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第09話
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部屋の扉を閉めた瞬間、喉の奥から息が静かに漏れた。ほんの少しだけ震えた手を、無意識に胸元で握る。
暗い部屋の中。昼の光はもう薄く、代わりに夕暮れが窓の隙間から差し込んでいる。
橙色に染まる天井を見上げながら、ハイデンは壁際の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
視線が泳いでいた、鼓動が落ち着かない、理性では「何も起きていない」と思おうとしても体のどこかが警鐘を鳴らしている。
(間違いない……【彼女】だった)
リリア・セントマリア。
あの笑みを、あの瞳を、忘れるはずがない――ゲームの終盤、彼女が自分に向けた勝利者の微笑。
(やっぱり始まったんだ。物語が動き出した)
思い出すのは、ゲームの中での自分自身の事だ。画面でしか見た事なかったが【悪役令息】という役目を与えられ、敵意を集め最期には追放か、処刑か、封印される結末ばかり。何度プレイヤーに敗れ、何度バッドエンドを迎えてきた事か。
(……それを避けられると思っていたから、何もかも放棄したのに、あきらめたのに……)
誰にも会わず、力も使わず、静かに暮らしていれば。何も望まず、何も期待せず、ただ時間だけをやり過ごしていれば。
【物語】に巻き込まれずに済むと思っていた。
なのに――彼女は見つけた。
自分を、【ラスボス】としての存在を、きっとまた物語の舞台に引きずり出すつもりなのだ。
「……くだらない」
呟きは空気に溶ける。だが、自分でもその言葉が虚勢であることを自覚していた。
くだらなくなんてない。怖いのだ。終わらされる未来が待っていると思うと、手足の芯が冷えていく。
窓の外に目をやると、風に揺れる木の影がまるで何かの影法師のように見えた。
(あの男は、クリスは……気づいていた)
彼の問いかけがまるで胸の奥に小さな刃を突き立てるように、じんと響いていた。
『……誰かに、見られてたか?』
あの時、自分はどんな顔をしていたのだろう。
怯えたように?
戸惑って?
それとも、ただひたすら逃げたがっていた?
「……情けないな。結局、僕は何も変わっていない」
ハイデンはゆっくりと天井を見上げて呟く。
リリアの顔を見た瞬間、胸に走ったあの冷たい感覚。あれは間違いなく、【運命】が自分を舞台に引きずり出そうとしている兆しのように感じた。
(でも、クリスの声が……引き戻してくれた)
ほんの短い一言――誰にでも言える問いかけ。
けれど、自分にとっては、今この屋敷で唯一の【繋がり】だった。
クリスは多くを語らない。
けれど、必要な時には、決して見逃さずに言葉をくれる。過干渉でも、無関心でもない。そう――あの男は、程よく遠くて、でもちゃんと届く場所にいる。
「……距離って、こんなにあたたかいものなんだな」
誰かと一緒にいるのに、心が擦り減らないこと。そして気を張らなくてよいこと。
それが、どれほど貴重なことだったか、今になってやっとわかるような気がした。
(……今の僕に、それ以上を求めるなんて贅沢すぎる)
ベッドの端に体を預けながら、天井をぼんやりと見つめる。今日、受け取った詩集のことを思い出すが鞄の中にあるそれを開く気にはなれなかった。ページをめくる気力すら、どこかに置き忘れてきた気がする。
「……守れるかな。こんな時間を」
静寂が、部屋を満たしている。窓の外では風が木々を揺らし、階下からは器の小さな音がかすかに届く。その音だけが、今日もまだ【日常】がここにあることを教えてくれる。
(この時間を……壊したくない)
胸の奥で、そんな願いがひとつ芽を出していた。小さくて、今にも風に吹き飛びそうな、弱々しい願いだった。けれど、確かに――それは“【自分のもの】なのだ。
守りたい。
諦めていたはずの人生に、ほんの少しだけ残っていた温もり。
