婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの

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アルトワ公爵邸の朝は、驚くほど静かで、そして機能的だった。

かつてのマリス王宮であれば、今頃は「殿下が朝寝坊をされた」「リリィ様が朝食のジャムの種類が気に入らないと泣いている」といった、生産性の欠片もない報告が飛び交っていたことだろう。

クロナは、温かいカフェオレを一口飲み、目の前に広げられた領内の流通網図を眺めた。

「……信じられませんわ。サーシャ、見てちょうだい。この物流経路、主要な関所が三箇所もバイパスされているの。誰が考えたのかしら、天才的な節税ルートだわ」

「お嬢様、それは節税ではなく、単にゼクス閣下が効率を重視して整備された正規のルートだと思われますが……」

サーシャが呆れたように、新しい領内の特産品リストを差し出した。

「マリス王国の頃は『王子の機嫌を損ねないための接待費』という謎の項目が予算の三割を占めていましたけれど、ここではその全てが『道路の舗装費』に回っている。……ああ、なんて論理的なのかしら。涙が出そうですわ」

「クロナ嬢、朝から随分と感傷的だな」

不意に背後から声をかけられ、クロナは背筋を伸ばして振り返った。
そこには、公爵としての公務を終えたばかりのゼクスが、少しだけネクタイを緩めた姿で立っていた。

「おはようございます、ゼクス閣下。いえ、感傷的というよりは、あまりの『正常さ』に感動していたのですわ。この領地の帳簿、突っ込みどころが少なすぎて、私の出る幕がないのではないかと不安になるほどです」

「……そうか? 私としては、君が来てから半日で、既に三つの不正会計の兆候を見つけ出されたことに驚愕しているのだが」

ゼクスはクロナの隣に座り、彼女が作成した付箋だらけの資料を覗き込んだ。

「ここだ。北部の炭鉱ギルド。君の指摘通り、輸送時の『目減り分』が不自然に多い。恐らく中継地点の商人が、一部を横流ししているのだろう。……なぜこれに、我が領の監査官たちは気づかなかったのだ」

「それは、彼らが『善人』だからですわ。閣下。相手が『まさか盗んでいるはずがない』という性善説に立ってしまえば、数字の歪みは単なる誤差に見えてしまいますの。……でも、数字は嘘をつきませんわ。嘘をつくのは、常にそれを取り扱う人間です」

クロナは、ペンを走らせながら淡々と言った。

「閣下、今すぐこの中継商人の資産調査を行ってくださいな。おそらく、彼の自宅の倉庫には、報告されていない上質な石炭が山積みになっていますわよ。……あ、ついでに彼の過去五年の取引履歴も差し押さえましょう。余罪が金貨の山のように出てくるはずですわ」

ゼクスは、その冷徹ながらも確かな根拠に基づいた指示を聞き、思わずふっと笑みをこぼした。

「……素晴らしい。指示が的確すぎて、こちらが何も考える必要がないな。ジュリアン殿下が、なぜ君を手放そうとしたのか、いよいよ理解に苦しむ」

「殿下は、会話を『音のキャッチボール』だと思っておいででしたから。意味のある情報をやり取りするという概念が、そもそも欠落していたのですわ。……閣下、私、今の会話だけで寿命が三ヶ月は延びた気がします」

「会話だけで寿命が延びるのか?」

「ええ。言ったことが一回で伝わり、即座に実行に移される。……これほどストレスのない環境、私にとっては天国も同然ですわ」

クロナは、弾むような心持ちで次の帳簿を手に取った。
マリス王国にいた頃は、常に自分の知性を隠し、無能な王子の顔を立てるために、わざと遠回りをしなければならなかった。
だが、ここでは違う。

「ゼクス閣下、次は南部の灌漑施設の予算についてですが……」

「ああ、そちらは昨年の洪水の影響で補修費が嵩んでいる。……待て、君の言いたいことは分かっている。資材の調達先が独占状態にある、と言いたいのだろう?」

「……! その通りですわ。さすがは閣下。話が早くてときめきますわね」

クロナが屈託のない笑顔でそう言うと、ゼクスはわずかに目を見開いた後、拳で口元を隠して視線を逸らした。

「……ときめく、か。君の基準はどこまでも経済的だな」

「あら、経済活動の円滑な進行こそ、最高のリラクゼーションではありませんこと?」

「……やれやれ。私のアドバイザーは、やはり一筋縄ではいかないようだ」

ゼクスは立ち上がり、扉の方へ向かいかけたが、ふと立ち止まってクロナを振り返った。

「クロナ。今日の午後、少し時間が取れるか。……領内の視察という名目で、街へ連れ出したい。たまには数字以外の景色も見ておくべきだろう」

「視察、ですか。……いいですわね。市場の価格推移や、庶民の購買意欲を直接確認できる貴重な機会ですもの。喜んでお供いたしますわ」

「……市場調査のつもりで行くのではないのだがな。まあ、いい。君らしい」

ゼクスが去った後、クロナは再び帳簿に向き直った。
だが、その心臓は、いつもより少しだけ速いリズムを刻んでいた。

「(おかしいですわね。代謝が上がっているのかしら……。それとも、この領地の空気が私に合いすぎているのかしら)」

クロナは、自分の頬がわずかに熱いのを、ペンを動かす摩擦のせいにして、次の「不正の兆候」へとその鋭い視線を向けた。
知性を認められ、必要とされる。
そんな当たり前の幸せを、彼女はこの隣国で、噛み締めるように手に入れようとしていた。
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