偽りの婚約者だった公爵令嬢、婚約破棄されてから本物の溺愛をされるまで

nacat

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第16話 交錯する策略

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春の空はどこか落ち着かず、風が吹くたびに城壁に吊された旗がざわめいた。  
王都での再会談が近づき、王宮の中は異様な緊張に包まれている。  
廊下を行き交う貴族や兵の表情には笑顔がなく、誰もが自分の思惑を胸の奥に隠しているようだった。  

リリアーナはその喧騒の真ん中で、ひとつの報告書を握っていた。  
王妃陛下の許可を得て、ヴァルシアから送られてきた外交草案――その末尾に、見慣れぬ印が刻まれていた。  
第二王家の紋章。  
それは、かつて滅ぼされた旧王弟派を示す封印だった。  

「やはり繋がっていたのですね……」  
唇が震える。  
あの夜、ライナーが語った母の家紋。そしてこの印。  
偶然だとはもう思えない。  
王太子の背後、もしくはその周囲に、亡国の血を継ぐ者が潜んでいる。  

そこに扉を叩く音。  
「失礼いたします、リリアーナ殿」  
現れたのは王妃付きの侍従であった。  
「陛下より特命です。……夜、密かにお渡しするものがございます」  
「今では駄目なのですか?」  
「陛下が“耳を持たぬ時に届けろ”とだけ」  

リリアーナは頷いた。王妃の意図を察していた。  
この城にも、王妃の言葉を探る眼と耳がいくつも潜んでいるのだ。  

*  

日の沈むころ、王宮の裏庭は静寂に包まれていた。  
春とはいえ、夜気は花弁をすり抜けるたびに冷たい。  
リリアーナは飾り窓の陰に入り、侍従から小さな封書を受け取った。  

開いて中を読むと、息が詰まる。  
“敵はすでに城内にいる。  
 会談を利用した襲撃計画あり。  
 王太子の側近を調べよ。必要ならばクレメンス将軍と連携を”  

手紙を握る指に力がこもった。  
敵は外ではなく、内で息をしている。  
しかも会談という外交の最中を狙う。  

その時。  
「――探しましたよ、リリアーナ嬢」  
不意に背後から声。  
振り返ると、金の髪を肩まで垂らした男が立っていた。  
若き侍従長、マリク。王太子の右腕と呼ばれる冷静な文官だ。  

「夜更けにどうなされたのです?」  
「ただの散歩です。少し、空気が重くて」  
「王太子殿下もあなたを探しておいでです。明朝の会談の進行担当が変更されたとのこと。あなたに直接説明したいとか」  

――奇妙だ。  
本来、そのようなやり取りは侍従を通して伝えるのが常だ。  
それを“直接”会いたいというのは、何か企んでいる証拠。  

「承知しました。では、明朝に参ります」  
にこやかに答え、背を向ける。だが、背後に潜む視線が夜の奥に消えるまで油断せず歩いた。  

*  

その数刻後。  
リリアーナは王城の塔にある客室で、懐かしい文鳥の羽根飾りを見つめていた。  
それはライナーが出立前に残した印――“危険を感じたらこれを窓辺に置け”という約束の証だった。  
彼はもうこの国境の近くに来ているはず。  
今夜にも動くかもしれない。  

けれど、彼に知らせる時間はない。  
彼女は考え抜いた末、王妃への返書を短く書いた。  

“陛下、了解いたしました。  
 明朝の会談を阻む陰謀があるなら、私がそれを止めます。  
 誰も傷つけぬ方法で。必ず”  

封をして机に置く。  
静かな部屋の中、月光だけが彼女を見守っていた。  

*  

翌朝。  
大広間は花々で飾られ、春の楽師が奏でる音に包まれていた。  
壇上には王と王妃、王太子アルベルト、そして両国の代表者が整列している。  
場の中央に立つリリアーナは、慎重に言葉を選びながら式の進行を読み上げていた。  
全てが穏やかに進むと思われた矢先――。  