それが、家なのか。穏やかな食卓なのか。それとも――クリスという、静かに寄り添う存在そのものか。
「……わからない。でも……」
ハイデンは、小さく息を吐く。
「壊されたくはないな」
その言葉は誰にも届かない。けれど、口にした事で、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
▼ ▼ ▼
夜が深くなるにつれ、空気が重たく沈んでいく。
屋敷の廊下には誰の気配もなく、月明かりさえ雲に隠れている。世界から色が消えていくような、そんな静寂の中――ハイデンの部屋にだけ、異変が起きていた。
シーツを握る指先が細かく震える。
背筋を走る疼きが、やがて皮膚を突き破るような熱に変わり、心臓が激しく跳ねた。
いつもと【同じ】事が起こった。
「……っ、また……か……」
苦痛に眉を寄せながら、ハイデンは浅い呼吸を繰り返す。
魔力の奔流が内側から暴れ出していた。血管の奥で脈打つように制御不能の力が身体中を叩きのめしていく。
爪が肌を裂きそうなほどシーツを掴み、滲んだ汗が枕元を濡らす。頭が割れそうに痛い。そして視界が揺れ、喉からは押し殺した呻きが漏れる。
(……またか……やっぱり……)
どれほど繰り返してきただろう、この夜を。
眠ろうとして、ただ苦しみに沈んでいく時間。そのたびに、心の底から思い知らされる。
(……僕は、【壊れる側】の人間なんだな)
それは自嘲でも、悲観でもなかった。
ただ、逃れられない現実だった。
この身体に宿った異常な魔力も、転生前の知識も――すべてが、壊すための要素に過ぎない。
――夢が、流れ込んでくる。
かつて自分がプレイヤーとして眺めていた《月下の誓い》。ハイデンというキャラクターが狂気に堕ち、暴走し、そして討たれる。幾度も繰り返されたエンディングの断片が、脳裏に焼き付いている。
結局、自分はそうなる運命なのだ。運命に抗う余地など、本当は最初からなかった。
「……くそ、ッ……!」
叫ぼうとしても、声にならない。
指先が痙攣し、息が詰まる。
暗闇が、全身を締めつけるようにまとわりついてくる。
唇を噛みしめて、抗っていたその時だった。
バン、と扉が開き、勢いよく誰かが部屋に飛び込んできた音。月明かりすらない暗闇の中、その足音はためらいなく真っすぐハイデンのもとへと向かってくる。
「……ハイデン!」
その声に、ハイデンの肩が大きく跳ねた。
次の瞬間、重力が変わる。ふわりと包まれた温度に、意識が僅かに揺れ――クリスが目の前に現れた。
乱れた体を、まるで壊れ物を扱うようにそっと、けれど強く抱きしめてくる。
「……もう、いい。抑えなくていい。大丈夫だ」
「……っ、離れ……ッ……俺、今……ッ」
言葉にならない。
情けない、見せたくなかった。こんな姿、誰にも。
けれどその腕は、なおも背中を押さえつけるようにしっかりと回されている。心臓の鼓動が、少しずつゆっくりになっていき、暴れていた魔力もかすかに静まりはじめていた。
ハイデンは息を浅く繰り返しながら、震える声で吐き出した。
「……苦しい……でも、ごめん……まだ……死にたくないだ……ぼくは……っ」
掠れたその声に、クリスは応えるように一瞬だけ間を置いた。そして、静かにハイデンの頬に手を添え、息を合わせるように囁く。
「……ちゃんと、息をして俺の声を聞け……戻ってこい、ハイデン」
ハイデンの呼吸が止まりかけていたのを見て、クリスは迷いなく顔を近づけた。
その動作にハイデンがわずかに目を見開く。けれど拒絶はしなかった。唇が触れるほどの距離まで近づいたところで、クリスはそっと額を寄せ低く囁く。
「……口移しじゃなくても、呼吸はできる。けど……もし望むなら――してやる」
ハイデンの喉が、音もなく震えた。唇が微かに開く。それは「助けて」と言う代わりの必死の動きだった。
「……わ、る……す……ご……め……」
途切れた謝罪を聴いた瞬間、クリスの胸が痛むように熱くなる。
本来ならば、助けを求めるのは違うのかもしれないが、それでも今のハイデンは目の前のクリスに助けを求める事しか出来ない。
