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第23話 過去との決別
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港の闇は深く、波の音がかすかに木箱を打っていた。
リリアーナは外套の裾を握りしめながら、波止場をひとり歩いていた。
昼間の喧噪が嘘のように消え、潮の香りと冷たい風が肌を刺す。
王宮から持ち出した王妃陛下の書簡が胸ポケットの中で重く感じられる。
紙の重みが、自分の使命そのもののようだった。
彼女は歩きながら何度も思った。
この手紙の中には真実がある。
しかし、それは本当に自分の信じたいものなのか。
「陛下を信じる」と言いきったのは自分だ。
なのに、アルベルトの言葉、そしてあのダリウス・レインの囁きが頭の中でこだまする。
母は王妃に利用されて命を落とした――本当なのだろうか。
いつの間にか、彼女の足は王都の南端、古い倉庫街へと辿り着いていた。
そこはすでに人の姿が消え、ランプの光だけが石畳に細長い影を作っている。
不意に、背後からひとつの灯りが差した。
「……こんな時間に、一人で出歩く癖はいつからついた?」
振り返ると、そこにライナーが立っていた。
彼は黒の外套を着て、いつもの剣を腰に帯びていた。
冷たい月光がその刃にうっすらと反射している。
「将軍……どうしてここに?」
「お前が港にいると報告を受けた。危険を察知して来た」
「報告を? 誰から――」
「王妃陛下だ。お前が向かう先をお見通しだったんだろう」
そうか、とリリアーナは小さく息を吐いた。
「やはり、何もかも見抜かれていますね」
「見抜かれているわけじゃない。お前が真っすぐだから、読まれやすいだけだ」
またその言葉――優しいのに苛立つほど正直。
リリアーナは視線を落とし、胸元の書簡に触れた。
「将軍。私……自分の過去を確かめたいのです」
「過去?」
「母の名誉も、自分の出自も。陛下の密命を果たすより先に、知るべきだと感じます」
ライナーは黙って彼女を見つめた。
彼の瞳は灰青に光り、その奥に痛みと諦めが同居していた。
「それが、“ダリウス・レイン”の言葉か?」
リリアーナはわずかに肩を震わせた。
「やはり、知っていたのですね」
「奴はヴァルシアでも裏切り者だ。あの男の血は黒い。お前に会うと聞いた瞬間から、嫌な予感がしていた」
「……彼の言ったことの全てが嘘なら、それでいい。でも、もし一片でも事実が混じっているのなら、知らずに前へ進むことはできない」
ライナーは静かに歩み寄り、彼女の目前で足を止めた。
「リリアーナ。これ以上の過去を掘るな。お前が知れば、王妃も王国も敵に回る」
「それでも構いません」
「愚かだな」
「そう思われてもいい。私は私のために真実を知りたい。誰かの指示で生きるのは、もう嫌なんです」
リリアーナの声は震えていたが、瞳は揺れなかった。
その真っすぐな光に、ライナーはたじろいだように息を呑む。
しかし、やがて諦めたようにため息を漏らした。
「……わかった」
「将軍?」
「止められない女を無理に縛るほど俺も無粋じゃない」
ライナーは外套の内側から小さな木箱を取り出した。
手のひらほどの大きさに、古い紋章が彫られた箱。
「これは?」
「俺が十年前、戦場跡で拾ったものだ。ヴァルシア軍が撤退した後、焦土の中で唯一残っていた遺品。その紋が、お前の母と同じクロフォード家のものだった」
リリアーナはその箱を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
蓋を開けると、中から古びた日記帳と一輪の白いドライフラワーが出てきた。
日記の最初の頁には、一行だけ書かれていた。
“王妃エリザベートの願いを継ぐ”
「……お母様が本当に王妃のために動いていた」
「ただし、その理由は書かれていない。おそらく命じられた任務の内容は伏せられていたはずだ」
リリアーナの指先が震える。
「もし母が、命令で動いていたのなら、陛下はどうして……」
