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「……信じられん。三日だぞ。君がここに来てから、まだ三日しか経っていないというのに」
アルトワ公爵領の執務室に、ゼクスの驚愕を含んだ声が響いた。
彼の目の前には、美しく整頓された十数冊のファイルが並んでいる。
それは、彼が数ヶ月かけて片付ける予定だった、領内の複雑怪奇な権利関係の整理案だった。
「あら。閣下、お言葉ですが、三日もあれば世界は作れると神話にもありますわ。それに比べれば、たかが数十年分の利権争いの整理など、パズルを解くようなものですわよ」
クロナは、ペンを耳に挟んだまま(本人は無自覚だが、非常に事務官らしい格好である)、涼しい顔で紅茶を啜った。
「パズルだと……? この案件は、先代の頃から膠着状態にあった難問だ。それを君は、たった数枚の追加条項と、周辺農家への『肥料の無償提供』という交換条件だけで解決してしまった」
「簡単なことですわ。彼らが執着していたのは『土地の所有権』という名のプライド。ですが、彼らが本当に必要としていたのは『来年の収穫高』という名の現金(キャッシュフロー)でしたの」
クロナは、算盤を弾きながら続けた。
「プライドに値段はつけられませんが、肥料と収穫の期待値なら計算できます。彼らにとって、将来の不確かな権利よりも、目の前の確実な利益の方が魅力的だった。ただそれだけのことですわ」
ゼクスは、机に手をつき、まじまじとクロナの顔を見つめた。
西日に照らされた彼女の横顔は、計算に没頭しているせいか、どこか神聖な美しさすら漂わせている。
「……君は、本当に人間なのか? それとも、計算の女神が人の姿を借りて現れたのか?」
「失礼ね、閣下。私は血も涙も、そして美味しいお菓子への情熱も持った、ごく普通の令嬢ですわ。……あ、ただ一つ普通でないとすれば、無能な男に対する忍耐力が、極端に低いことくらいかしら」
クロナが屈託なく笑うと、ゼクスの心臓が不意に、ドクンと大きく跳ねた。
彼は慌てて視線を逸らし、手元の書類を無意味にめくった。
「(……いかんな。彼女の知性に惹かれたのは確かだが、今の笑顔は、あまりに……)」
「閣下? 顔が赤いようですが、風邪かしら。……大変、閣下が倒れたら、私のこの完璧な事業計画書の承認が遅れてしまいますわ! 今すぐ検温を……!」
「いや、大丈夫だ。少し部屋が暑いだけだ。……それよりクロナ、君にこれを渡しておこうと思ってな」
ゼクスは、上着の内ポケットから小さな小箱を取り出し、デスクの上に置いた。
クロナが怪訝そうに蓋を開けると、そこには深い青色をした、見事なサファイアのブローチが収められていた。
「まあ……。これはまた、市場価値の高そうな石ですわね。閣下、これは何の経費かしら? お祝いのボーナス? それとも、賄賂?」
「……贈り物だと言ったら、君は怒るのか?」
「贈り物、ですか。対価のない贈与は、後の人間関係に歪みを生む可能性がありますけれど……」
クロナはブローチを手に取り、窓の光に透かして見た。
その瞳が、サファイアと同じくらい、あるいはそれ以上に美しく輝く。
「……でも、この石のカット、光の屈折率を最大限に活かした素晴らしい仕事ですわ。閣下、私の瞳の色に合わせて選んでくださったの?」
「……気づいたか。君の目は、数字を追っている時が一番美しい。だが、たまにはその目を、私の方にも向けてほしいと思ってな」
ゼクスは、自分でも驚くほど素直な言葉を口にしていた。
クロナは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くしたが、やがて頬を薔薇色に染めて、ブローチを胸元に当てた。
「……承知いたしました。では、この贈り物を『私の忠誠心と労働意欲を維持するための、必要不可欠な先行投資』として受理させていただきますわ。……ありがとうございます、旦那様」
「……その呼び方は、契約の上だけにするんだったな」
「あら、閣下の前では、プライベートでもよろしいかと思いまして。……だって、閣下は私に『仕事以外の顔を見せてほしい』と仰ったでしょう?」
クロナが少しだけ悪戯っぽく微笑むと、ゼクスはついに降参したように溜息をついた。
「(……参ったな。私はどうやら、とんでもない劇薬を妻に迎えてしまったらしい)」
有能すぎる婚約者は、彼の領地だけでなく、公爵自身の理性という名の鉄壁の防衛線をも、着実に、そして容赦なく崩し始めていた。
一方、その頃。
マリス王国では、クロナという「最強の屋台骨」を失った王室が、目に見えて崩壊の音を立て始めていたのだが……。
