婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。

パリパリかぷちーの

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夜会の会場を後にした私は、アイゼン公爵家の馬車には乗らず、辻馬車を拾って屋敷へと向かっていた。

公爵家の馬車を使えば、御者が父に今日の出来事を即座に報告してしまう。

心の準備をする時間を少しでも稼ぐための、合理的な判断だった。

揺れる馬車の中で、私は先ほどの出来事を反芻する。

隣国の公爵、アイザック・グラン・ノワール。

別れ際の彼の言葉は、冗談には聞こえなかった。

『明日、正式な雇用契約書を持って君の実家へ向かう。荷物をまとめて待機していてくれ』

『……随分と急な話ですね』

『優秀な人材は、すぐに確保しないと逃げられるからな』

彼はニヤリと笑い、私の手にキスを落とした――ふりをして、こっそりと一枚の紙切れを握らせてきた。

そこには、彼の滞在先と緊急連絡先が走り書きされていた。

(手回しが早い。それに、あの迷いのない決断力……嫌いではありません)

王太子ジェラール殿下との三年間は、決断の先送りと責任の押し付け合いの連続だった。

「どうする?」「君が決めてくれ」「責任は取りたくない」

そんな言葉を聞き続けるストレスから解放された今、私の心は驚くほど軽かった。

だが、問題はこれからだ。

辻馬車が公爵邸の正門前に到着する。

門番が怪訝な顔で私を通した。

深夜の帰宅。

普段なら静まり返っているはずの本邸が、今夜に限って煌々と明かりが灯っている。

(やはり、早馬で知らせが届きましたか)

王太子側近、あるいは会場にいた貴族の誰かが、父に注進したのだろう。

私は深呼吸を一つして、玄関の扉を開けた。

「カルルッ!!」

ホールに足を踏み入れた瞬間、雷のような怒号が飛んできた。

階段の上に立っていたのは、父であるアイゼン公爵だ。

その顔は、先ほどのジェラール殿下と同じくらい赤く、そして怒りに歪んでいる。

「お帰りなさいませ、お父様。夜分に大きな声を出されると、近所迷惑になりましてよ」

「うるさい! 貴様、王太子殿下に何をしたか分かっているのか!?」

父がドシドシと階段を降りてくる。

その後ろには、おろおろと震える母と、ニヤニヤと笑いを堪えている義母妹の姿があった。

「何をしたか、と申されましても。婚約破棄を承諾し、未払い金を請求しただけですが」

「それが問題なのだ! 王家に請求書を突きつけるなど、前代未聞の不敬ではないか!」

父は私の目の前まで来ると、手を振り上げた。

しかし、私は半歩下がってそれを躱す。

空を切った父の手が、行き場を失ってわななと震えた。

「暴力は推奨いたしません。治療費を請求することになりますので」

「貴様……ッ! 我が家に泥を塗る気か! 殿下との婚約は、我が家が王家と繋がりを持つための最重要プロジェクトだったのだぞ!」

「そのプロジェクトは、破綻いたしました。殿下が他の女性に乗り換えたからです」

「そんなものは、お前の努力不足だ! 男の浮気の一つや二つ、笑って許すのが妻の度量だろう!」

私は呆れて溜息が出そうになるのを堪えた。

この父は、いつもこうだ。

事なかれ主義で、長いものには巻かれろという精神の塊。

私がどれだけ裏で王太子の尻拭いをし、公爵家の領地経営の赤字を埋めてきたか、全く理解していない。

「お父様。感情論は置いておいて、数字の話をしましょう」

私は懐から手帳を取り出した。

「王太子殿下との婚約維持にかかるコストは、年間およそ金貨二千枚。対して、そこから得られるリターンは、現状ほぼゼロです。殿下の浪費癖と無能さは周知の事実。将来国王になれるかどうかも怪しい」

「な、無能などと……不敬だぞ!」

「事実です。今回の婚約破棄は、沈みゆく泥舟から脱出する絶好の機会かと。むしろ感謝すべき案件です」

「黙れ黙れ黙れぇッ!」

父は顔を真っ赤にして叫んだ。

論理が通じない相手との交渉は、本当に疲れる。

「お前のような可愛げのない娘は、もう知らん! 王家を敵に回して、この家でタダ飯を食わせてもらえると思うなよ!」

父がビシッと玄関の扉を指差した。

「勘当だ! 今すぐこの家から出て行け! アイゼン家の名を名乗ることも許さん!」

その言葉を待っていた。

私は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、口角をわずかに上げた。

「承知いたしました」

「……は?」

「本日をもってアイゼン家を除籍ということで、合意いたしました。これまで育てていただいた養育費については、私が領地経営で出した利益で相殺済みと判断させていただきます」