まだ、ハイデンは壊れたくないのだ。行きたいと言う気持ちが強くなっていたのである。
謝るハイデンに対し、クリスは言う。
「謝るな。謝るくらいなら……生きることだけ考えろ」
そして、クリスは静かに――しかし迷いなく、ハイデンの唇を塞いだ。
最初は浅い触れ合いだった。救うための、慎重な口づけ。
だがハイデンの体が耐えきれずに揺れ、途切れた呼吸が漏れた瞬間、クリスは彼の口内へ深く息を押し込み、同時に彼の息を受け取った。
「……っ、ん……ぁ、……っ」
かすれた吐息が、震えた声が、熱を帯びてクリスの口に吸い込まれていく。
甘さはない。苦しさが混ざった、ぎりぎりの音。それなのに、どこか抗いようもなく――ふたりを溶かす。
「……ぅ、……ごめ……ま、だ……っ……は……」
謝りながら、息を求める。その弱さが、余計にクリスの動きを深くさせた。
「……いい。謝るな……ちゃんと息をしろ」
低く掠れた声が、唇を重ねながら漏れる。
呼吸が混ざり、体温が絡み、境界が曖昧になる。ハイデンの指先がクリスの服を必死に掴み、逃げず、拒まず、ただ縋りついた。
「……ん、っ……あ……ふ、……ぅ」
溺れるような息が、二人の胸の奥で一つになろうとしている。そしてハイデンはいつの間にか目の前の男に【何か】を求めてしまっているようにも感じた。
やがてクリスはそっと唇を離し、触れるほど近くで囁いた。
「……ちゃんと吸えてる。戻ってきたな、ハイデン」
ハイデンは熱の残る口元を震わせ、かすかに見上げて言う。
「……ここに……いてくれる、だけで……いいから……きょうは、クリス……」
その声に、クリスは小さく息を吐き、再び抱きしめた。
「ああ、大丈夫……こんな俺で良いなら、傍にいてやる」
クリスのその一言にハイデンの胸の奥にじんわりと染みていく。
痛みも、魔力も、まだ完全には消えていない。それでも今ハイデンは確かに――【ひとり】ではなかった。
ぎゅっとしがみつくようにして掴まれた布越しに、体温がじわじわと伝わる。それだけが今の彼を、壊れる寸前で支えていた。
そして、気づいた――初めて、【生きたい】と、思ってしまった。
(……まだ、死にたくない、な)
暗い部屋の中。昼の光はもう薄く、代わりに夕暮れが窓の隙間から差し込んでいる。
橙色に染まる天井を見上げながら、ハイデンは壁際の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
視線が泳いでいた、鼓動が落ち着かない、理性では「何も起きていない」と思おうとしても体のどこかが警鐘を鳴らしている。
(間違いない……【彼女】だった)
リリア・セントマリア。
あの笑みを、あの瞳を、忘れるはずがない――ゲームの終盤、彼女が自分に向けた勝利者の微笑。
(やっぱり始まったんだ。物語が動き出した)
思い出すのは、ゲームの中での自分自身の事だ。画面でしか見た事なかったが【悪役令息】という役目を与えられ、敵意を集め最期には追放か、処刑か、封印される結末ばかり。何度プレイヤーに敗れ、何度バッドエンドを迎えてきた事か。
(……それを避けられると思っていたから、何もかも放棄したのに、あきらめたのに……)
誰にも会わず、力も使わず、静かに暮らしていれば。何も望まず、何も期待せず、ただ時間だけをやり過ごしていれば。
【物語】に巻き込まれずに済むと思っていた。
なのに――彼女は見つけた。
自分を、【ラスボス】としての存在を、きっとまた物語の舞台に引きずり出すつもりなのだ。
「……くだらない」
呟きは空気に溶ける。だが、自分でもその言葉が虚勢であることを自覚していた。
くだらなくなんてない。怖いのだ。終わらされる未来が待っていると思うと、手足の芯が冷えていく。
窓の外に目をやると、風に揺れる木の影がまるで何かの影法師のように見えた。
(あの男は、クリスは……気づいていた)
彼の問いかけがまるで胸の奥に小さな刃を突き立てるように、じんと響いていた。
『……誰かに、見られてたか?』
あの時、自分はどんな顔をしていたのだろう。
怯えたように?
戸惑って?
それとも、ただひたすら逃げたがっていた?
