「戻ってきてもいいぞ?」という傲慢――許せませんわ。

ちゅんりー

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「……閣下。おはようございます。というか、まだ夜明け前ですわよ。なぜ私の寝所の扉の前で、仁王立ちしていらっしゃるのですか?」


私が目を擦りながら工房の裏にある自室の扉を開けると、そこには冷徹な美貌を夜霧に濡らしたアールグレイ公爵が立っていた。


彼は無言で、私が昨日焼き上げた「試作品・ビターオレンジのクロワッサン」の残骸が入ったカゴを指差した。


「……切れたのだ」


「何がですの? 堪忍袋の緒ですか?」


「糖分だ。深夜、執務をしていたら急に指先が震え出してな。気づけば馬を飛ばしてここに来ていた。マーマレード嬢、責任を取ってくれ。私の血管には今、君のマーマレードが足りていない」


「重症ですわね。一国の公爵がそんな理由で不法侵入まがいのことをしないでください」


私は大きなあくびをしながら、渋々工房の竈に火を入れた。
この男、見た目は氷の彫刻のように美しいが、中身は完全に「ジャム依存症」の大型犬だ。


「いいですか、閣下。私は今日、ダージリン様と新作の打ち合わせがあるのです。そんなところで置物のように座られては邪魔ですわ」


「ならば、私も手伝おう。何をすればいい? オレンジを潰すのか? それとも、あの商人を森の奥へ叩き出すのか?」


「後者は犯罪ですわ。……そうですわね、そこまでしてここに居座りたいのでしたら、今日一日、私の『下僕』として働いていただきますわよ?」


私が冗談のつもりでそう言うと、公爵は眉一つ動かさずに頷いた。


「……下僕か。悪くない。報酬は現物支給……焼きたてのパンと、瓶の底に残ったジャムの独占権でどうだ?」


「安上がりな公爵様ですわね。いいでしょう、採用です」


こうして、隣国の最高権力者であるアールグレイ公爵が、私の「臨時助手兼下僕」に就任した。


まずは工房の掃除。
彼は高級なシルクのシャツを脱ぎ捨て、白いアンダーウェア姿で床を磨き始めた。


「閣下、腰が入っていませんわ。もっとこう、殿下への怒りを込めて、力一杯ゴシゴシと!」


「こうか……? レモン王子の無能……シュガー令嬢の鼻持ちならない声……。……ふむ、確かに力が籠るな。掃除とはこれほどまでに精神を研ぎ澄ませる作業だったのか」


「そうですわ。床がピカピカになれば、ジャムの味も冴え渡るのです」


公爵が黙々と床を磨く姿は、不気味なほど絵になっていた。
筋肉のついた背中が動くたびに、工房の湿った空気が少しだけ熱を帯びる。


そこへ、いつものようにド派手な馬車でダージリン様が乗り込んできた。


「お嬢さん、おはよう! 今日はとびきり甘いニュースを……って、ええええっ!? 公爵閣下、何をしてるんですか!?」


ダージリン様が、床を這いつくばって磨く公爵を見て、持っていた扇子を落とした。


「見ての通りだ、ダージリン。私は今日、彼女の下僕になった。……邪魔だ、そこをどけ。磨く範囲に入っている」


「下僕!? 正気ですか!? 一国の公爵が、エプロンもせずに床掃除なんて……。お嬢さん、彼を何て言いくるめたんですか?」


「食欲で釣っただけですわよ」


私は涼しい顔で、オレンジの皮を細長く刻み始めた。


「それよりダージリン様。瓶のデザインの最終確認をお願いします。それから、宣伝用のキャッチコピーは決まりました?」


「ええ、バッチリですよ。『一舐めすれば、人生がオレンジ色に染まる――。罪深き貴婦人たちのための、禁断のビター』。これで決まりです!」


「……相変わらず、少し胡散臭いですわね」


打ち合わせが進む中、公爵は黙々と作業をこなしていった。
重い鍋を運び、薪を割り、さらには私が指示した通り、オレンジの重さを一グラム単位で計量する。


「マーマレード嬢。計量は終わった。……次は?」


「次は、私の肩を揉んでいただけますかしら。ずっと皮を剥いていて、凝ってしまいましたわ」


「……承知した」


公爵が、大きな手で私の肩を包み込む。
その指先の力加減は、驚くほど繊細で、そして心地よかった。


「……お嬢さん、それ。公爵に肩を揉ませるなんて、歴史に残る不敬罪ですよ」


ダージリン様が呆れ果てているが、公爵はどこか満足げだ。


「ダージリン、君にはわかるまい。労働の後のジャムは、貴族の宴で出されるどの美酒よりも価値がある。……マーマレード、そろそろか?」


「ふふ、いいでしょう。お疲れ様、私の下僕様」


私は、とっておきの「オレンジ・コンフィ」を添えた、厚切りのトーストを二人の前に差し出した。


公爵は、それを一口食べるなり、椅子の上で崩れ落ちるように深く息を吐いた。


「…………生きていて、よかった」


「閣下、大袈裟ですわよ」


「いや、本当だ。……マーマレード、私はもう決めた。君を王都へは帰さない。君がここを離れると言うなら、私はこの森ごと買い取り、私の城をここへ移築させる」


「それは流石に迷惑ですわ!」


笑い合う私たちを、ダージリン様が「僕も混ぜてくださいよ!」と割り込んでくる。


かつての婚約者は、私に「下女のような真似はやめろ」と蔑んだ。
でも、今のパトロンは、私と一緒に「下僕」になって楽しんでくれる。


「さて、下僕様。次は池の掃除が待っていますわよ。やる気はあります?」


「……ジャムのためなら、奈落の底でも掃除してこよう」


公爵の目は、かつて戦場を駆けた時よりも、鋭く、そして食欲に燃えていた。
私のオレンジ帝国は、こうして最強の(そして少しおかしな)家臣たちを従え、着実にその版図を広げていくのだった。
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