婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。

パリパリかぷちーの

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揺れる馬車の中で、私はアイザック様が差し出したサンドイッチ(ローストビーフとクレソンのサンド、絶品だった)を完食し、温かい紅茶で一息ついた。

空腹が満たされると、脳の回転数が通常モードに戻る。

私はハンカチで口元を拭い、居住まいを正した。

「さて、閣下。食事も済みましたし、契約の詳細について詰めさせていただきたいのですが」

「ああ、そうだな。仕事熱心で助かるよ」

アイザック様は優雅に紅茶を啜りながら、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「君に頼みたい仕事は大きく分けて二つある」

「二つ、ですか」

「一つ目は、表向きの秘書業務だ。領地経営における財務管理、書類の決裁補助、スケジュール管理。君が元国で王太子の代わりにやっていたことだ。君にとっては朝飯前だろう?」

「ええ、お安い御用です。今の王太子の杜撰な管理に比べれば、どこへ行っても楽に感じるでしょうし」

「手厳しいな」

彼はくっくと喉を鳴らして笑う。

「で、問題は二つ目だ」

アイザック様の表情が、少しだけ真剣なものになる。

「君には、俺の『婚約者』になってもらいたい」

馬車の中に沈黙が落ちた。

私は瞬きを一つし、眼鏡の位置を直した。

「……聞き間違いでなければ、今『婚約者』と仰いましたか?」

「ああ。もちろん、形式上のな。いわゆる『偽装婚約』だ」

「理由をお聞かせ願えますか」

「単純な話だ。俺は独身で、金もあり、地位もある。おまけに顔も悪くない」

「ご自分で仰いますか」

「事実だからな。おかげで、周辺諸国の貴族たちが、こぞって娘を嫁がせようと群がってくるんだ。夜会に出れば令嬢たちに囲まれ、執務室には釣書(結婚相手のプロフィール)の山。正直、鬱陶しくて仕事にならない」

彼は心底うんざりしたように溜息をついた。

「俺は合理的でないことが嫌いだ。愛想笑いや、中身のない社交辞令に時間を費やすくらいなら、書類を一枚でも多く処理したい」

「その意見には全面的に同意します」

私も激しく頷いた。

無駄な社交ほど、人生の時間を浪費するものはない。

「そこで、君だ。カルル嬢」

アイザック様が身を乗り出す。

「君は俺と同類だ。感情よりも効率を優先し、金銭という明確な基準で動く。そして何より、あの王太子を論破した度胸がある」

「はあ」

「君が俺の婚約者として隣にいれば、有象無象の令嬢たちは手出しできなくなるだろう。もし攻めてきても、君なら撃退できる。俺は平穏な執務時間を確保でき、君は高額な報酬を得る。Win-Winの関係だと思わないか?」