「お前の存在を守るために、沈黙しているのかもしれん。真実を暴くことが“守る”ことではないと、陛下は分かっているんだ」
ライナーは少し遠くを見つめた。
「だがもう、誰の思惑も通用しなくなる。敵はすでに“次の手”を打ち始めている」
「まさか……」
「王都北部でまた火災が起きた。確認した死者の中に、陛下の密偵が含まれている。――奴らは和平を徹底的に破壊するつもりだ」
言葉が詰まる。
リリアーナは衝撃に立ち尽くした。
母の遺志も、陛下の願いも、すべて敵に潰されようとしている。
「将軍、私にできることは?」
「行動を起こす前にまず見極めろ。ダリウスが言った“地下回廊”に奴らの根がある。だが、罠の可能性が高い」
「罠でも構いません。行かなければ、何も変わらない」
無謀な言葉に、ライナーは小さく舌打ちした。
そして静かに彼女の肩を掴む。
「……俺も行く」
「えっ?」
「どうせ止めても無駄なんだろ。なら、お前が落ちる前に引き上げる役をやる」
リリアーナの胸に一瞬、安堵が広がった。
「ありがとう、将軍」
「勘違いするな。俺は王妃に命じられている身だ。それに――」
ライナーの手が彼女の頬へ伸びた。
指先が微かに触れる。その動きは傷跡を確かめるように優しい。
「……再び、お前が泣くのを見たくないだけだ」
「泣きません。もう泣かないと決めたんです」
夜風が吹き、彼女の髪が揺れる。
その瞬間に、ライナーの瞳がほんの一瞬だけ柔らかく光った。
「なら、信じよう。だがもし俺が先に倒れたら――」
「その時は、今度こそ私があなたを救います」
「口が減らないな」
ライナーが苦笑した。
海を渡る風がふたりの間を抜ける。
遠くで雷が鳴った。
迫りくる嵐の気配。そして、もう戻れない道の始まり。
リリアーナは木箱を抱きしめ、母の名を心の中で呼んだ。
――母上。私は、もう逃げません。貴女が歩んだ道の果てで、この手で真実を掴みます。
ライナーが一歩進み、潮風に背を向けた。
「行こう、リリアーナ。新しい戦いは、過去の亡霊との決着だ」
「はい……」
月が雲の切れ間から顔を出し、二人の影を港の石畳に落とす。
それはまるで、未来へと伸びる細い糸のように並んでいた。
続く
リリアーナは外套の裾を握りしめながら、波止場をひとり歩いていた。
昼間の喧噪が嘘のように消え、潮の香りと冷たい風が肌を刺す。
王宮から持ち出した王妃陛下の書簡が胸ポケットの中で重く感じられる。
紙の重みが、自分の使命そのもののようだった。
彼女は歩きながら何度も思った。
この手紙の中には真実がある。
しかし、それは本当に自分の信じたいものなのか。
「陛下を信じる」と言いきったのは自分だ。
なのに、アルベルトの言葉、そしてあのダリウス・レインの囁きが頭の中でこだまする。
母は王妃に利用されて命を落とした――本当なのだろうか。
いつの間にか、彼女の足は王都の南端、古い倉庫街へと辿り着いていた。
そこはすでに人の姿が消え、ランプの光だけが石畳に細長い影を作っている。
不意に、背後からひとつの灯りが差した。
「……こんな時間に、一人で出歩く癖はいつからついた?」
振り返ると、そこにライナーが立っていた。
彼は黒の外套を着て、いつもの剣を腰に帯びていた。
冷たい月光がその刃にうっすらと反射している。
「将軍……どうしてここに?」
「お前が港にいると報告を受けた。危険を察知して来た」
「報告を? 誰から――」
「王妃陛下だ。お前が向かう先をお見通しだったんだろう」
そうか、とリリアーナは小さく息を吐いた。
「やはり、何もかも見抜かれていますね」
「見抜かれているわけじゃない。お前が真っすぐだから、読まれやすいだけだ」
またその言葉――優しいのに苛立つほど正直。
リリアーナは視線を落とし、胸元の書簡に触れた。
「将軍。私……自分の過去を確かめたいのです」
「過去?」
「母の名誉も、自分の出自も。陛下の密命を果たすより先に、知るべきだと感じます」
ライナーは黙って彼女を見つめた。
彼の瞳は灰青に光り、その奥に痛みと諦めが同居していた。
「それが、“ダリウス・レイン”の言葉か?」
リリアーナはわずかに肩を震わせた。
