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それは、いつもの朝食の風景だった。
テーブルには、ふわふわのオムレツと、カリカリに焼かれたベーコン、そして湯気の立つコーヒー。
ルシアンは幸せを噛み締めていた。
アランとミナという『二大騒音源』が去り、森には再び平穏が戻ってきた。
鳥のさえずりと、ナイフとフォークが皿に当たる音だけが響く、至福の時間。
「……キースさん」
「……ん」
「今日のオムレツ、焼き加減が絶妙ですね。中がトロトロです」
「……火加減を調整した」
「貴方、本当に器用ですね。植木屋に大工に料理人……。一体いくつの副業を持っているのですか?」
ルシアンが何気なく尋ねると、キースはコーヒーカップを口に運びながら、視線を逸らした。
「……多趣味なだけだ」
「趣味でプロ級の腕前になれるなら、世の中の職人は廃業ですよ」
そんな軽口を叩き合っていた、その時だった。
スッ……。
音もなく、リビングの窓が開いた。
風ではない。
黒い影が、まるで煙のように室内に侵入し、キースの背後に膝をついたのだ。
「――ご報告に上がりました、閣下」
「!?」
ルシアンは椅子から転げ落ちそうになった。
「な、何!? 忍者!?」
現れたのは、全身を黒装束で包み、顔の半分をマスクで隠した怪しい人物だった。
しかし、その佇まいは洗練されており、ただならぬ殺気――いや、研ぎ澄まされたプロの気配を漂わせている。
(また不審者!? この家、セキュリティはどうなっているの!?)
ルシアンが叫ぼうとした瞬間、その人物は床に額を擦り付けるように平伏した。
「お食事中、大変失礼いたします。しかし、緊急事態につき」
その言葉は、ルシアンではなく、オムレツを食べているキースに向けられていた。
キースは眉一つ動かさず、咀嚼を続け、ゴクリと飲み込んでから口を開いた。
「……裏口から入れと言ったはずだ」
「鍵がかかっておりました」
「……ピッキングしろ」
「閣下の仕掛けた罠(トラップ)が怖くてできません」
「……修行不足だ」
淡々としたやり取り。
ルシアンはポカンと口を開けたまま、二人を交互に見た。
「あ、あの……キースさん? お知り合いですか?」
キースは面倒くさそうに溜息をついた。
「……部下だ」
「部下? 造園業の?」
「いいえ」
黒装束の男が顔を上げ、キリッとした目で答えた。
「我々は、王国諜報部・特殊工作班『影の騎士団』です」
「……は?」
「そして、こちらのキース様こそ、我らが団長にして、王国の裏社会を統べる『影の英雄』、キース・フォン・ハイデマン辺境伯閣下であらせられます!」
「…………」
ルシアンの思考が停止した。
辺境伯?
騎士団長?
影の英雄?
(この人が?)
ルシアンは目の前の男を見た。
エプロン姿(ピンク色のフリル付き、ルシアンが嫌がらせで渡したら普通に着てくれた)で、口元にケチャップをつけたままの男を。
「……嘘でしょう?」
「嘘ではありません! 閣下は十代の頃から戦場を駆け抜け、単身で敵将の首を取り、国内の反乱を未然に防ぎ、数多の暗殺計画を阻止してきた、生ける伝説なのです!」
部下が熱弁を振るう。
「その冷酷無比な仕事ぶりから、『沈黙の処刑人』『歩く要塞』『絶対零度の瞳』と恐れられ……」
「……おい」
キースが低い声で遮った。
「……喋りすぎだ。……舌を抜くぞ」
「ひっ! 申し訳ありません!」
部下は再び平伏した。
ルシアンは震える手でキースを指差した。
「き、キースさん……。貴方、そんなに偉い人だったのですか?」
キースは気まずそうに目を逸らし、ナプキンで口元のケチャップを拭った。
「……肩書きなど、飾りだ」
「飾りにしては重すぎます! 国の中枢じゃないですか!」
「……今は長期休暇中だ」
「休暇中に、公爵令嬢の別荘で屋根を直したりオムレツを焼いたりしているのですか!?」
「……有意義な休暇だ」
「国の損失ですよ!」
ルシアンは頭を抱えた。
ただの「無口なストーカー気質の隣人」だと思っていた男が、国家機密レベルの重要人物だったとは。
「それで、その『影の騎士団』の方が、何の用ですか?」
