16 / 28
16
しおりを挟む
アルトワ公爵邸の朝は、驚くほど静かで、そして機能的だった。
かつてのマリス王宮であれば、今頃は「殿下が朝寝坊をされた」「リリィ様が朝食のジャムの種類が気に入らないと泣いている」といった、生産性の欠片もない報告が飛び交っていたことだろう。
クロナは、温かいカフェオレを一口飲み、目の前に広げられた領内の流通網図を眺めた。
「……信じられませんわ。サーシャ、見てちょうだい。この物流経路、主要な関所が三箇所もバイパスされているの。誰が考えたのかしら、天才的な節税ルートだわ」
「お嬢様、それは節税ではなく、単にゼクス閣下が効率を重視して整備された正規のルートだと思われますが……」
サーシャが呆れたように、新しい領内の特産品リストを差し出した。
「マリス王国の頃は『王子の機嫌を損ねないための接待費』という謎の項目が予算の三割を占めていましたけれど、ここではその全てが『道路の舗装費』に回っている。……ああ、なんて論理的なのかしら。涙が出そうですわ」
「クロナ嬢、朝から随分と感傷的だな」
不意に背後から声をかけられ、クロナは背筋を伸ばして振り返った。
そこには、公爵としての公務を終えたばかりのゼクスが、少しだけネクタイを緩めた姿で立っていた。
「おはようございます、ゼクス閣下。いえ、感傷的というよりは、あまりの『正常さ』に感動していたのですわ。この領地の帳簿、突っ込みどころが少なすぎて、私の出る幕がないのではないかと不安になるほどです」
「……そうか? 私としては、君が来てから半日で、既に三つの不正会計の兆候を見つけ出されたことに驚愕しているのだが」
ゼクスはクロナの隣に座り、彼女が作成した付箋だらけの資料を覗き込んだ。
「ここだ。北部の炭鉱ギルド。君の指摘通り、輸送時の『目減り分』が不自然に多い。恐らく中継地点の商人が、一部を横流ししているのだろう。……なぜこれに、我が領の監査官たちは気づかなかったのだ」
「それは、彼らが『善人』だからですわ。閣下。相手が『まさか盗んでいるはずがない』という性善説に立ってしまえば、数字の歪みは単なる誤差に見えてしまいますの。……でも、数字は嘘をつきませんわ。嘘をつくのは、常にそれを取り扱う人間です」
クロナは、ペンを走らせながら淡々と言った。
「閣下、今すぐこの中継商人の資産調査を行ってくださいな。おそらく、彼の自宅の倉庫には、報告されていない上質な石炭が山積みになっていますわよ。……あ、ついでに彼の過去五年の取引履歴も差し押さえましょう。余罪が金貨の山のように出てくるはずですわ」
ゼクスは、その冷徹ながらも確かな根拠に基づいた指示を聞き、思わずふっと笑みをこぼした。
「……素晴らしい。指示が的確すぎて、こちらが何も考える必要がないな。ジュリアン殿下が、なぜ君を手放そうとしたのか、いよいよ理解に苦しむ」
「殿下は、会話を『音のキャッチボール』だと思っておいででしたから。意味のある情報をやり取りするという概念が、そもそも欠落していたのですわ。……閣下、私、今の会話だけで寿命が三ヶ月は延びた気がします」
「会話だけで寿命が延びるのか?」
「ええ。言ったことが一回で伝わり、即座に実行に移される。……これほどストレスのない環境、私にとっては天国も同然ですわ」
クロナは、弾むような心持ちで次の帳簿を手に取った。
マリス王国にいた頃は、常に自分の知性を隠し、無能な王子の顔を立てるために、わざと遠回りをしなければならなかった。
だが、ここでは違う。
「ゼクス閣下、次は南部の灌漑施設の予算についてですが……」
「ああ、そちらは昨年の洪水の影響で補修費が嵩んでいる。……待て、君の言いたいことは分かっている。資材の調達先が独占状態にある、と言いたいのだろう?」
「……! その通りですわ。さすがは閣下。話が早くてときめきますわね」
クロナが屈託のない笑顔でそう言うと、ゼクスはわずかに目を見開いた後、拳で口元を隠して視線を逸らした。
「……ときめく、か。君の基準はどこまでも経済的だな」
「あら、経済活動の円滑な進行こそ、最高のリラクゼーションではありませんこと?」
「……やれやれ。私のアドバイザーは、やはり一筋縄ではいかないようだ」
ゼクスは立ち上がり、扉の方へ向かいかけたが、ふと立ち止まってクロナを振り返った。
「クロナ。今日の午後、少し時間が取れるか。……領内の視察という名目で、街へ連れ出したい。たまには数字以外の景色も見ておくべきだろう」
「視察、ですか。……いいですわね。市場の価格推移や、庶民の購買意欲を直接確認できる貴重な機会ですもの。喜んでお供いたしますわ」
「……市場調査のつもりで行くのではないのだがな。まあ、いい。君らしい」
ゼクスが去った後、クロナは再び帳簿に向き直った。
だが、その心臓は、いつもより少しだけ速いリズムを刻んでいた。
「(おかしいですわね。代謝が上がっているのかしら……。それとも、この領地の空気が私に合いすぎているのかしら)」
クロナは、自分の頬がわずかに熱いのを、ペンを動かす摩擦のせいにして、次の「不正の兆候」へとその鋭い視線を向けた。
知性を認められ、必要とされる。
そんな当たり前の幸せを、彼女はこの隣国で、噛み締めるように手に入れようとしていた。
かつてのマリス王宮であれば、今頃は「殿下が朝寝坊をされた」「リリィ様が朝食のジャムの種類が気に入らないと泣いている」といった、生産性の欠片もない報告が飛び交っていたことだろう。