なるほど。

理屈は通っている。

彼は「恋人」ではなく、高性能な「防波堤」を求めているわけだ。

私は頭の中で素早く計算を始めた。

秘書業務だけなら事務処理だけで済むが、「婚約者」となるとリスクが跳ね上がる。

社交界での嫉妬、嫌がらせ、場合によっては物理的な危害を加えられる可能性もある。

私は手帳を開き、さらさらとペンを走らせた。

「……条件がございます」

「言ってみろ」

「秘書業務の基本給とは別に、『偽装婚約者手当』の支給をお願いします。これは精神的苦痛に対する対価を含みます」

「いいだろう」

「次に、社交界での衣装代、装飾品代、美容代はすべて閣下の経費で落とすこと。私は広告塔としての役割を果たすわけですから、当然ですよね?」

「構わない。君を着飾らせるのは楽しそうだ」

「それから、もしご令嬢方からの物理攻撃――ワインをかけられる、階段から突き飛ばされる等――が発生した場合の『特別危険手当』および『治療費』の全額負担」

「……随分と具体的な想定だな」

「経験則です」

私は真顔で答えた。

王太子時代、ミナ嬢のファンクラブから受けた嫌がらせは数知れない。

「最後に。もし万が一、どちらかに『本物の好きな人』ができた場合は、速やかに契約を解消すること。違約金は発生しないものとします」

「……ふむ」

アイザック様は少しだけ目を細め、私をじっと見つめた。

そのアイスブルーの瞳に、何かが揺らめいた気がしたが、すぐに消えた。

「分かった。その条件で手を打とう」

「ありがとうございます。では、こちらにサインを」

私は即席で作成した契約書のメモを彼に差し出した。

彼は躊躇なくサインをする。

「交渉成立だな、カルル」

「はい、ボス。……いえ、これからは『アイザック様』とお呼びした方が?」

「そうだな。二人の時は好きにしていいが、人前では親しげに頼むよ。『私の愛しいカルル』?」

「……鳥肌が立ちますので、演技指導は後ほどお願いします」

私が眉をひそめると、彼はまた楽しそうに笑った。

そんな話をしているうちに、馬車の速度が緩み始めた。

「着いたようだな」

窓の外を見ると、巨大な城壁のような門が見えた。

グラン・ノワール公爵邸。

「邸」というよりは、もはや要塞だ。

黒を基調とした重厚な石造りの建物が、月明かりの下にそびえ立っている。

門が開くと、左右にずらりと並んだ使用人たちの姿が見えた。

馬車が止まり、御者が扉を開ける。

アイザック様が先に降り、私に手を差し伸べた。

「ようこそ、我が家へ」

「お邪魔いたします」

私が馬車から降り立つと、並んでいた使用人たちが一斉に頭を下げた。

「お帰りなさいませ、旦那様!!」

その声は、敬意というよりは、恐怖に震えているように聞こえた。

ちらりと見ると、メイドたちの顔色は青く、執事の手は微かに震えている。

(……相当、恐れられているようですね)

アイザック様は彼らには目もくれず、スタスタと歩き出す。

「執事長」

「は、はいっ! 直ちに!」

白髪の老執事が、直立不動で返事をする。

「客室の用意は?」

「と、整っております! 東の塔の最上階、最も警備の厳重なお部屋を……」

「東の塔? あそこは物置だろう。彼女は俺の婚約者だぞ。本邸の、俺の部屋の隣を用意しろ」

「は……?」

執事長が目を丸くして固まった。

周囲のメイドたちも、幽霊でも見たかのような顔で私を見ている。

「こ、婚約者……? 旦那様が……? 女性を……?」

「聞こえなかったか? カルル・フォン・アイゼン嬢だ。今日からここに住む。丁重に扱え」

「は、ははーーっ!! し、失礼いたしましたぁ!!」

執事長が慌てふためき、他の使用人たちもパニック寸前で動き回る。

「おい、客室の準備だ! 急げ!」

「シーツを最高級のものに替えろ!」

「旦那様の部屋の隣!? あそこは長年開かずの間だったはずじゃ!?」

その様子を見て、私は眉間の皺を深くした。

(……動きに無駄が多すぎます)

指示系統が統一されていない。

動線が確保されていないため、廊下ですれ違うメイドたちがぶつかりそうになっている。

掃除が行き届いていないのか、シャンデリアの一部が曇っている。

何より、全員が「公爵に怒られないこと」だけを目的に動いており、効率という概念が欠落している。

職業病だろうか。

私の指先が、無意識にピクリと動いた。

「……アイザック様」

「ん? どうした?」

「早速ですが、最初の仕事に着手してもよろしいでしょうか」

「というと?」

私はパニック状態のホールを見渡して、不敵に微笑んだ。

「この屋敷の『大掃除』です。物理的にも、組織的にも」

アイザック様は、私の視線を追って使用人たちのドタバタ劇を見ると、苦笑いをして肩をすくめた。

「頼む。見ての通り、俺は人の扱いが苦手でね」

「お任せください。一週間以内に、全員を『使える』人材に叩き直してみせます」

私は懐中時計をパチンと閉じた。

まずは現状把握からだ。

「執事長さん。後で屋敷の見取り図と、過去三年分の出納帳、および使用人名簿を持って私の部屋に来てください」

「え、あ、はい……え?」

「十分後にです。遅れた場合は、給与査定に響くと思ってください」

私がニッコリと微笑むと、執事長は「ヒィッ」と短い悲鳴を上げて走り去った。

こうして、私のグラン・ノワール公爵家での生活は、到着早々の業務改善命令から幕を開けたのだった。
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