「やはり、知っていたのですね」
「奴はヴァルシアでも裏切り者だ。あの男の血は黒い。お前に会うと聞いた瞬間から、嫌な予感がしていた」
「……彼の言ったことの全てが嘘なら、それでいい。でも、もし一片でも事実が混じっているのなら、知らずに前へ進むことはできない」
ライナーは静かに歩み寄り、彼女の目前で足を止めた。
「リリアーナ。これ以上の過去を掘るな。お前が知れば、王妃も王国も敵に回る」
「それでも構いません」
「愚かだな」
「そう思われてもいい。私は私のために真実を知りたい。誰かの指示で生きるのは、もう嫌なんです」
リリアーナの声は震えていたが、瞳は揺れなかった。
その真っすぐな光に、ライナーはたじろいだように息を呑む。
しかし、やがて諦めたようにため息を漏らした。
「……わかった」
「将軍?」
「止められない女を無理に縛るほど俺も無粋じゃない」
ライナーは外套の内側から小さな木箱を取り出した。
手のひらほどの大きさに、古い紋章が彫られた箱。
「これは?」
「俺が十年前、戦場跡で拾ったものだ。ヴァルシア軍が撤退した後、焦土の中で唯一残っていた遺品。その紋が、お前の母と同じクロフォード家のものだった」
リリアーナはその箱を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
蓋を開けると、中から古びた日記帳と一輪の白いドライフラワーが出てきた。
日記の最初の頁には、一行だけ書かれていた。
“王妃エリザベートの願いを継ぐ”
「……お母様が本当に王妃のために動いていた」
「ただし、その理由は書かれていない。おそらく命じられた任務の内容は伏せられていたはずだ」
リリアーナの指先が震える。
「もし母が、命令で動いていたのなら、陛下はどうして……」
「お前の存在を守るために、沈黙しているのかもしれん。真実を暴くことが“守る”ことではないと、陛下は分かっているんだ」
ライナーは少し遠くを見つめた。
「だがもう、誰の思惑も通用しなくなる。敵はすでに“次の手”を打ち始めている」
「まさか……」
「王都北部でまた火災が起きた。確認した死者の中に、陛下の密偵が含まれている。――奴らは和平を徹底的に破壊するつもりだ」
言葉が詰まる。
リリアーナは衝撃に立ち尽くした。
母の遺志も、陛下の願いも、すべて敵に潰されようとしている。
「将軍、私にできることは?」
「行動を起こす前にまず見極めろ。ダリウスが言った“地下回廊”に奴らの根がある。だが、罠の可能性が高い」
「罠でも構いません。行かなければ、何も変わらない」
無謀な言葉に、ライナーは小さく舌打ちした。
そして静かに彼女の肩を掴む。
「……俺も行く」
「えっ?」
「どうせ止めても無駄なんだろ。なら、お前が落ちる前に引き上げる役をやる」
リリアーナの胸に一瞬、安堵が広がった。
「ありがとう、将軍」
「勘違いするな。俺は王妃に命じられている身だ。それに――」
ライナーの手が彼女の頬へ伸びた。
指先が微かに触れる。その動きは傷跡を確かめるように優しい。
「……再び、お前が泣くのを見たくないだけだ」
「泣きません。もう泣かないと決めたんです」
夜風が吹き、彼女の髪が揺れる。
その瞬間に、ライナーの瞳がほんの一瞬だけ柔らかく光った。
「なら、信じよう。だがもし俺が先に倒れたら――」
「その時は、今度こそ私があなたを救います」
「口が減らないな」
ライナーが苦笑した。
海を渡る風がふたりの間を抜ける。
遠くで雷が鳴った。
迫りくる嵐の気配。そして、もう戻れない道の始まり。
リリアーナは木箱を抱きしめ、母の名を心の中で呼んだ。
――母上。私は、もう逃げません。貴女が歩んだ道の果てで、この手で真実を掴みます。
ライナーが一歩進み、潮風に背を向けた。
「行こう、リリアーナ。新しい戦いは、過去の亡霊との決着だ」
「はい……」
月が雲の切れ間から顔を出し、二人の影を港の石畳に落とす。
それはまるで、未来へと伸びる細い糸のように並んでいた。
続く
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