私はカーテシーをした。

「では、失礼いたします」

「お、おい待て! 今すぐ出て行けと言ったんだぞ!? 着の身着のままでな!」

父が慌てて叫ぶ。

私が泣いて謝るとでも思ったのだろうか。

「ええ、ですから出て行きます」

私は指をパチンと鳴らした。

すると、影から一人のメイドが現れた。

私の専属侍女、マリアだ。

彼女の両手には、私が事前にまとめておいたトランクケースが二つ握られている。

「お嬢様、準備は整っております」

「ありがとう、マリア。手際が良いわね」

マリアは無表情のまま、「お嬢様の教育の賜物です」と答えた。

彼女もまた、この家の待遇に不満を持っていた一人だ。

私の転職が決まったら、彼女も引き抜く予定である。

「な、なんだその荷物は……?」

「いつかこうなると思いまして、私個人の資産と必要最低限の荷物はまとめておきました。ドレスや宝石は置いていきます。換金すれば少しは足しになるでしょう」

私は父に向き直る。

「それではお父様、お母様。お元気で。事業の失敗にはくれぐれもご注意を」

「ま、待てカルル! 本当に行くのか!?」

「勘当と仰ったのはお父様です。契約成立後のキャンセルは受け付けません」

私はマリアからトランクを受け取ると、呆然とする家族を背に、躊躇なく屋敷の扉を開けた。

夜風が頬を撫でる。

自由だ。

今度こそ、完全に自由だ。

「……さて、とりあえず宿を探さないと」

時刻は深夜零時を回っている。

アイザック様が迎えに来るのは明日の朝と言っていた。

それまでどこかで時間を潰さなければならない。

私は重いトランクを持ち上げ、門へと歩き出した。

その時だった。

カッ、カッ、カッ。

静寂な石畳に、蹄の音が響いた。

闇の中から現れたのは、豪奢な漆黒の馬車。

その扉には、金の装飾で「黒い狼」の紋章が刻まれている。

隣国グラン・ノワール公爵家の紋章だ。

「……まさか」

馬車が私の目の前で止まる。

扉が開き、中から長身の男性が降りてきた。

月明かりに照らされた銀髪が輝く。

アイザック様だ。

彼は驚いたような顔をする私を見て、楽しそうに笑った。

「やあ。随分と早いお出ましだな」

「……閣下。明日の朝とおっしゃいませんでしたか?」

「気が変わったんだ。君の実家の当主の評判を聞いてな。どうせ癇癪を起こして、君を追い出すだろうと予測した」

彼は私の手からトランクをひょいと取り上げ、御者に渡した。

「それに、優秀な秘書を野宿させるわけにはいかないだろう?」

「……監視されていたのですか?」

「保護と言ってほしいな。大切な投資対象だからね」

悪びれもせずに言う彼に、私は呆れると同時に、不思議な安堵感を覚えた。

私の行動パターンを予測し、先回りして手を打つ。

その手腕は、悔しいけれど完璧だった。

「それで? 交渉決裂で家を追い出された、というところか?」

「ええ。勘当されました。無一文の家なき子です」

私が肩をすくめると、彼は満足げに頷いた。

「素晴らしい。これで君は何のしがらみもなく、我が領地に来れるというわけだ」

アイザック様は馬車のステップに足をかけ、私に手を差し伸べた。

「さあ、乗ってくれ。契約の詳細を詰めよう。美味しい夜食と、温かい紅茶も用意してある」

「……夜食代は福利厚生に含まれますか?」

「もちろん。食べ放題だ」

その言葉に、私は思わず口元を緩めた。

「では、お言葉に甘えます。……ボス」

私が彼の手を取ると、アイザック様は今までで一番嬉しそうな顔をした。

「歓迎するよ、カルル。君のその手腕、存分に振るってくれ」

馬車に乗り込むと、中は驚くほど広かった。

ふかふかのクッション、ほのかに香る柑橘系の香り。

そして、小さなテーブルの上には、湯気を立てるポットとサンドイッチが置かれていた。

緊張の糸が切れたのか、急にお腹が空いてきた。

「遠慮なく食べてくれ。まずは腹ごしらえだ。話はそれからでも遅くない」

彼は向かいの席に座り、優雅に足を組んだ。

馬車が動き出す。

窓の外を流れる実家の屋敷は、すぐに闇の中へと消えていった。

寂しさは微塵もない。

あるのは、これから始まる新しい仕事への、静かな闘志と期待だけだった。

「さて、カルル嬢。君に任せたい仕事は山ほどある」

アイザック様が、分厚い書類の束をテーブルの下から取り出した。

「我が領地の財政改革、使用人の再教育、そして……」

彼は少し言葉を濁し、悪戯っぽく笑った。

「俺の元婚約者候補たちからの、防衛業務だ」

「……防衛、ですか」

「ああ。物理的、社会的、あらゆる手段で俺を狙ってくるご令嬢たちの相手をしてほしい。君なら適任だろう?」

「なるほど。害虫駆除の類ですね」

私が即答すると、彼はまた楽しそうに笑った。

「頼もしい限りだ。期待しているよ」

こうして私は、隣国の公爵邸へと向かうことになった。

そこが、王宮以上にカオスで、そしてやりがいのある職場だとは、まだ知る由もなく。
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