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揺れる想いと孤独な夜
しおりを挟むエリーナが「境界線を信じない」と言い切った夜から、アレクシスの心には微かな動揺が芽生えていた。彼は自らを律するように仕事に没頭し、エリーナとの接触を避けるかのような態度を取り続けていた。しかし、その冷たさとは裏腹に、彼の頭の片隅には常にエリーナの姿が浮かんでいた。
一方のエリーナもまた、アレクシスとの距離が縮まらない現実に胸を痛めていた。彼の壁を壊したいという想いは強かったが、どうすればよいのかわからない。彼の過去を知りたいが、それを尋ねることはタブーのように感じられ、踏み込むことができなかった。
そんなある日、エリーナはセバスチャンから「公爵様が今夜遅くまで執務室にいる予定だ」と聞かされる。彼の体を気遣ったエリーナは、夜食を用意して執務室を訪れることにした。
静かに扉をノックし、中に入ると、アレクシスはデスクに山積みの書類を前にしていた。
「何か用か?」
彼は視線をエリーナに向けたが、相変わらずの冷たい口調だった。
「お仕事が大変そうなので、夜食をお持ちしました。」
エリーナはトレイを持ち上げ、微笑みながらデスクの端に置いた。そこには温かいスープとパン、そして小さな果物の盛り合わせが並んでいる。
アレクシスはその料理に目を落とし、短くため息をついた。
「余計なことを。」
そう言いつつも、彼はスープを一口すくい上げた。その瞬間、彼の表情がわずかに緩んだのをエリーナは見逃さなかった。
「美味しいですか?」
「……悪くない。」
それは、アレクシスにしては十分すぎるほどの褒め言葉だった。
エリーナはその答えに安心したように微笑み、彼の隣の椅子に腰掛けた。
「公爵様、たまには少し休憩を取るのも大切です。無理をして体を壊されると、私も悲しいですから。」
その言葉に、アレクシスは一瞬だけ視線を揺らしたが、すぐに表情を引き締めた。
「私の体を気遣う暇があるなら、自分の時間を大切にしろ。」
「それでも、私はあなたが気になります。」
エリーナの率直な言葉に、アレクシスはしばらく黙り込んだ。そして、ぽつりと呟くように言った。
「どうしてそこまで私に構う?」
エリーナはその問いに少しだけ迷った後、正直に答えた。
「私は公爵夫人として、あなたを支える役目があるからです。でも、それだけじゃなくて……あなたがどんな人なのかを知りたいから。」
アレクシスはその答えに何も言わず、ただ静かにスープを飲み続けた。エリーナの言葉が胸の奥に刺さるように響いていたが、それを表に出すことはなかった。
その夜、エリーナが部屋に戻った後、アレクシスは執務室で一人考え込んでいた。彼の胸には、エリーナの言葉が何度も蘇っていた。
「私はあなたがどんな人なのかを知りたい。」
アレクシスにとって、誰かに自分を知りたいと言われることは特別な意味を持っていた。幼い頃から、彼は冷徹で完璧であることを求められ、自分の感情を押し殺して生きてきた。誰も彼の本当の姿を知ろうとはしなかったし、彼自身もそれを望んでいなかった。
しかし、エリーナだけは違った。彼女は自分の壁を壊そうとし、心に踏み込もうとしてくる。その姿が煩わしいと感じる一方で、どこか嬉しくもあった。
「……本当に厄介な女だ。」
アレクシスは小さく呟き、デスクに顔を伏せた。彼にとって、それはほんの少しだけ自分の本音を許した瞬間だった。
翌朝、エリーナが目を覚ますと、テーブルの上に小さな花瓶が置かれているのに気づいた。それは、庭園で咲いていた小さな花が数輪飾られたもので、誰が置いたのかはわからなかった。
「これ、誰が……?」
エリーナは不思議そうに首をかしげたが、その花がささやかな優しさを感じさせるものだったことだけは確かだった。
アレクシスの心に生まれた微かな変化は、エリーナにはまだ気づかれていなかった。しかし、その変化は確実に彼を少しずつ変えていく兆しとなっていた。
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