偽りの婚約者だった公爵令嬢、婚約破棄されてから本物の溺愛をされるまで

nacat

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第20話 夜明けの舞踏会

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王都の空は、雨を孕んだ薄灰色に染まっていた。  
その曇天の下で、王宮中が慌ただしく動いている。  
“和平の宴”――王と王妃が主導し、ヴァルシアと王国双方の文官・貴族を招いて執り行われる式典。  
外交会談の終幕であり、国の運命を賭けた一夜。  
それがいま、始まろうとしていた。  

リリアーナは鏡の前に立ち、淡い藍色のドレスを整えていた。  
胸元には王妃陛下から贈られたリボンのブローチ。  
その中央には小さな薔薇の紋章――王妃の家系 “アーレンス公家” の印が刻まれている。  

「……きっと、陛下なりの約束なのね」  
彼女は小さく呟いた。  
王妃は最後まで彼女の背を押していた。  
「あなたの言葉が、二つの国の行方を決めるわ」と。  

扉の外では侍女アンナが待っていた。  
小柄な身体に真新しい制服を身に着け、少し不安そうな顔だ。  
「お嬢様、本当にご無事で……よかったです」  
「ええ、何とか。これからが本番ですけれどね」  

リリアーナは優しく笑い、手を伸ばして彼女の肩に触れた。  
「ありがとう、アンナ。あなたのおかげでここまで来られたわ。――心配しないで。私はもう、誰にも操られない」  

廊下を進む足音が響く。  
各国使節らしき人々がちらほらと見え、緊張した面持ちで会場へ向かっている。  
やがて、突き当たりの大扉の前で立ち止まった。  
そこに、黒衣の男が彼女を待っていた。  

「将軍……」  
「間に合ったな」  
ライナー・クレメンス。  
白い手袋を外し、彼女に視線を向ける。  
「陛下から命を受けてきた。今夜、お前は王家代表として壇上に立つ。俺は護衛と同時に監視役を任された」  

「監視、ですか?」  
「お互い信頼しているようでいて、あの方は念が入ってる」  
ライナーは苦笑しながら、懐から一輪の花を取り出した。  
それは、ヴァルシアの国花――薄紫のヒース。  
「これは?」  
「外交の場で剣を抜くのは不作法だ。代わりにこれを持て」  
「……剣ではなく、花を?」  
「お前の言葉が剣より鋭い。今日はそれで十分だ」  

言葉に詰まる。  
けれどその笑みに救われた。  

「ありがとう、将軍」  
「礼は和平が済んでからだ」  

扉が開く。光が漏れ、音楽が流れ出す。  
二人は並んで入場した。  

大広間は満天の星のような光で彩られ、天井の水晶が淡く輝いている。  
長いテーブルに王国とヴァルシアの紋章が整然と並び、各国代表が歓談していた。  
だが、和やかに見える空気の裏に潜む張り詰めた緊張。  
リリアーナは肌でそれを感じていた。  

壇上には、国王と王妃が座っている。  
その隣に立つ王太子アルベルトが、こちらに目をやった。  
真っすぐな視線。かつての彼とは違う穏やかさがあった。  

「よく来てくれたな、リリアーナ」  
「陛下よりお役目を賜りました」  
形式的に答え、深く一礼。  

アルベルトは一瞬だけ言葉を探すように口を開き、やがて微かに笑んだ。  
「君とこうして“国のため”に同じ場に立てるとは、不思議なものだ」  
「ええ。人生とは皮肉に満ちています」  

心の奥では過去の痛みがわずかに疼いたが、それを表に出さずに微笑む。  
自分はもう、あの頃の“代役”ではない。  
それを見せることで、今夜すべてを終わらせるのだ。  

国王が立ち上がり、開会の宣言を告げる。  
「王国とヴァルシアの友誼に栄光あれ」  
拍手が広がった。  
音楽が再開し、舞踏が始まる。  

だが、彼女の目は別の人影を追っていた。  
――アルベルトの背後に控える文官。  
奇妙な動きをしている。  
衣の内に何かを隠しているのが見えた瞬間、全身が警鐘を鳴らした。  

「将軍、あの者を!」  
リリアーナが低く告げる。  
ライナーは即座に剣の柄へ手を伸ばす。  
「動くな!」  
鋭い声が響いた。  

会場が静まり返る。  
黒衣の文官が前へ出て、壇上へと刃を向けた。  
「この茶番に終止符を打つ!」  

混乱の中、リリアーナが前へ踏み出す。  
「皆様、下がって!」  
彼女の声が会場に響き、兵士たちが慌てて配置につく。  
文官は逃れようともがいたが、その腕をライナーが鋭く打ち払った。  
転がった短剣の刃が床を擦る音がやけに大きく響いた。  