今のクロナにとって、そんなことはもはや「償却済みの過去」でしかなかった。
アルトワ公爵領の執務室に、ゼクスの驚愕を含んだ声が響いた。
彼の目の前には、美しく整頓された十数冊のファイルが並んでいる。
それは、彼が数ヶ月かけて片付ける予定だった、領内の複雑怪奇な権利関係の整理案だった。
「あら。閣下、お言葉ですが、三日もあれば世界は作れると神話にもありますわ。それに比べれば、たかが数十年分の利権争いの整理など、パズルを解くようなものですわよ」
クロナは、ペンを耳に挟んだまま(本人は無自覚だが、非常に事務官らしい格好である)、涼しい顔で紅茶を啜った。
「パズルだと……? この案件は、先代の頃から膠着状態にあった難問だ。それを君は、たった数枚の追加条項と、周辺農家への『肥料の無償提供』という交換条件だけで解決してしまった」
「簡単なことですわ。彼らが執着していたのは『土地の所有権』という名のプライド。ですが、彼らが本当に必要としていたのは『来年の収穫高』という名の現金(キャッシュフロー)でしたの」
クロナは、算盤を弾きながら続けた。
「プライドに値段はつけられませんが、肥料と収穫の期待値なら計算できます。彼らにとって、将来の不確かな権利よりも、目の前の確実な利益の方が魅力的だった。ただそれだけのことですわ」
ゼクスは、机に手をつき、まじまじとクロナの顔を見つめた。
西日に照らされた彼女の横顔は、計算に没頭しているせいか、どこか神聖な美しさすら漂わせている。
「……君は、本当に人間なのか? それとも、計算の女神が人の姿を借りて現れたのか?」
「失礼ね、閣下。私は血も涙も、そして美味しいお菓子への情熱も持った、ごく普通の令嬢ですわ。……あ、ただ一つ普通でないとすれば、無能な男に対する忍耐力が、極端に低いことくらいかしら」
クロナが屈託なく笑うと、ゼクスの心臓が不意に、ドクンと大きく跳ねた。
彼は慌てて視線を逸らし、手元の書類を無意味にめくった。
「(……いかんな。彼女の知性に惹かれたのは確かだが、今の笑顔は、あまりに……)」
「閣下? 顔が赤いようですが、風邪かしら。……大変、閣下が倒れたら、私のこの完璧な事業計画書の承認が遅れてしまいますわ! 今すぐ検温を……!」
「いや、大丈夫だ。少し部屋が暑いだけだ。……それよりクロナ、君にこれを渡しておこうと思ってな」
ゼクスは、上着の内ポケットから小さな小箱を取り出し、デスクの上に置いた。
クロナが怪訝そうに蓋を開けると、そこには深い青色をした、見事なサファイアのブローチが収められていた。
「まあ……。これはまた、市場価値の高そうな石ですわね。閣下、これは何の経費かしら? お祝いのボーナス? それとも、賄賂?」
「……贈り物だと言ったら、君は怒るのか?」
「贈り物、ですか。対価のない贈与は、後の人間関係に歪みを生む可能性がありますけれど……」
クロナはブローチを手に取り、窓の光に透かして見た。
その瞳が、サファイアと同じくらい、あるいはそれ以上に美しく輝く。
「……でも、この石のカット、光の屈折率を最大限に活かした素晴らしい仕事ですわ。閣下、私の瞳の色に合わせて選んでくださったの?」
「……気づいたか。君の目は、数字を追っている時が一番美しい。だが、たまにはその目を、私の方にも向けてほしいと思ってな」
ゼクスは、自分でも驚くほど素直な言葉を口にしていた。
クロナは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くしたが、やがて頬を薔薇色に染めて、ブローチを胸元に当てた。
「……承知いたしました。では、この贈り物を『私の忠誠心と労働意欲を維持するための、必要不可欠な先行投資』として受理させていただきますわ。……ありがとうございます、旦那様」
「……その呼び方は、契約の上だけにするんだったな」
「あら、閣下の前では、プライベートでもよろしいかと思いまして。……だって、閣下は私に『仕事以外の顔を見せてほしい』と仰ったでしょう?」
クロナが少しだけ悪戯っぽく微笑むと、ゼクスはついに降参したように溜息をついた。
「(……参ったな。私はどうやら、とんでもない劇薬を妻に迎えてしまったらしい)」
有能すぎる婚約者は、彼の領地だけでなく、公爵自身の理性という名の鉄壁の防衛線をも、着実に、そして容赦なく崩し始めていた。
一方、その頃。
マリス王国では、クロナという「最強の屋台骨」を失った王室が、目に見えて崩壊の音を立て始めていたのだが……。
今のクロナにとって、そんなことはもはや「償却済みの過去」でしかなかった。
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