部下が顔を上げる。
「はい。実は……王都が混乱しておりまして」
「アラン殿下の件?」
「いえ、それもありますが、ガルシア伯爵の一件です。伯爵が失脚したことで、彼が握っていた裏帳簿や違法取引の証拠が明るみに出たのですが……その処理が追いつかず」
部下はキースに泣きついた。
「閣下! 戻ってください! 貴方がいなければ、書類の山が片付きません! それに国王陛下も『キースはどこだ! あの男がいないと会議が進まん!』と癇癪を起こしておられます!」
「……知らん」
キースは即答した。
「……俺は忙しい」
「何にですか!?」
「……庭の草むしりと、明日のパンの仕込みだ」
「パン!? 閣下、正気ですか!? 国家の危機とパンの発酵、どちらが大事なのですか!」
「……パンだ」
キースは真顔で言い切った。
「……ルシアンは、朝はパン派だ。……焼き立てでないと、機嫌が悪くなる」
「私のせいにしないでください!」
ルシアンは叫んだ。
「でも、確かに焼き立ては美味しいですけど……って、そうじゃなくて!」
ルシアンは居住まいを正し、キースに向き直った。
「キースさん、帰ってください」
「……嫌だ」
「子供みたいなことを言わないで。貴方には貴方の責務があるでしょう? こんな森の奥で、私のお守りをしている場合じゃありません」
「……ここが、最重要防衛地点だ」
「違います。ただの古びた別荘です」
キースは立ち上がり、ルシアンに歩み寄った。
その威圧感は、確かに「騎士団長」のそれだった。
「……国を守る人間は、他にもいる」
彼はルシアンの前に片膝をつき、その手を取った。
「……だが、お前の静寂を守れるのは、俺しかいない」
「……ッ!」
部下が見ている前で、なんという口説き文句を。
ルシアンの顔が赤く染まる。
「そ、そんなことを言っても、仕事はどうするのですか」
「……テレワークにする」
「は?」
「……書類はここに持ってこさせろ。……指示は手紙で出す。……緊急時は『影』を飛ばせ」
キースは部下を睨みつけた。
「……それで回せ。……できないなら、全員クビだ」
「そ、そんな無茶な……!」
部下は涙目になったが、キースの目が「これ以上反論したら物理的に黙らせる」と語っていたため、諦めたように肩を落とした。
「……承知いたしました。では、至急、執務室(仮)を設置させていただきます」
「……静かにやれ。……ルシアンの読書の邪魔をするな」
「はっ!」
部下は煙のように消えた。
……と思ったら、数分後、数十人の黒装束たちが「音もなく」現れ、別荘の地下室に大量の書類や通信機器を運び込み始めた。
ササササッ……。
足音一つ立てない、プロの引っ越し作業。
「……なんなの、これ」
ルシアンは呆然と眺めていた。
静かな森の別荘が、いつの間にか国家の秘密支部に改造されている。
「……これで解決だ」
キースは満足げに頷き、再びエプロンの紐を締め直した。
「……さて、皿を洗うか」
「解決していません! むしろ事態が悪化しています!」
ルシアンは抗議したが、キースは聞く耳を持たなかった。
「……ルシアン」
「なんですか」
「……俺が『影の英雄』だろうが、何だろうが」
彼は振り返り、いつもの無愛想だが優しい目で言った。
「……ここでの俺は、ただの『同盟者』だ。……それ以上でも、それ以下でもない」
「……」
「……だから、気にせずこき使え」
そう言って、彼はキッチンで鼻歌(音程のないハミング)を歌い始めた。
ルシアンは大きなため息をついた。
(……敵わないわ)
国家権力を私物化してまで、一緒にいたいと言うのだ。
その重すぎる執着と、不器用な献身に、ルシアンの心はまた少し絆されてしまった。
「……分かりました。では、お昼はパスタでお願いします。英雄様」
「……任せろ」
平和な昼食の準備が始まる。
その地下では、数十人のエリート工作員たちが、悲鳴を殺しながら書類仕事に追われていることなど、ルシアンは知る由もなかった(いや、薄々気づいてはいたが、静かだから無視することにした)。
だが、この「秘密基地化」が、新たな訪問者を招くことになる。
「ここが『影』の拠点か……」
森の入り口に立つ、次なる影。