「愚か者……」  
ライナーが呟く。  
だが次の瞬間、文官が懐から小瓶を取り出した。  
液体が宙に飛び散る。  
――毒。  

「下がれ!」  
リリアーナを庇うように、ライナーが瞬時に前へ出た。  
その広い背に、透明の液がかかるのが見えた。  

彼の肩が震える。  
リリアーナは息を呑んだ。  

「将軍、今のは……!」  
「大丈夫だ」  
「そんなはずありません!」  
彼女が駆け寄ろうとすると、ライナーは片手で制した。  

「動くな。周囲に気を取られている隙に、第二の手が動く」  
言葉の通り、別の方向で兵士が押さえつけられる音がした。  
二人目の刺客。  
すぐさま捕えられ、場は混乱の中にも秩序を取り戻す。  

王妃が静かに立ち上がった。  
「これで明らかになりました。旧王弟派は完全に壊滅です。――リリアーナ」  

呼ばれた名に、彼女は顔を上げた。  
「はい、陛下」  

王妃は微笑み、堂々と会場を見渡した。  
「この娘こそ、我らを繋ぐ橋。王国もヴァルシアも、血ではなく信義によって結ばれるべきもの。それを彼女が教えてくれました」  

拍手が湧き起こる。  
人々が次々と立ち上がり、手を叩き始めた。  
その光景に、リリアーナの胸が熱くなる。  

だがその隣で、ライナーの呼吸が微かに乱れていることに気づいた。  
顔色が白く、額に汗が滲んでいた。  
「将軍……やはり毒が」  
「さほど強くない。表皮で止まる程度だ」  
「それでも!」  
彼女は震える声で言いながら、彼の腕を掴んだ。  
「自分より他人を先に思う癖、相変わらずです」  

ライナーはうっすらと笑う。  
「お前の声を聞くと、不思議と痛みが和らぐ」  
「今はそんな冗談を!」  
「冗談じゃない。本気だ」  

静かに二人の目が合う。  
同じ戦場を越えた者の目。  
言葉などいらなかった。そこには信頼と、まだ形にならない想いが満ちていた。  

「……無茶をしましたね、将軍」  
「お前に無茶を教えたのは俺だ」  
リリアーナは小さくため息をつき、そして笑った。  

宴はそのまま成功に終わり、刺客たちは捕えられた。  
ライナーは休息室へ運ばれて手当てを受けることになったが、傷は軽く済んだ。  

夜が終わりに近づくころ、リリアーナは彼のいる部屋を訪れた。  
扉を開けると、ランプの灯りがほのかに揺れている。  
ライナーはベッドに半身を起こして本をめくっていた。  

「立ち上がってはいけません」  
「ただの読み書きだ。死にかけた時ほど、静かに文字が恋しくなるもんだ」  
「縁起でもありません」  

リリアーナは椅子を引き、その横に座った。  
長い沈黙ののち、ライナーが口を開く。  
「お前の勇気が、今回の和平を繋いだ。王も、陛下も認めている」  
「ですが、全部が終わったわけではありません。これからが本当の再構築です」  

「それでも。お前がいなければ、あの日の“代役”のまま世界は変わらなかった」  

リリアーナは彼を見る。  
その目は、白い月の光のように穏やかで強かった。  

「……ありがとう、将軍」  
「礼を言うのはまだ早い。俺は今夜で任務を解かれる。ヴァルシアへ戻る」  
「そう……ですか」  

覚悟していたはずなのに、胸がきゅっと締め付けられる。  
沈黙の中で、彼がふいに笑った。  
「お前が泣くのは似合わん」  
「泣いていません」  
「なら、その目尻の光は何だ」  

返す言葉が見つからない。  
彼はベッドから半身を起こし、リリアーナの手を取り、唇をかすかに触れさせた。  
「これは、俺の国での別れの挨拶だ」  
「……勝手ですね、将軍」  
「お前がそう呼ぶからこそ、俺は“将軍”でいられた」  

その瞬間、外の鐘が鳴り響いた。夜会の終焉を告げる音だった。  
二人はそっと視線を交わす。そこに迷いはなかった。  

彼が離れた扉の向こう、朝の光がわずかに差し込む。  
空は晴れ、夜明けの色を帯びている。  
リリアーナは小さく呟いた。  

「さようならではなく、また会いましょう。――あなただけの“代役”ではなく、私として」  

彼女の言葉を最後に、静かな朝が王都に訪れた。  

続く
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