「……情けないな。結局、僕は何も変わっていない」
ハイデンはゆっくりと天井を見上げて呟く。
リリアの顔を見た瞬間、胸に走ったあの冷たい感覚。あれは間違いなく、【運命】が自分を舞台に引きずり出そうとしている兆しのように感じた。
(でも、クリスの声が……引き戻してくれた)
ほんの短い一言――誰にでも言える問いかけ。
けれど、自分にとっては、今この屋敷で唯一の【繋がり】だった。
クリスは多くを語らない。
けれど、必要な時には、決して見逃さずに言葉をくれる。過干渉でも、無関心でもない。そう――あの男は、程よく遠くて、でもちゃんと届く場所にいる。
「……距離って、こんなにあたたかいものなんだな」
誰かと一緒にいるのに、心が擦り減らないこと。そして気を張らなくてよいこと。
それが、どれほど貴重なことだったか、今になってやっとわかるような気がした。
(……今の僕に、それ以上を求めるなんて贅沢すぎる)
ベッドの端に体を預けながら、天井をぼんやりと見つめる。今日、受け取った詩集のことを思い出すが鞄の中にあるそれを開く気にはなれなかった。ページをめくる気力すら、どこかに置き忘れてきた気がする。
「……守れるかな。こんな時間を」
静寂が、部屋を満たしている。窓の外では風が木々を揺らし、階下からは器の小さな音がかすかに届く。その音だけが、今日もまだ【日常】がここにあることを教えてくれる。
(この時間を……壊したくない)
胸の奥で、そんな願いがひとつ芽を出していた。小さくて、今にも風に吹き飛びそうな、弱々しい願いだった。けれど、確かに――それは“【自分のもの】なのだ。
守りたい。
諦めていたはずの人生に、ほんの少しだけ残っていた温もり。
それが、家なのか。穏やかな食卓なのか。それとも――クリスという、静かに寄り添う存在そのものか。
「……わからない。でも……」
ハイデンは、小さく息を吐く。
「壊されたくはないな」
その言葉は誰にも届かない。けれど、口にした事で、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
▼ ▼ ▼
夜が深くなるにつれ、空気が重たく沈んでいく。
屋敷の廊下には誰の気配もなく、月明かりさえ雲に隠れている。世界から色が消えていくような、そんな静寂の中――ハイデンの部屋にだけ、異変が起きていた。
シーツを握る指先が細かく震える。
背筋を走る疼きが、やがて皮膚を突き破るような熱に変わり、心臓が激しく跳ねた。
いつもと【同じ】事が起こった。
「……っ、また……か……」
苦痛に眉を寄せながら、ハイデンは浅い呼吸を繰り返す。
魔力の奔流が内側から暴れ出していた。血管の奥で脈打つように制御不能の力が身体中を叩きのめしていく。
爪が肌を裂きそうなほどシーツを掴み、滲んだ汗が枕元を濡らす。頭が割れそうに痛い。そして視界が揺れ、喉からは押し殺した呻きが漏れる。
(……またか……やっぱり……)
どれほど繰り返してきただろう、この夜を。
眠ろうとして、ただ苦しみに沈んでいく時間。そのたびに、心の底から思い知らされる。
(……僕は、【壊れる側】の人間なんだな)
それは自嘲でも、悲観でもなかった。
ただ、逃れられない現実だった。
この身体に宿った異常な魔力も、転生前の知識も――すべてが、壊すための要素に過ぎない。
――夢が、流れ込んでくる。
かつて自分がプレイヤーとして眺めていた《月下の誓い》。ハイデンというキャラクターが狂気に堕ち、暴走し、そして討たれる。幾度も繰り返されたエンディングの断片が、脳裏に焼き付いている。
結局、自分はそうなる運命なのだ。運命に抗う余地など、本当は最初からなかった。
「……くそ、ッ……!」
叫ぼうとしても、声にならない。
指先が痙攣し、息が詰まる。
暗闇が、全身を締めつけるようにまとわりついてくる。
唇を噛みしめて、抗っていたその時だった。
バン、と扉が開き、勢いよく誰かが部屋に飛び込んできた音。月明かりすらない暗闇の中、その足音はためらいなく真っすぐハイデンのもとへと向かってくる。