それはただの野次馬ではない。
「静寂」を揺るがす、本物の「聖地巡礼者」たちが集結しつつあった。
テーブルには、ふわふわのオムレツと、カリカリに焼かれたベーコン、そして湯気の立つコーヒー。
ルシアンは幸せを噛み締めていた。
アランとミナという『二大騒音源』が去り、森には再び平穏が戻ってきた。
鳥のさえずりと、ナイフとフォークが皿に当たる音だけが響く、至福の時間。
「……キースさん」
「……ん」
「今日のオムレツ、焼き加減が絶妙ですね。中がトロトロです」
「……火加減を調整した」
「貴方、本当に器用ですね。植木屋に大工に料理人……。一体いくつの副業を持っているのですか?」
ルシアンが何気なく尋ねると、キースはコーヒーカップを口に運びながら、視線を逸らした。
「……多趣味なだけだ」
「趣味でプロ級の腕前になれるなら、世の中の職人は廃業ですよ」
そんな軽口を叩き合っていた、その時だった。
スッ……。
音もなく、リビングの窓が開いた。
風ではない。
黒い影が、まるで煙のように室内に侵入し、キースの背後に膝をついたのだ。
「――ご報告に上がりました、閣下」
「!?」
ルシアンは椅子から転げ落ちそうになった。
「な、何!? 忍者!?」
現れたのは、全身を黒装束で包み、顔の半分をマスクで隠した怪しい人物だった。
しかし、その佇まいは洗練されており、ただならぬ殺気――いや、研ぎ澄まされたプロの気配を漂わせている。
(また不審者!? この家、セキュリティはどうなっているの!?)
ルシアンが叫ぼうとした瞬間、その人物は床に額を擦り付けるように平伏した。
「お食事中、大変失礼いたします。しかし、緊急事態につき」
その言葉は、ルシアンではなく、オムレツを食べているキースに向けられていた。
キースは眉一つ動かさず、咀嚼を続け、ゴクリと飲み込んでから口を開いた。
「……裏口から入れと言ったはずだ」
「鍵がかかっておりました」
「……ピッキングしろ」
「閣下の仕掛けた罠(トラップ)が怖くてできません」
「……修行不足だ」
淡々としたやり取り。
ルシアンはポカンと口を開けたまま、二人を交互に見た。
「あ、あの……キースさん? お知り合いですか?」
キースは面倒くさそうに溜息をついた。
「……部下だ」
「部下? 造園業の?」
「いいえ」
黒装束の男が顔を上げ、キリッとした目で答えた。
「我々は、王国諜報部・特殊工作班『影の騎士団』です」
「……は?」
「そして、こちらのキース様こそ、我らが団長にして、王国の裏社会を統べる『影の英雄』、キース・フォン・ハイデマン辺境伯閣下であらせられます!」
「…………」
ルシアンの思考が停止した。
辺境伯?
騎士団長?
影の英雄?
(この人が?)
ルシアンは目の前の男を見た。
エプロン姿(ピンク色のフリル付き、ルシアンが嫌がらせで渡したら普通に着てくれた)で、口元にケチャップをつけたままの男を。
「……嘘でしょう?」
「嘘ではありません! 閣下は十代の頃から戦場を駆け抜け、単身で敵将の首を取り、国内の反乱を未然に防ぎ、数多の暗殺計画を阻止してきた、生ける伝説なのです!」
部下が熱弁を振るう。
「その冷酷無比な仕事ぶりから、『沈黙の処刑人』『歩く要塞』『絶対零度の瞳』と恐れられ……」
「……おい」
キースが低い声で遮った。
「……喋りすぎだ。……舌を抜くぞ」
「ひっ! 申し訳ありません!」
部下は再び平伏した。
ルシアンは震える手でキースを指差した。
「き、キースさん……。貴方、そんなに偉い人だったのですか?」
キースは気まずそうに目を逸らし、ナプキンで口元のケチャップを拭った。
「……肩書きなど、飾りだ」
「飾りにしては重すぎます! 国の中枢じゃないですか!」
「……今は長期休暇中だ」
「休暇中に、公爵令嬢の別荘で屋根を直したりオムレツを焼いたりしているのですか!?」
「……有意義な休暇だ」
「国の損失ですよ!」
ルシアンは頭を抱えた。
ただの「無口なストーカー気質の隣人」だと思っていた男が、国家機密レベルの重要人物だったとは。
「それで、その『影の騎士団』の方が、何の用ですか?」
部下が顔を上げる。
「はい。実は……王都が混乱しておりまして」
