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「……驚きましたわ。この国の税収報告書、なんて美しく整理されているのかしら。数字が、数字が私に微笑みかけているようですわ!」
隣国・アルトワ公爵領の執務室。
クロナは、山のように積まれた帳簿を前に、今日一番の輝かしい笑顔を見せていた。
その様子を、デスクの向こう側から眺めていたゼクス・アルトワは、呆れたように、しかしどこか満足げに口角を上げた。
「……到着してまだ一時間も経っていないのだぞ、クロナ。普通なら長旅の疲れを癒やすために、茶の一杯でも飲むのが令嬢というものではないのか?」
「何を仰いますの、旦那様。……あ、まだ契約上の婚約者でしたわね。……私にとって、この整然とした帳簿こそが何よりの特効薬ですわ。マリス王国の、あの支離滅裂な『どんぶり勘定』に毒されていた脳が、みるみる浄化されていくのが分かります」
クロナは、羽ペンを猛烈な速さで動かしながら、次々と書類に目を通していく。
「見てください、この物流コストの計算。無駄が一切ありませんわ。流石は閣下が治める領地です。……ですが、ここ。西の街道の維持費、もう少し圧縮できる余地がありますわね。資材の調達先を、北のギルドに切り替えれば、年間の経費を五パーセントは削減できますわ」
ゼクスは椅子から立ち上がり、クロナの背後からその手元を覗き込んだ。
「……ほう。そこは私も懸案事項としていた場所だ。だが、北のギルドは気難しくて有名でな。交渉が難航すると踏んでいたのだが」
「あら。交渉とは、相手に利益を見せるだけのことではなく、相手の『弱み』という名の負債を買い取ることですわ。……閣下、こちらの資料をご覧ください」
クロナは、持参した自分の鞄から、マリス王国から「救い出してきた」情報書類を取り出した。
「北のギルドの長は、かつてマリス王国の商人と不適切な取引を行っていました。その証拠を私は握っております。……これを『誠意ある対談』の材料として使えば、彼らは喜んで閣下の条件を呑むでしょう。……ふふ、悪いことには使っていませんわよ? ただの『適正価格への調整』ですわ」
ゼクスは一瞬絶句したが、やがて低い笑い声を漏らした。
「……君を敵に回さなくて本当に良かった。マリス王国の王子は、国宝をドブに捨てたという自覚が、まだないのだろうな」
「殿下には、高尚すぎる宝だったのでしょう。……それより、閣下。私の部屋の隣を執務室にしてくださって、感謝いたします。おかげで、寝る直前まで数字に囲まれる幸せを噛み締められますわ」
「……少しは休むことも契約に含めるべきだったか。君が過労で倒れでもしたら、私の領地の税収アップ計画が狂ってしまうからな」
ゼクスは、クロナの肩にそっと手を置いた。
その手の温かさに、クロナは一瞬だけペンを止めた。
「閣下……?」
「ここでは、君を縛るものは何もない。君の知性を、君の望むままに、この国の未来のために使ってほしい。……その代わり、私の隣にいる時だけは、少しだけ『仕事』以外の顔を見せてくれないか?」
クロナは、冬の湖のようなゼクスの瞳に見つめられ、珍しく言葉を詰まらせた。
「……え、演技の練習、ですわね? 承知いたしました。……ええと、では。……旦那様、今日の夕食は、予算の範囲内で最高に豪華なものを期待しておりますわ!」
「……フッ。やはり君は、最後まで数字から離れられんようだな」
ゼクスは苦笑しながら、クロナの髪に優しく触れた。
「(まあ……。殿下といた時は、あんなに苦痛だった接触が、ゼクス閣下だと……なんだか、脳の計算速度が上がってしまうような、不思議な感覚ですわね)」
クロナは、心臓の鼓動がわずかに早まるのを感じながらも、それを「新しい環境による代謝の向上」と無理やり結論づけた。
「さあ、閣下! 次の帳簿をお願いします! 夜明けまでに、この領地の潜在的収益を全て洗い出してみせますわ!」
「……やれやれ。私の秘書官は、世界で一番美しく、そして一番働き者らしい」
新しい国の、新しい執務室。
そこには、元婚約者の愚痴も、理不尽な搾取もない。
あるのは、信頼できるパートナーと、無限に広がる可能性という名の、美しい数字の海だった。
