婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。

パリパリかぷちーの

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「……異常です」

公爵邸の最上階、主寝室。

天蓋付きの巨大なベッド(キングサイズ)の上で、私は膝を抱えながら呟いた。

「室温二十四度、湿度五十%。照明はリラックス効果のある暖色系。アロマは鎮静作用のあるラベンダー。……環境設定は完璧なはずなのに、心拍数が通常時の二倍から下がりません」

私は胸に手を当てた。

ドクン、ドクン、と早鐘を打っている。

これはまずい。

このままでは、過呼吸による酸欠、あるいは不整脈による業務停止(気絶)のリスクがある。

「マニュアル……マニュアルはどこですか……」

私はサイドテーブルに視線を彷徨わせたが、そこにあるのは水差しとグラスだけだ。

『公爵夫人のための初夜・完全攻略ガイド』なんて都合の良いものは置いていない。

ガチャリ。

重厚な扉が開く音がした。

私はビクリと肩を跳ねさせ、反射的に居住まいを正した。

「お、お疲れ様です!」

入ってきたのは、バスローブ姿のアイザック様だった。

濡れた銀髪をタオルで拭いながら、胸元が少しだけ開いている。

その姿を見た瞬間、私の体温センサーが警告音を鳴らした。

(危険度:Sランク。直視すると視神経が焼かれます)

私は慌てて視線を逸らし、カーテンの柄(幾何学模様)を数えることに集中した。

「……なんだ、その挨拶は」

アイザック様が苦笑しながら近づいてくる。

ベッドが沈む感覚。

隣に、圧倒的な熱量が座った。

「カ、閣下。いえ、アイザック様。入浴はお済みですか? 湯加減は適切でしたか? 石鹸の在庫は……」

「カルル」

私の早口を遮るように、アイザック様の手が私の頬に触れた。

「落ち着け。仕事じゃないんだぞ」

「わ、分かっています。ですが、これは私にとって『未経験業務』ですので、予測不能な事態へのリスクヘッジが……」

「リスクなんてない。あるのは、俺と君だけだ」

彼は私の顎をくい、と持ち上げ、無理やり視線を合わせた。

アイスブルーの瞳が、今は熱を帯びてとろけるような色をしている。

「……綺麗だ」

彼が私の髪に触れる。

今夜のために新調した、最高級シルクのネグリジェ。

肌触りは抜群だが、防御力はゼロに等しい。

「あ、ありがとうございます。この生地は、摩擦係数が低く、睡眠導入には最適で……」

「うん、まだ喋るか」

アイザック様は笑うと、私の唇を塞いだ。

「んっ……!」

思考回路が断絶する。

計算も、分析も、すべてが真っ白に塗りつぶされていく。

唇が離れると、私は酸素を求めてハァハァと息をした。

「……どうだ? 少しは落ち着いたか?」

「……逆効果です。脳内CPUがオーバーヒートしています」

「なら、もっと熱くしてやろうか」

アイザック様が私を押し倒した。

視界が回転し、天井が見える。

覆い被さる彼の影。

「……カルル。君はずっと、損得や効率で生きてきたな」

「はい。それが私の生存戦略ですので」

「だが、今夜だけは忘れろ。計算も、計画もいらない」

彼は私の耳元に唇を寄せ、甘く低い声で囁いた。

「ただ、俺を感じてくれればいい。……愛している」

その言葉は、どんな契約書よりも重く、そして温かく私の心に響いた。

私は震える手を伸ばし、彼の背中に回した。

「……承知いたしました、あなた」

私は眼鏡を――私の最後の武装を、自らの手で外してサイドテーブルに置いた。

視界が少しぼやける。

でも、目の前の愛しい人の顔だけは、はっきりと見えた。

「……お手柔らかにお願いします。初心者ですので」

「善処しよう。……だが、保証はできないな」

アイザック様が獰猛に笑い、部屋の明かりを消した。

暗闇の中。

そこから先は、どんな文献にも記されていない、私たちだけの「特別業務」の時間だった。

***

翌朝。

小鳥のさえずりと共に、私は目を覚ました。

「……うぅ」

体が重い。

全身の筋肉が悲鳴を上げている。

まるで、決算期に三日連続で徹夜をした後のような疲労感だ。

(……激務すぎました)

私はぼんやりとした頭で昨晩の出来事を反芻し、そして枕に顔を埋めて赤面した。

あんな声が出るとは。

あんなに乱れるとは。

私の「冷徹な悪役令嬢」としてのキャラ設定は、完全に崩壊してしまった。

「おはよう、カルル」

隣から、爽やかな声が聞こえた。

アイザック様が、頬杖をついて私を見ていた。

その顔は、肌艶が良く、非常に満足げで、憎らしいほど美しい。

「……おはようございます、アイザック様」

「気分はどうだ?」

「最悪です。全身筋肉痛です。労災を申請したいレベルです」

私が布団から目だけ出して抗議すると、彼はケラケラと笑った。

「それは光栄だな。俺の愛が伝わった証拠だ」

「……愛の質量が大きすぎます」

「ははは。まあ、今日は一日オフだ。ゆっくり休め」

彼は私の額にキスをし、ベッドから起き上がった。

その背中を見ながら、私はふと思った。

(……悪くない)

効率も、利益もない。

ただ消費するだけの時間。

でも、その充足感は、金貨の山を前にした時よりも遥かに大きかった。

「……あ、そうだ」

アイザック様が振り返った。

「朝食はベッドに運ばせる。君の好きなオムレツだそうだ」

「……ルームサービス代は?」

「俺の奢りだ」

「……でしたら、喜んで」

私は布団の中で、小さく微笑んだ。

これが、私の新しい日常。

「公爵夫人」としての生活の、本当の始まりだった。

***

数日後。

体力が回復した私は、早速「通常運転」に戻っていた。

「……というわけで、新婚旅行(ハネムーン)の計画案です」

朝食の席で、私は分厚いファイルを取り出した。

「行き先は、南のリゾート地『サザン・アイランド』。目的は二つあります」

私は眼鏡を光らせた。

「一つは、アイザック様との親睦を深めること」

「うん、それはいいな」

「そしてもう一つは……あそこの特産品である『スパイス』の独占貿易契約を結ぶことです!」

「……やっぱりか」

アイザック様がガクッとなった。

「カルル。新婚旅行くらい、仕事抜きにできないか?」

「無理です。旅費を経費で落とすためには、業務実態が必要ですので」

「俺が全額出すと言ってるだろう!」

「個人の財布から出すのはもったいないです! 法人税対策も兼ねてですね……」

「ああもう! 分かった、好きにしろ!」

アイザック様は笑いながら、私にトーストを差し出した。

「その代わり、夜のスケジュールは俺が管理するからな?」

「……うっ」

「毎晩だぞ。覚悟しておけ」

「……過重労働反対です」

「却下する」

私たちは顔を見合わせて笑い合った。

幸せな新婚生活。

そして、次なるターゲットは南の島。

私の「商魂」と「愛」の旅は、まだまだ終わらない。
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