「アラン殿下の件?」
「いえ、それもありますが、ガルシア伯爵の一件です。伯爵が失脚したことで、彼が握っていた裏帳簿や違法取引の証拠が明るみに出たのですが……その処理が追いつかず」
部下はキースに泣きついた。
「閣下! 戻ってください! 貴方がいなければ、書類の山が片付きません! それに国王陛下も『キースはどこだ! あの男がいないと会議が進まん!』と癇癪を起こしておられます!」
「……知らん」
キースは即答した。
「……俺は忙しい」
「何にですか!?」
「……庭の草むしりと、明日のパンの仕込みだ」
「パン!? 閣下、正気ですか!? 国家の危機とパンの発酵、どちらが大事なのですか!」
「……パンだ」
キースは真顔で言い切った。
「……ルシアンは、朝はパン派だ。……焼き立てでないと、機嫌が悪くなる」
「私のせいにしないでください!」
ルシアンは叫んだ。
「でも、確かに焼き立ては美味しいですけど……って、そうじゃなくて!」
ルシアンは居住まいを正し、キースに向き直った。
「キースさん、帰ってください」
「……嫌だ」
「子供みたいなことを言わないで。貴方には貴方の責務があるでしょう? こんな森の奥で、私のお守りをしている場合じゃありません」
「……ここが、最重要防衛地点だ」
「違います。ただの古びた別荘です」
キースは立ち上がり、ルシアンに歩み寄った。
その威圧感は、確かに「騎士団長」のそれだった。
「……国を守る人間は、他にもいる」
彼はルシアンの前に片膝をつき、その手を取った。
「……だが、お前の静寂を守れるのは、俺しかいない」
「……ッ!」
部下が見ている前で、なんという口説き文句を。
ルシアンの顔が赤く染まる。
「そ、そんなことを言っても、仕事はどうするのですか」
「……テレワークにする」
「は?」
「……書類はここに持ってこさせろ。……指示は手紙で出す。……緊急時は『影』を飛ばせ」
キースは部下を睨みつけた。
「……それで回せ。……できないなら、全員クビだ」
「そ、そんな無茶な……!」
部下は涙目になったが、キースの目が「これ以上反論したら物理的に黙らせる」と語っていたため、諦めたように肩を落とした。
「……承知いたしました。では、至急、執務室(仮)を設置させていただきます」
「……静かにやれ。……ルシアンの読書の邪魔をするな」
「はっ!」
部下は煙のように消えた。
……と思ったら、数分後、数十人の黒装束たちが「音もなく」現れ、別荘の地下室に大量の書類や通信機器を運び込み始めた。
ササササッ……。
足音一つ立てない、プロの引っ越し作業。
「……なんなの、これ」
ルシアンは呆然と眺めていた。
静かな森の別荘が、いつの間にか国家の秘密支部に改造されている。
「……これで解決だ」
キースは満足げに頷き、再びエプロンの紐を締め直した。
「……さて、皿を洗うか」
「解決していません! むしろ事態が悪化しています!」
ルシアンは抗議したが、キースは聞く耳を持たなかった。
「……ルシアン」
「なんですか」
「……俺が『影の英雄』だろうが、何だろうが」
彼は振り返り、いつもの無愛想だが優しい目で言った。
「……ここでの俺は、ただの『同盟者』だ。……それ以上でも、それ以下でもない」
「……」
「……だから、気にせずこき使え」
そう言って、彼はキッチンで鼻歌(音程のないハミング)を歌い始めた。
ルシアンは大きなため息をついた。
(……敵わないわ)
国家権力を私物化してまで、一緒にいたいと言うのだ。
その重すぎる執着と、不器用な献身に、ルシアンの心はまた少し絆されてしまった。
「……分かりました。では、お昼はパスタでお願いします。英雄様」
「……任せろ」
平和な昼食の準備が始まる。
その地下では、数十人のエリート工作員たちが、悲鳴を殺しながら書類仕事に追われていることなど、ルシアンは知る由もなかった(いや、薄々気づいてはいたが、静かだから無視することにした)。
だが、この「秘密基地化」が、新たな訪問者を招くことになる。
「ここが『影』の拠点か……」
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