クロナ・フォン・ロベールの第二の人生は、最高に効率的で、そしてほんの少しだけ甘やかな予感と共に、幕を開けたのである。
隣国・アルトワ公爵領の執務室。
クロナは、山のように積まれた帳簿を前に、今日一番の輝かしい笑顔を見せていた。
その様子を、デスクの向こう側から眺めていたゼクス・アルトワは、呆れたように、しかしどこか満足げに口角を上げた。
「……到着してまだ一時間も経っていないのだぞ、クロナ。普通なら長旅の疲れを癒やすために、茶の一杯でも飲むのが令嬢というものではないのか?」
「何を仰いますの、旦那様。……あ、まだ契約上の婚約者でしたわね。……私にとって、この整然とした帳簿こそが何よりの特効薬ですわ。マリス王国の、あの支離滅裂な『どんぶり勘定』に毒されていた脳が、みるみる浄化されていくのが分かります」
クロナは、羽ペンを猛烈な速さで動かしながら、次々と書類に目を通していく。
「見てください、この物流コストの計算。無駄が一切ありませんわ。流石は閣下が治める領地です。……ですが、ここ。西の街道の維持費、もう少し圧縮できる余地がありますわね。資材の調達先を、北のギルドに切り替えれば、年間の経費を五パーセントは削減できますわ」
ゼクスは椅子から立ち上がり、クロナの背後からその手元を覗き込んだ。
「……ほう。そこは私も懸案事項としていた場所だ。だが、北のギルドは気難しくて有名でな。交渉が難航すると踏んでいたのだが」
「あら。交渉とは、相手に利益を見せるだけのことではなく、相手の『弱み』という名の負債を買い取ることですわ。……閣下、こちらの資料をご覧ください」
クロナは、持参した自分の鞄から、マリス王国から「救い出してきた」情報書類を取り出した。
「北のギルドの長は、かつてマリス王国の商人と不適切な取引を行っていました。その証拠を私は握っております。……これを『誠意ある対談』の材料として使えば、彼らは喜んで閣下の条件を呑むでしょう。……ふふ、悪いことには使っていませんわよ? ただの『適正価格への調整』ですわ」
ゼクスは一瞬絶句したが、やがて低い笑い声を漏らした。
「……君を敵に回さなくて本当に良かった。マリス王国の王子は、国宝をドブに捨てたという自覚が、まだないのだろうな」
「殿下には、高尚すぎる宝だったのでしょう。……それより、閣下。私の部屋の隣を執務室にしてくださって、感謝いたします。おかげで、寝る直前まで数字に囲まれる幸せを噛み締められますわ」
「……少しは休むことも契約に含めるべきだったか。君が過労で倒れでもしたら、私の領地の税収アップ計画が狂ってしまうからな」
ゼクスは、クロナの肩にそっと手を置いた。
その手の温かさに、クロナは一瞬だけペンを止めた。
「閣下……?」
「ここでは、君を縛るものは何もない。君の知性を、君の望むままに、この国の未来のために使ってほしい。……その代わり、私の隣にいる時だけは、少しだけ『仕事』以外の顔を見せてくれないか?」
クロナは、冬の湖のようなゼクスの瞳に見つめられ、珍しく言葉を詰まらせた。
「……え、演技の練習、ですわね? 承知いたしました。……ええと、では。……旦那様、今日の夕食は、予算の範囲内で最高に豪華なものを期待しておりますわ!」
「……フッ。やはり君は、最後まで数字から離れられんようだな」
ゼクスは苦笑しながら、クロナの髪に優しく触れた。
「(まあ……。殿下といた時は、あんなに苦痛だった接触が、ゼクス閣下だと……なんだか、脳の計算速度が上がってしまうような、不思議な感覚ですわね)」
クロナは、心臓の鼓動がわずかに早まるのを感じながらも、それを「新しい環境による代謝の向上」と無理やり結論づけた。
「さあ、閣下! 次の帳簿をお願いします! 夜明けまでに、この領地の潜在的収益を全て洗い出してみせますわ!」
「……やれやれ。私の秘書官は、世界で一番美しく、そして一番働き者らしい」
新しい国の、新しい執務室。
そこには、元婚約者の愚痴も、理不尽な搾取もない。
あるのは、信頼できるパートナーと、無限に広がる可能性という名の、美しい数字の海だった。
クロナ・フォン・ロベールの第二の人生は、最高に効率的で、そしてほんの少しだけ甘やかな予感と共に、幕を開けたのである。
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