婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの

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「……なんだこれは! この数字の羅列は、僕を呪うための呪文か何かか!?」


マリス王宮、第一王子の執務室。
かつてはクロナが完璧に整理整頓し、常に薔薇の香りが漂っていたその場所は、今や紙屑と書き損じの山に埋もれていた。


ジュリアンは、目の前の「週間予算執行計画書」を掴み、髪を振り乱して叫んだ。


「殿下、落ち着いてください。それは単なる、来週の王宮の食費と光熱費の予定表でございます」


傍らに立つ老事務官は、死んだような魚の目で淡々と告げた。
彼は、クロナがいなくなった後に急遽呼び戻されたベテランだが、既に辞表を胸に忍ばせている。


「予定表だと!? なぜ食費だけで金貨百枚もかかるんだ! 先月までは、もっと安かったはずだろう!」


「先月までは、ロベール侯爵家が運営する農場から、最高級の食材が『婚約者特別割引(実質無料)』で納入されておりましたから。……現在は、全て市価……いえ、お嬢様が設定された『不義理料上乗せ価格』での購入となっております」


「不義理料だと!? あいつ、どこまでがめついんだ!」


ジュリアンは机を叩いたが、その衝撃で積み上げられていた書類の塔が崩れ、彼の頭上に降り注いだ。


「あいたたた! ……もういい、計算は後回しだ。それより、学会に提出する論文の修正はどうなった? 例の、逆関数の式を直せばいいんだろう?」


「……それが。国内の数学者たちを総動員いたしましたが、誰一人としてクロナ様が組み込んだ『罠』を解除できませんでした。……というか、そもそもあの数式の論理構成自体が高度すぎて、我々では読み解くことすら叶わないのです」


「なんだと!? マリス王国の知性を集めても、女一人の頭脳に勝てないというのか!」


「お言葉ですが殿下。お嬢様は『女一人』などという枠に収まるお方ではありません。……あの方は、歩く国家予算、あるいは生ける法典でございますよ」


事務官が溜息をついたその時、扉が遠慮がちに開いた。
現れたのは、これまたやつれた様子のリリィだった。


「ジュ、ジュリアン様……。あの、私の実家の方に、また怖い顔をした徴収官の方が来ていて……」


リリィの格好は、以前のような華やかなドレスではない。
クロナに買い取られた私物の代わりに、手持ちの古い服を無理やり仕立て直したものだ。心なしか、フリルにも元気がなかった。


「リリィ! 君までそんな話を……! 今は僕だって大変なんだ! この紙の山を見てくれ!」


「でも、ジュリアン様! 『愛があれば、お金なんて関係ない』って仰ったじゃないですか! それなのに、お家のピアノまで持っていかれそうなんですわよ!」


「それは、その……クロナがあまりにも卑怯な手を……!」


「あら、殿下。愛だけでピアノは弾けませんわよ?」


二人が言い争っていると、廊下から聞き慣れた、しかし今は恐怖でしかない冷ややかな声が聞こえたような気がして、ジュリアンはびくりと肩を震わせた。


だが、そこにいたのはクロナではなく、彼女の父、ロベール侯爵だった。
彼は冷徹な事務作業用の眼鏡をかけ、無表情で部屋に足を踏み入れた。


「ロ、ロベール侯爵! ちょうどいい、君からも娘に言うんだ! こんな嫌がらせはやめろと!」


「嫌がらせ? 何のことですかな。私はただ、陛下からの委託を受けて、王室の『資産健全化』のお手伝いに来ただけですぞ」


侯爵は、手元の分厚いファイルをバサリと机に置いた。


「殿下、こちらの資料によれば、貴方が個人的に作られた負債の利息が、本日正午をもって法定利息の限界値を突破いたしました。……つきましては、王族費の差し押さえ、及び殿下の所有される私財の競売手続きを開始させていただきます」


「き、競売……!? 僕のコレクションや、あの名馬もか!?」


「ええ。全てはクロナへの……いえ、ロベール家への返済に充てさせていただきます。……あ、そうそう。お嬢様から隣国を通じて伝言を預かっております。――『数字に感情を持ち込むのは素人のすることですわ。せいぜい、無一文の愛を楽しんでくださいな』……だそうです」


ジュリアンは、ついにその場にへたり込んだ。
リリィは「無一文なんて嫌ですわー!」と叫んで泣き崩れた。


かつてクロナがいた頃、この部屋は希望と効率に満ちていた。
だが、その「当たり前の幸福」を支えていたのは、彼女という圧倒的な知性の献身だったのである。


「……クロナ。君は、君は本当に……」


ジュリアンの呟きは、虚しく紙の山に吸い込まれていった。
彼が自分の犯した過ちの大きさを、本当の意味で……つまり「金額的」に理解するには、まだもう少し時間が必要なようだった。


一方その頃、隣国のクロナは、ゼクス公爵と共に高級なマカロンを頬張りながら、領地の「増収報告」に鼻歌を歌っていたのだが。
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