「……ハイデン!」
その声に、ハイデンの肩が大きく跳ねた。
次の瞬間、重力が変わる。ふわりと包まれた温度に、意識が僅かに揺れ――クリスが目の前に現れた。
乱れた体を、まるで壊れ物を扱うようにそっと、けれど強く抱きしめてくる。
「……もう、いい。抑えなくていい。大丈夫だ」
「……っ、離れ……ッ……俺、今……ッ」
言葉にならない。
情けない、見せたくなかった。こんな姿、誰にも。
けれどその腕は、なおも背中を押さえつけるようにしっかりと回されている。心臓の鼓動が、少しずつゆっくりになっていき、暴れていた魔力もかすかに静まりはじめていた。
ハイデンは息を浅く繰り返しながら、震える声で吐き出した。
「……苦しい……でも、ごめん……まだ……死にたくないだ……ぼくは……っ」
掠れたその声に、クリスは応えるように一瞬だけ間を置いた。そして、静かにハイデンの頬に手を添え、息を合わせるように囁く。
「……ちゃんと、息をして俺の声を聞け……戻ってこい、ハイデン」
ハイデンの呼吸が止まりかけていたのを見て、クリスは迷いなく顔を近づけた。
その動作にハイデンがわずかに目を見開く。けれど拒絶はしなかった。唇が触れるほどの距離まで近づいたところで、クリスはそっと額を寄せ低く囁く。
「……口移しじゃなくても、呼吸はできる。けど……もし望むなら――してやる」
ハイデンの喉が、音もなく震えた。唇が微かに開く。それは「助けて」と言う代わりの必死の動きだった。
「……わ、る……す……ご……め……」
途切れた謝罪を聴いた瞬間、クリスの胸が痛むように熱くなる。
本来ならば、助けを求めるのは違うのかもしれないが、それでも今のハイデンは目の前のクリスに助けを求める事しか出来ない。
まだ、ハイデンは壊れたくないのだ。行きたいと言う気持ちが強くなっていたのである。
謝るハイデンに対し、クリスは言う。
「謝るな。謝るくらいなら……生きることだけ考えろ」
そして、クリスは静かに――しかし迷いなく、ハイデンの唇を塞いだ。
最初は浅い触れ合いだった。救うための、慎重な口づけ。
だがハイデンの体が耐えきれずに揺れ、途切れた呼吸が漏れた瞬間、クリスは彼の口内へ深く息を押し込み、同時に彼の息を受け取った。
「……っ、ん……ぁ、……っ」
かすれた吐息が、震えた声が、熱を帯びてクリスの口に吸い込まれていく。
甘さはない。苦しさが混ざった、ぎりぎりの音。それなのに、どこか抗いようもなく――ふたりを溶かす。
「……ぅ、……ごめ……ま、だ……っ……は……」
謝りながら、息を求める。その弱さが、余計にクリスの動きを深くさせた。
「……いい。謝るな……ちゃんと息をしろ」
低く掠れた声が、唇を重ねながら漏れる。
呼吸が混ざり、体温が絡み、境界が曖昧になる。ハイデンの指先がクリスの服を必死に掴み、逃げず、拒まず、ただ縋りついた。
「……ん、っ……あ……ふ、……ぅ」
溺れるような息が、二人の胸の奥で一つになろうとしている。そしてハイデンはいつの間にか目の前の男に【何か】を求めてしまっているようにも感じた。
やがてクリスはそっと唇を離し、触れるほど近くで囁いた。
「……ちゃんと吸えてる。戻ってきたな、ハイデン」
ハイデンは熱の残る口元を震わせ、かすかに見上げて言う。
「……ここに……いてくれる、だけで……いいから……きょうは、クリス……」
その声に、クリスは小さく息を吐き、再び抱きしめた。
「ああ、大丈夫……こんな俺で良いなら、傍にいてやる」
クリスのその一言にハイデンの胸の奥にじんわりと染みていく。
痛みも、魔力も、まだ完全には消えていない。それでも今ハイデンは確かに――【ひとり】ではなかった。
ぎゅっとしがみつくようにして掴まれた布越しに、体温がじわじわと伝わる。それだけが今の彼を、壊れる寸前で支えていた。
そして、気づいた――初めて、【生きたい】と、思ってしまった。
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