クロナは、温かいカフェオレを一口飲み、目の前に広げられた領内の流通網図を眺めた。
「……信じられませんわ。サーシャ、見てちょうだい。この物流経路、主要な関所が三箇所もバイパスされているの。誰が考えたのかしら、天才的な節税ルートだわ」
「お嬢様、それは節税ではなく、単にゼクス閣下が効率を重視して整備された正規のルートだと思われますが……」
サーシャが呆れたように、新しい領内の特産品リストを差し出した。
「マリス王国の頃は『王子の機嫌を損ねないための接待費』という謎の項目が予算の三割を占めていましたけれど、ここではその全てが『道路の舗装費』に回っている。……ああ、なんて論理的なのかしら。涙が出そうですわ」
「クロナ嬢、朝から随分と感傷的だな」
不意に背後から声をかけられ、クロナは背筋を伸ばして振り返った。
そこには、公爵としての公務を終えたばかりのゼクスが、少しだけネクタイを緩めた姿で立っていた。
「おはようございます、ゼクス閣下。いえ、感傷的というよりは、あまりの『正常さ』に感動していたのですわ。この領地の帳簿、突っ込みどころが少なすぎて、私の出る幕がないのではないかと不安になるほどです」
「……そうか? 私としては、君が来てから半日で、既に三つの不正会計の兆候を見つけ出されたことに驚愕しているのだが」
ゼクスはクロナの隣に座り、彼女が作成した付箋だらけの資料を覗き込んだ。
「ここだ。北部の炭鉱ギルド。君の指摘通り、輸送時の『目減り分』が不自然に多い。恐らく中継地点の商人が、一部を横流ししているのだろう。……なぜこれに、我が領の監査官たちは気づかなかったのだ」
「それは、彼らが『善人』だからですわ。閣下。相手が『まさか盗んでいるはずがない』という性善説に立ってしまえば、数字の歪みは単なる誤差に見えてしまいますの。……でも、数字は嘘をつきませんわ。嘘をつくのは、常にそれを取り扱う人間です」
クロナは、ペンを走らせながら淡々と言った。
「閣下、今すぐこの中継商人の資産調査を行ってくださいな。おそらく、彼の自宅の倉庫には、報告されていない上質な石炭が山積みになっていますわよ。……あ、ついでに彼の過去五年の取引履歴も差し押さえましょう。余罪が金貨の山のように出てくるはずですわ」
ゼクスは、その冷徹ながらも確かな根拠に基づいた指示を聞き、思わずふっと笑みをこぼした。
「……素晴らしい。指示が的確すぎて、こちらが何も考える必要がないな。ジュリアン殿下が、なぜ君を手放そうとしたのか、いよいよ理解に苦しむ」
「殿下は、会話を『音のキャッチボール』だと思っておいででしたから。意味のある情報をやり取りするという概念が、そもそも欠落していたのですわ。……閣下、私、今の会話だけで寿命が三ヶ月は延びた気がします」
「会話だけで寿命が延びるのか?」
「ええ。言ったことが一回で伝わり、即座に実行に移される。……これほどストレスのない環境、私にとっては天国も同然ですわ」
クロナは、弾むような心持ちで次の帳簿を手に取った。
マリス王国にいた頃は、常に自分の知性を隠し、無能な王子の顔を立てるために、わざと遠回りをしなければならなかった。
だが、ここでは違う。
「ゼクス閣下、次は南部の灌漑施設の予算についてですが……」
「ああ、そちらは昨年の洪水の影響で補修費が嵩んでいる。……待て、君の言いたいことは分かっている。資材の調達先が独占状態にある、と言いたいのだろう?」
「……! その通りですわ。さすがは閣下。話が早くてときめきますわね」
クロナが屈託のない笑顔でそう言うと、ゼクスはわずかに目を見開いた後、拳で口元を隠して視線を逸らした。
「……ときめく、か。君の基準はどこまでも経済的だな」
「あら、経済活動の円滑な進行こそ、最高のリラクゼーションではありませんこと?」
「……やれやれ。私のアドバイザーは、やはり一筋縄ではいかないようだ」
ゼクスは立ち上がり、扉の方へ向かいかけたが、ふと立ち止まってクロナを振り返った。
「クロナ。今日の午後、少し時間が取れるか。……領内の視察という名目で、街へ連れ出したい。たまには数字以外の景色も見ておくべきだろう」
「視察、ですか。……いいですわね。市場の価格推移や、庶民の購買意欲を直接確認できる貴重な機会ですもの。喜んでお供いたしますわ」
「……市場調査のつもりで行くのではないのだがな。まあ、いい。君らしい」
ゼクスが去った後、クロナは再び帳簿に向き直った。
だが、その心臓は、いつもより少しだけ速いリズムを刻んでいた。
「(おかしいですわね。代謝が上がっているのかしら……。それとも、この領地の空気が私に合いすぎているのかしら)」
クロナは、自分の頬がわずかに熱いのを、ペンを動かす摩擦のせいにして、次の「不正の兆候」へとその鋭い視線を向けた。
知性を認められ、必要とされる。
そんな当たり前の幸せを、彼女はこの隣国で、噛み締めるように手に入れようとしていた。
99
あなたにおすすめの小説
【完】婚約者に、気になる子ができたと言い渡されましたがお好きにどうぞ
さこの
恋愛
私の婚約者ユリシーズ様は、お互いの事を知らないと愛は芽生えないと言った。
そもそもあなたは私のことを何にも知らないでしょうに……。
二十話ほどのお話です。
ゆる設定の完結保証(執筆済)です( .ˬ.)"
ホットランキング入りありがとうございます
2021/08/08
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした
今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。
二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。
しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。
元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。
そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。
が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。
このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。
※ざまぁというよりは改心系です。
※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。
【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?
碧井 汐桜香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。
まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。
様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。
第二王子?いりませんわ。
第一王子?もっといりませんわ。
第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は?
彼女の存在意義とは?
別サイト様にも掲載しております
【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい
高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。
だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。
クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。
ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。
【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」と蔑んだ元婚約者へ。今、私は氷帝陛下の隣で大陸一の幸せを掴んでいます。
椎名シナ
恋愛
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」
ーーかつて私、エリアーナ・フォン・クライネルは、婚約者であったクラウヴェルト王国第一王子アルフォンスにそう蔑まれ、偽りの聖女マリアベルの奸計によって全てを奪われ、追放されましたわ。ええ、ええ、あの時の絶望と屈辱、今でも鮮明に覚えていますとも。
ですが、ご心配なく。そんな私を拾い上げ、その凍てつくような瞳の奥に熱い情熱を秘めた隣国ヴァルエンデ帝国の若き皇帝、カイザー陛下が「お前こそが、我が探し求めた唯一無二の宝だ」と、それはもう、息もできないほどの熱烈な求愛と、とろけるような溺愛で私を包み込んでくださっているのですもの。
今ではヴァルエンデ帝国の皇后として、かつて「無能」と罵られた私の知識と才能は大陸全土を驚かせ、帝国にかつてない繁栄をもたらしていますのよ。あら、風の噂では、私を捨てたクラウヴェルト王国は、偽聖女の力が消え失せ、今や滅亡寸前だとか? 「エリアーナさえいれば」ですって?
これは、どん底に突き落とされた令嬢が、絶対的な権力と愛を手に入れ、かつて自分を見下した愚か者たちに華麗なる鉄槌を下し、大陸一の幸せを掴み取る、痛快極まりない逆転ざまぁ&極甘溺愛ストーリー。
さあ、元婚約者のアルフォンス様? 私の「穀潰し」ぶりが、どれほどのものだったか、その目でとくとご覧にいれますわ。もっとも、今のあなたに、その資格があるのかしら?
――え? ヴァルエンデ帝国からの公式声明? 「エリアーナ皇女殿下のご生誕を祝福し、クラウヴェルト王国には『適切な対応』を求める」ですって……?
【完】貴方達が出ていかないと言うのなら、私が出て行きます!その後の事は知りませんからね
さこの
恋愛
私には婚約者がいる。
婚約者は伯爵家の次男、ジェラール様。
私の家は侯爵家で男児がいないから家を継ぐのは私です。お婿さんに来てもらい、侯爵家を未来へ繋いでいく、そう思っていました。
全17話です。
執筆済みなので完結保証( ̇ᵕ ̇ )
ホットランキングに入りました。ありがとうございますペコリ(⋆ᵕᴗᵕ⋆).+*
2021/10/04
【完結】高嶺の花がいなくなった日。
紺
恋愛
侯爵令嬢ルノア=ダリッジは誰もが認める高嶺の花。
清く、正しく、美しくーーそんな彼女がある日忽然と姿を消した。
婚約者である王太子、友人の子爵令嬢、教師や使用人たちは彼女の失踪を機に大きく人生が変わることとなった。
※ざまぁ展開多め、後半に恋愛要素あり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる