立場は、王妃陛下とヴァルシア両国の信義にあります。どの王でもなく、“真実”のために立たせていただきます」  
「……やはり、君は強い」  

かつての婚約者の微笑みを見ても、心は揺れなかった。  
その強さが、彼女を今の場所へ導いたのだと知っていた。  

*  

夜、王宮の塔に灯がともる。  
リリアーナは王妃の私室で再び書簡をしたためていた。  
窓辺の外には春の月が浮かび、柔らかく地面を照らしている。  

「陛下、あの方は変わっておいででした」  
「アルベルトが?」  
「ええ。後悔という名の鎖をまだ引きずっているようでした」  

王妃は深く頷いた。  
「王冠を継ぐ者にとって、悔いは毒のようなもの。彼がそれを手放せないうちは、まだ王にはなれないでしょう」  

「陛下は、私に何をお望みですか?」  

「あなたには最後まで真実を見届けてほしいの。……そして、ヴァルシアの将軍が何を選ぶかも」  

リリアーナの手が止まる。  
「ライナーが?」  

「彼ほど誠実な人間は珍しい。でも、誠実さは時に、愛よりも人を傷つけるものよ」  

その言葉の意味を理解できず、ただ静かに頭を下げた。  
部屋を出ようとしたところで、王妃が微笑む。  
「リリアーナ。かつてのあなたの瞳は悲しみに染まっていた。けれど今のあなたは――人を愛する光に照らされているわ」  

「……」  
リリアーナはそのまま頷くだけだった。  
廊下に出ると、灯が並び、春の香りが漂っていた。  
その香りの中で、浮かんだのは一人の姿――黒い鎧の将軍の笑顔。  

心の奥で、何かが静かに鳴る。  
それは恐れではなく、知らぬうちに芽生えた想いの音だった。  

続く
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