「陛下!」  
叫び声と共に、天井桟敷の影から一筋の閃光が走った。  
剣より早いその光は、王の背後を狙って一直線に飛ぶ。  
リリアーナは咄嗟に手を伸ばした。  
机上の短剣を掴み、床を蹴る。  

音が弾ける。  
白い裾が宙に舞い、短剣が飛来する弾頭を弾いた。  
爆音と共に火花が散り、近衛兵が慌ただしく駆け出す。  
煙の中から現れたのは、一人の黒衣の男。  
その腕には、旧王弟派の刺青が鮮明に刻まれていた。  

「裏切り者か!」  
兵が叫ぶ。  
だが混乱の中、リリアーナの目は一人の人物に向けられていた。  
壇上の脇に立つマリク侍従長――その口元が歪んでいる。  
「……まさか、あなたが」  

「お嬢様こそ、“鍵”を持つ者。旧王家の血が目を覚ましすぎた」  
冷ややかな瞳が笑う。  
「我らは、正統の王を取り戻すために動いた。貴女の存在がそれを証明してしまったのだ」  

返す言葉より早く、彼は懐から短剣を抜き、王太子へ突き出した。  
空気が裂け、悲鳴が響く。  

その瞬間――。  
扉が勢いよく開かれ、黒い外套の影が飛び込んできた。  
「遅れて悪い!」  

鋼の剣が閃光のように走る。  
マリクの刃は空を切り、次の瞬間にはライナーの拳が男の顎を撃ち抜いていた。  
床に弾き飛ばされたマリクが呻く間に、ライナーは王太子の前に立ちはだかる。  

「ヴァルシア軍人がなぜここに!」  
近衛兵が叫ぶが、王妃が手を上げて制した。  
「彼を疑うな。――私が呼んだのです」  

リリアーナは震える息を吐いた。  
「……来てくださったんですね」  
「陛下経由で報せを受けた。だが予定より早く動きやがった」  
ライナーは剣を向けたまま、冷静にマリクへ歩み寄る。  

「旧王弟派の残りか。随分としぶとい」  
「貴様らは……国を穢した亡霊の犬だ」  
マリクが唾を吐く。だがすぐに兵に取り押さえられた。  

混乱がおさまり、やがて王が口を開いた。  
「王妃、そしてリリアーナ嬢。よくぞ守ってくれた」  
リリアーナは膝をつき、深く頭を下げた。  
「陛下の御身が無事で何よりにございます」  

しかし、その胸の内には緊張がまだ渦巻いていた。  
――これで終わりではない。  
背後では、さらに大きな力が糸を引いている。  

王妃が密かに囁く。  
「マリクを拘束できたのは大きい。けれど、彼一人で動いたとは思えない。明日、ヴァルシアの将が同席する夜会で真実を引き出します」  
リリアーナは頷いた。  
「私も確かめます。影を動かす“主”が誰なのか」  

王妃の青い瞳が静かに光る。  
「あなたと彼――二人の手で終わらせなさい。この争いを」  

*  

夕方。  
王都の宿舎で療養中のアルベルト王太子は、窓越しに暮れゆく空を見ていた。  
短剣の方向がわずかに逸れていなければ、自分は今ここにいなかっただろう。  

「リリアーナ……」  
彼の唇から、その名が零れる。  
もう届かぬ想いだと知りながらも、胸の奥で切なく燃え続けていた。  

遠く塔の上、リリアーナは一人書類を片付けていた。  
その窓辺に、翼をひるがえす黒い鷹が降り立つ。  
足に括られた巻簡を解くと、見慣れた筆跡が目に入った。  

“会談は終わったか。  
 王都の空気が腐っている。お前が息をしていられる間は、俺が必ず守る。――ライナー”  

小さく息を呑み、彼女は笑みを漏らした。  
王妃の書簡とは違う、荒削りな文字が逆に温かい。  

「大丈夫、将軍。私は負けません……この国も、この闇にも」  
彼女はそっと、彼の言葉を胸に押し当てた。  

闇の向こうで、また新たな策が動き出す。  
だがその中心には、もはや“代役の令嬢”ではなく、一人の女が立っていた。  

続く
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